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部屋の隅々までくまなく探すと、クローゼットの奥に押し込まれたひと箱の段ボール箱から、当時の録音機と数冊のノートが出てきた。懐かしいICレコーダーが作動してくれるか心配だ。二十年経っても変わらず使えるだろうか。録音データは見つからない。レコーダーに残された音源しかない。私は念じるように再生ボタンを押した。
「・・・来月号から一年間の特集記事として、ミズ・ローズのファッション解説をお願いすることになっていますが・・・今月は色をトピックに・・・過去の流行から今年の流行色、ファッション業界の流れについて解説していただき・・・事前の打ち合わせ通りですが・・・」
二十年分若い私の声が、雑音が混じって状態の良くないレコーダーから、なんとか聞こえてきた。不思議にあの頃の情景が浮かんでくる。
月に一度、アナ・ローズ邸を訪ねては取材して記事を書いた。ロンドンにあるアナ・ローズの家は、年代物で豪奢だった。大きな玄関の扉を開けると吹き抜けのホールがある。その奥に階段があり、緑の植物で階段とホールが飾られていた。家の隅々まで彼女の目が行き届いているのがわかる。
部屋によってカラーが決められていて、私はいつもオフグリーンの壁の客間に通された。壁には美術館のように絵画が飾られ、調度品もオークションに出てきそうなものばかりだった。イギリス王室の家族が団らんするような部屋だ。
中央の暖炉の脇にある猫足のソファにゆったりと腰かけたアナは、私よりちょうど30歳上だから、あの時は58歳だったはずだ。
「絵真?私、支度はできた?」
麻子からの電話で私は二十年前から戻ってきた。
「えぇ、二十年前のインタビューの記録を見返しているところ。できるだけ調べてから行ったほうがいいかと思って。」
「あら、まだそんな昔の記録が残っているの?あんたにしては珍しいわね。」
麻子は私の捨てる癖を知っている。
「レコーダーとノートがあったから、今見返しているのよ。」
「流石、プロフェッショナルねぇ。」
「茶化さないでよ。」
「ははは・・実はね、本社から聞いているんだけど、アナ・ローズの体調はそんなに良くないらしいのよ。もう高齢だしね。」
「そうね、私が48なんだから、アナは78のはずよ。」
「・・ごめん、他の電話が入っちゃった。じゃあ、また連絡するわ。」
「うん、私も着いたら連絡する。」
78歳のアナ・ローズ。私には想像できなかった。初めて会った日のことを思い出す。
メイドに案内されて、私は彼女の前に立った。記者という仕事柄か、もともとの性分が図々しいのか、私は初対面の人に会っても緊張することはなかったが、アナ・ローズには独特の緊張感を感じた。
彼女は金髪のボブにサンローランのパンツスーツを着ていた。ピーコックグリーンの全身は、強烈な迫力があった。インタビューの最後まで、黒い大きな縁のサングラスを外すことはなかった。
「雑誌La Belle Vieベルヴィから来ましたエマです。初めまして。」
「お座りなさい。」
アナ・ローズの公式の笑顔は笑っていない。私はソファに腰掛けてメモと録音機を出した。そしてファッション業界の重鎮であるアナ・ローズを前に淡々と仕事を進めた。彼女は気品のあるイギリス英語で流麗に質問に答え、解説してくれた。
初回のインタビューが終わり、アナが去り際にかけてくれた言葉を思い出した。
「あなた、何て名前だったかしら?」
「エマです。」
「エマ、あなたは私に緊張しないのね。」
アナ・ローズは大きなサングラスの下で口角を少し上げて微笑んだ。
「えっ・・」
突然の脈絡のないアナの言葉に、私はすぐには返答できなかった。
「アナと呼んで。」
「はい・・・」
「来月、楽しみにしているわ。」
アナ・ローズは立ち上がると、紅茶カップをトロールに置いて部屋を出て行った。入れ替わりにメイドが部屋に入って来て、私を玄関まで送ってくれた。
私はそれなりに緊張していたが、アナにはどう見えたのか。いずれにせよ私は彼女に気に入られたように感じた。