折旅 (10)
どうしたって、この胸騒ぎは抑えられそうにない。
この客情は、既に彼女への恋慕にて溢れかえっていた。たじろぐ私に救済の手を差し伸べた彼女は、もはや救世主以外の何物でもない。幻想的なぐらいの具象は、私の慢性的な懈怠責任からの脱却を導いた。それは大躍進・邁進に直結し、人生そのものを一新させた。勿論だが、誰かから慫慂された訳じゃない。自発して運命を穿ち、そして緩慢な死海から擺脱したのだ。また、この擺脱も勝手に運命が差ししめた訳では無い。自身の頓知を何より信じ、そしてここまで誰の後押しも無しに彼女とのコネクトを果たしたのだ。
「最高の旅だった...。」
神が、私たち二人で到達するチャペルを設えたように感じた。これを僥倖と言わず何と言う。
「さて、いつにかけるべきか...。」
矮小で下劣な世界だけを映すこの電子機器は、ようやっとマトモな度量を手にした。理由は今更語るまでもない。私は貴方達の見知らぬ場所で、とうにただの不登校生を超越したのだ。私は、高邁な彼女に見事近づく事ができたのだ。どうだ、見たことか。
「ふう...。」
かえって言えば、空谷の跫音に地獄耳になるだけの孤寂な私がまだいたと捉えられる。この慢心が刻まれた黥面を見れば、その事は火を見るより明らかなのだ。やはり交流がない限り、人は生を得る事もままならないのだなと、そう感じた。
「然し、とんだ奇跡だ...。」
「大したスキルも持っちゃいないのに、こんな凄いものをゲットできるだなんて...。」
彼女の外面、内面は美人だなんて容易い言葉で言い表せない程に清らかであった。あくどい言い回しにはなるのだが、彼女はある意味、聖人と愚人の区別を熟していない。敷衍すれば、いつか誰かに騙されるんじゃないかと、そのぐらいに清らかな人だった。それでいながら、私に対し屈託のない笑顔を見せつけた。それは自身が幸福を通暁している運命を歩いている何よりの証拠。あの南の鄙には、正しき青春が染み付いていた所以が少しばかり分かってしまった気がした。叶わぬ願いであるとは知っている。ただ、どうせならあの場所で生まれ、そして今まで育っていたかった。ここに居住していたのなら、私は、今も普通に登校ができていた。私を見守る人間がいた。そして、私に寄り添う人間がいた。気づけば私は、人どころか、あの場所にすら深い羨望の眼差しを向けていた。
然し、このまま進んで行っても本当に良いのかという疑問もある。十分なぐらいの安らぎを得られた訳だ、ここらで止そうという選択もアリっちゃアリだ。高嶺の花である彼女を手に入れる事は、私が重刻な臟罪を仂いた事と同義ではないのか。軽薄な態度で彼女に近づいた事は、かえって周囲の人間への貶称にあたっていたのでないのか。
見て分かる通り、私の不信は決まって他人へと向けられていました。然し、それぐらい私は、彼女に対し全幅の信頼を寄せていたのです。相互が了承し合って、初めての接続を果たしたのだ。これは紛れもない正しき人生だ。これを悪だと喚くのならお前は一体なんだと言うのだ。手段に誤りがあったとでも言いたいのか。または、存在そのものを否定するのか。それこそ意味のない貶称ではないのか。何も道を踏み外しちゃいないんだ。お前らに何と言われようと、私は彼女との2人の道を進み続けるだけだ。所詮、欲求から目を背けている癖にうだつの上がらない快感に固執するしかない愚人なんだろう。それが自身の怠惰の結集であると知りながら、それをするしかないのだろう。悲愴的な人生を送っている事は大変お労しく思う。だがそれを他者に転嫁するのはお門違いだろう。お前らは常に語る。幸福の指標は各々違うと。ならば他者の幸福に口出しする権限なんぞある筈はないだろう。それをより幸福に感じ、ましては悪事に手を染めていないというのなら尚更だ。それこそ苦言を呈し、蒲魚ぶるお前らこそが立派な悪だ。私はもう違うのだ。確実に離れたのだ。これからの晴れやかな舞台を目指し、邁進を続けていくのだ。2人だけの肇国を完成させる為に、徹底的な超然主義を列挙するのだ。勘違いしないで欲しいが、何も軛を争うつもりは毛頭ない。ただ愚論をわざわざ聴いてあげる程、私はもう怯懦な子供ではないという事を是が非でも肝に銘じて欲しいだけだ。善悪に固執する思考の果て、一番近くにいる人の心に漬け込んでしまうのが結果なのである。傍らに居続ける事を、人々はそれを正義と言う。この論理において、酷く歪曲されてある部分はまず存在しない。そうだ、これは正しい論理なのだ。然し、世界はそれを未熟と示す。これも歪みのない確固たる事実。そう、これもまた正しい論理なのだ。
「...さ、今日はもう寝よう。」
