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掌編「人生の名人」

作者: 有原野分

 右手をぼんやりと眺めていると、そこに刻まれている皴の数や形が面白く見えてくる。それは左手も同じことだった。

 ふと顔を上げると、空が見える。私はいつでも、空を見ることが好きだった。晴れていたら青くて美しい空に心を奪われて、曇っているのならその雲の形や色、流れていく様を見て楽しめた。

 雨が降れば、それはもはやエンターテイメントだった。空から一滴の雫が零れ落ちる。まるで不思議な現象ではないか。その雫が増えていく度に、景色は様変わりしていく。五感を刺激してくれる。水滴の落ちる音は心地よく、空気はひんやりとして気持ちがいい。静かに振る雨も好きだったし、嵐のように荒れる日も楽しかった。

 春は咲き誇る花を楽しめた。夏は暑い日照りが面白かった。秋は冷たくなっていく風に木々の色鮮やかな景色が見飽きなかった。冬は、雪の冷たさに心はいつもワクワクした。

 自然は、その姿を一瞬たりとも同じにはしてくれない。だから、私はいつまでも見ていられることができた。

 そのおかげで、人生は楽しかった。生きていることは、それだけで十分幸せだと思っていた。

 たとえお金がなくても、なにか口にできれば、そのかすかな味を楽しめばよかった。一人ぼっちで寂しい夜は、寂しいことを思う存分味わえた。そんなときは一人で夜の散歩になんか出かけると、星空が驚くほどキレイなときもあった。

 ただ、私はいつも周囲からバカにされていた。年を取れば取るほど、あいつはバカで、アホで、いつもぼんやりとしている間抜けなやつだと。

 確かにそうかもしれない。私は、ずっとぼんやりとしている。同じように生きているのに、周囲の人たちは本当にすごい人ばかりだった。

 他の人は、頭もいいし、運動だってできる。口も達者だし、お金もたくさん稼いでいる。本当にみんな器用で、裕福で、豊かな人ばかりだった。でも別に、私は羨ましくもなんともなかった。

 生きていく上で、多少のお金があればそれでよかった。雇用形態もなんでもよかった。むしろどんな仕事であれ、なにかの役に立つと思えば楽しくなったし、汗水流して働くのはそれだけで心地よかった。その楽しいとか面白いという感情が、私にとって働く意味だった。だから、お金が少しでももらえると、それはもう堪らないぐらい幸せなことだった。

 ある日、家でぼんやりとテレビを見つめていると、司会者の人が言った。人間、ただ生きているだけではつまらない。なにかしら勉強をしっかりとして、せめて名人と言われる肩書きが一つぐらいないと、それは生きてきた意味がないのではないか? と。

 どうやらその日から名人ブームが起きたらしく、私の周りの人たちはより一層忙しく働いたり、新たな勉強を始めたり、スポーツに打ち込むようになった。

 私はそれをずっと横目で見ていた。それはいくら見ても飽きなかった。まるで空のようだと思った。思えば、人間も自然の一部なのだ。しかも、考えて動く自然なのだ。面白くない訳がない。

 それから、私の人生はさらに楽しくなった。毎日朝起きてから眠るまでが幸福に包まれていた。もちろん、ときには揶揄われたり、バカにされたりして嫌な目にもあったが、その嫌なことですら、考えようによれば十分に面白い出来事だった。

 私は、自分の心をいつも観察していた。悲しい心もあれば、腹の立つときもあったし、むしろそれが自然だった。

 だから、川のように移ろいゆく心の様子も、最高の娯楽でしかなかった。わたしは、自分の心を、とても大切にして生きてきた。

 気がつけば、周りには名人が溢れていた。しかし、その誰もに悲壮感が漂っていた。お互いになんの名人かを自慢し合い、マウントを取り合う風景が当たり前になってきた頃、私はついに老衰で倒れてしまった。周囲の人は、結局アイツはなにも学べなかった無能な人間だと言っているが、それは違った。

 私は、どんな困難にも、どんな辛い状況にも、楽しみを見出せた。どんな理不尽なことをされても、笑って過ごすことができた。空を眺めたら、それこそ一日があっという間に過ぎていった。季節が流れていくだけで、私は窓辺に座ってその移ろいゆく様を存分に楽しめた。

 そうだ、いうなれば私は、人生の名人なのだ。きっと誰よりもこの人生を楽しんだと思う。そしてその人生が今こうして終わるとき、私はその終わりですらも面白くて仕方がなかった。

 気がつくと、私は涙を流していた。その涙は、私の頬を滑り落ち、枕の上にぽとっと落ちた。その瞬間、私にはあの雨の音が聞こえた気がした。

 もし、次に新しい世界があるとしたら、それはどんなところなのだろうか。目をつぶると、まぶたの裏にはあの空が広がっていた。それはどこまでも青くて、どこまでも美しかった。


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