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僅かなレコーダーの音声が、短い記憶を鮮やかに蘇らせる。私は記憶の断片を探すように記録を見直した。ノートにはアナの家系図や家族のことなど私的なことまでメモしてあった。
『家系/貴族/子爵/娘Catherineキャサリン愛称Kateケイト/夫Alfredアルフレッド/不動産王・・・』
アナ・ローズは英国貴族の一員だ。有名な家ではないが、父親にはれっきとした称号があり、16歳過ぎたら国王に謁見するパーティー、デビュタントに出席しなければならない。社交界へのデビューで成人となる。
18歳でデビュタントに出席し成人となったアナ・ローズは、ファッション業界で働き始め、デザイナーになった。若い時から注目されていて、ディオールの専属デザイナーの時期もあった。しかし結婚を機に評論家に転向した。世間では才能が枯れたと揶揄する声もあったが、実際は結婚して創作活動が続けられなかったようだ。
「私には時間がなかったのよ。子供もできたし・・、デザインするには集中できる一人の時間がないと・・私だって作り続けたかった。」
アナの苛立った話しぶりを思い出す。雑誌の掲載記事には関係のないことなのに、私が世間話のつもりで彼女のキャリアについて聞き始めたのが良くなかった。彼女の機嫌を損ねてしまったようで気まずく、私は不注意な会話を後悔した。
でも私はそれと同時に、アナ・ローズともあろう人が、結婚のために自分のキャリアを犠牲にするのだと不思議にも思っていた。
『娘ケイトの父親はアルフレッド?』
アナの夫アルフレッドは、ヨーロッパの不動産王で富豪だった。もともと第二次世界大戦で富を得た資産家の家の人だったが、アルフレッドは家業を元手に一代で先代を超える財を築いていた。
インタビューに訪れていた一年の間、アナは数回、娘のところに数日訪問するという時があり、スケジュール調整をしたことがあった。しかし夫が同行することはなく、私はアルフレッドが娘や孫にあまりに無関心なのに違和感を覚えていた。
ある日、アナの家で何の気なしに手に取った美術本の裏表紙に『For Anna & Richard, wishing you a wonderful beginning』(アナとリチャードの門出に)というサインを見つけた。Richard? 聞き覚えのない名前だが、私は直接アナに質問する勇気がなく、会社に持ち帰って、下世話な好奇心から古参の編集者に尋ねてみた。
Richardリチャードはアナの最初の夫だった。ケイトはリチャードとの間にできた子供だったのだ。
その編集者は内輪のゴシップの続きもおしえてくれた。アナの娘ケイトはモデルをしていたが、イギリス人の実業家と結婚していた。私がインタビューしたときは33歳だったはずだ。彼女は30の時に子供を二人残して、イギリス人の売れない画家とタイに駆け落ちしたそうだ。
アナに会う前のイメージは、凛として動じず、言いたいことを歯に衣着せずに発言する女性だった。しかし実際は彼女にも血の通った生活がある。私は金持ちで何も不自由なことはなく、悠々自適なアナにそんな懊悩が隠されているとは知らず、彼女を見る目が変わったのを覚えている。彼女が少し身近に感じられた。
私は最初の夫リチャードとの離婚理由も、娘ケイトのことも気になったが、自分からはもう私的なことには触れずにいた。気性の激しい彼女が怒り出して、連載中止などになったら大変だ。