十分に疲弊した。これ以上ないぐらいに有意義な1日であった。私の糞便すら取るに足らない下落した人生は、この捲土重来の為であったのかと思うと、なんだか自身を恨めしく思う事も薄れていった。むしろ本当に良かった、とも思えてしまう。それぐらいに、私は彼女との邂逅に歓喜し、救済されたのだ。さあ、冷笑への静かな反旗はこのぐらいで十分でしょう。
「...おやすみなさい...。」
そうして私は、明日の曙光に会う為の支度を完了させた。然し、今日以上におやすみと告げる事を躊躇した日はないだろう。これからもこの感覚が襲ってくると考えると、どうしても少しの恐怖を覚えてしまう。いずれ明日が襲来する事は分かっている筈なのに、早急に寝てしまえばいいだけなのに、ほんと、どうしてなんだろうね。
「...おはよ〜っ。」
「...あれ...。」
日付は変わり、新しい朝が到来しました。生憎ですが、本日はどうやら雨天のようです。さっき朝って言ったけど、これじゃ朝なのか昼なのか夕方なのか、これじゃ全く分かんないね。
「...僕、おはようって言ったけど...誰に...?。」
雨天とかそういう話はさておきとして、そう、そうなんですよ。さっきちゃんと言ったんですよ。おはようって。いや、特段おかしい訳じゃないんですけど、でもおかしくないですか?。流石におはようおやすみぐらいは言いますよ。でもおはようって、言うなれば始まりの挨拶な訳じゃないですか。普通は誰かに対して言うものなんですよ。なんで僕しかいないって分かっていながら言ったんだろう。今おはようって言っても、返ってくる訳ではないっていうのに。まぁ多分、お母さんがいると思って、間違えて声を大にして言っちゃったんでしょう。多分今日は、いつもより早く起きれただろうし。
「あー朝飯朝飯〜...。」
いつまでもこうしちゃいられません。まずはもうすぐ来る厳しい空腹を埋める事が先決です。私はすぐにバッと立ち上がりました。皆さんが思っている以上にバッっとです。それぐらい朝ご飯を食う事が重要なんですからね。
「...あいった!。」
突如として、足の裏に絶妙な痛みが襲ってきました。いつもだったら何とも思ってないレベルなんですが、流石に寝起きなんて痛みには敏感です。凄くビックリしました。なんだなんだって、やけに過敏になっちゃってます。私は、まだ扱いきれてない機械を操縦するかのように、精密に足の裏を見ようとしました。この痛みの正体をまずは暴こうとした訳ですね。朝ご飯食べようって思ったらいきなり痛ってなった訳ですからね、もうすごく気分悪いですよ。朝からイライラさせるなんて、なんて罪深い物体なんでしょう。ほんっとに許せないです。画鋲とかだったら捨てますからね。
「...あっ、ただのゴミだったや。」
「...へへっ。」
さて、ここで皆様には謝らなければならない事があります。今まで一切触れていなかったんですが、その、私の部屋って、その、あんまり綺麗じゃないんですね。というのも、その、片付けがちょっと苦手というか面倒というか。とにかく部屋がちょっと汚かったんですね。まぁその、昨日の状態から見てもあんま部屋を掃除してないんだろうなって思った方もいるかもしれないんですけど、とにかくはそういう事なんです。あーでも、ゴミとかはちゃんと分けて出してますよ。確か燃えるゴミとペットボトルで分ければ良いんですよね?。いっぱいあったと思うんですけど、確かそれでOKだった筈なんです。だから生活においてそこまで重大な被害が出てる訳じゃないですよ。でも部屋汚いって、他人からすればもう幻滅もんですよね。その点は本当にごめんなさい!。いつかちゃんと綺麗にさせますから!。
「ささっ、ご飯ご飯っ!。」
「急がなくっちゃな〜。今日は重要な日なんだから!。」
ゴミの件は一旦置いておくとして、さっきも言った通り、まずはご飯です。これからの用事をトンデモ空腹と肩を並べて行う訳には行きません。やっていけません。死にます。だからまずは食べなければなりません。
「いただきまーす!。」
「...ごちそうさまでした〜!。ささっ急げ急げ〜!。」
時間は大体8:30って所。食べてる間に時計見て分かったんですね。いやはや、長年の勘ってやっぱり凄いですね。ちゃんと早起きできてましたよ。あっ、何食べたかはもう端折りますよ。そこまで含めるとキリがないんで。というか、そんな事言ってたら間に合いませんからっ!。
「はぁ...はぁ...。」
伏線って訳では無いんですが、今日は大事な用事があるんですね。とは言っても、昨日まではそもそも無かった用事なのですが。でも正直、僕が旅をするって言うのよりもデカい事案だと思いますよこれは。僕の事見たら、皆ビックリするんじゃないですかね。
「はぁ...はぁ...着いたぁ〜!。」
さてさて、ちょっとした雑談をしていたら目的の場所に到着したみたいです。にしても、8時半から急いで行かないといけない場所って、一旦どこなんでしょうね。いつもの僕だったらまだすやすや寝てる時間帯です。こりゃ難しいですよ。皆さんにちょっとしたクイズを設けましょう。僕は一体どこに向かったんでしょうか。
「久しぶりに見たよ〜。中学校だなんてぇ。」
答えは、自分が今在学している中学校でした。え?、“シンキングタイムが無さすぎる“ですか?。別にクイズって言わなくても前もって考える時間は設けていましたよ。
「いやー。僕が登校しただなんて皆からしたら大ニュースみたいなもんだよ。どんな顔するんだろうな〜。」
そんな事はさておき、まずは教室に入り、授業を受けるのが先決です。ただでさえろくに学校に来てなかった訳ですから、流石にちょっと緊張しちゃいますね。今何の範囲やってるんだろう?。担当の先生変わってないよな?。頭の中には様々な疑問が交差します。ですが、それは悪いものなんかではありません。良いものなんです。自分が普通の学生に戻る過程に対する、ちょっとした希望と期待なんですよ。
仮にですが、さっき言った疑問、どっちもあたってたとしても、うわーマジかー。でも今の今まで不登校貫いてたもんな、そりゃ分かんないか。頑張ろ。ってなるんですよ。なんでか分かりますか?。答えは簡単。僕が昨日、彼女と出会ったからなんです。僕は彼女といっぱい話し合って、色んな事を教えてもらいました。それは中学でやる授業範囲もそうだし、人間関係もそうです。彼女から明確なアドバイスを受け、そして僕を認めてくれたからこそ、僕は彼女の言葉を何より信じているんです。この気持ちを言語化できる程、僕はあんまり頭が良くないです。でも本当に信じれるんです。特別っていう感情が、彼女には何より感じられたんですよ。だから僕はこうして、長らく避けていた中学校に訪れたのです。ビクビクしながら来るんじゃなく、肩で風を切るようにこうして走ってきたのです。端から見たら、ちょっと素行の悪いただの中学生に見えるように。僕は自分の殻を破った事、自身の大成長を、堂々と皆に知らしめたのです。僕はもう弱くありません。
「...。」
「...流石に授業始まってたか。」
「でもやっぱ綺麗だよなぁ。うちの学校。」
私は相も変わらず忙しない態度で下駄箱に訪れました。うちの母校、すんごい綺麗で下駄箱から当たりの学校って言うのをしみじみと感じさせてくれるんです。とは言えど、昨今の少子化に伴う学校の合併で建設されただけに過ぎないのですがね。だからそもそも学校が若いのです。だから下駄箱からとても綺麗に見える訳なんですね。敢えて言いますけど、そんじょそこらの私立学校よりもずっと綺麗なんじゃないですかね。
「まぁ...しれーっと言ったら何とかなるかな...。」
時刻はもう言わないです。下駄箱のこの静粛さが、私が今どういう状況に立たされているのか。というのをはっきりと示してくれていますからね。さて、早速大失態を犯してしまった訳ですが、まだ策はあります。先ほど申し上げた通り、遅刻したって周囲に悟られないようひっそりと教室に侵入する事、今なら多分、どうにかできる筈です。先生だって今は各々授業をする為に職員室から抜けている。つまり、休み時間と比べても職員室や校内は伽藍洞と化している筈。循環している先生なんぞ見たことないですし、教室まで行く難易度はぐんと下がっています。かえって言えば、今がチャンスなのです。授業には間に合っていないけど、今が好機なのです。
「よし...これならいけるぞぉ!。」
私は忍び足で教室までなんとか向かいました。一応、循環している先生はいるかもしれないので足音はなるべくたてないよう注意しないといけませんからね。いやはや、昨日でも十二分に足腰に負担をかけたというのに今日もですか。一歩一歩踏み出す度に、足の指がじわじわと痛んでいきます。もうほんとに攣る手前でしょう。でも堂々と歩いていって、僕を知っている生徒や先生に会えばそれも終わりです。歩行だけに、今は一歩間違えたら死って所です。僕はそーっと、そーっと教室の入り口に向かい歩行を続けました。
「いけるいける...。これいけるんじゃないか?!。」
「いよぉし...よしよぉし...。」
「...。」
目的地がもうすぐという所まで来ています。今の所何ら問題はありません。先生らしき人も全く見かけていません。教室に着いたら、こそーっと入って、しれーっと授業を受ければいいだけ。もうほぼ安泰です。ただ、ここが一番ヤバい所でもあるのです。ここで慢心せず、集中力を研ぎ澄ませばなりません。
「よし...よし...!。」
教室のドアに頑張って手を伸ばします。近くまで来てやれば良いのですが、それぐらい緊張がピークに達しているという解釈でもあるのでしょう。一刻も早くこの状況から解放されたいという思いで、僕の頭と体はこうして動いているんでしょう。
「...!。」
ドアに手を触れた瞬間、僕は何かに気づきました。
「あれ...上枝君...?。」