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第四章

第四章です。

 放課後。空が東の方から茜色に染まり始め、クラスの皆は帰り支度や、部活へ行く準備を始めている。

「恋華。帰ろう」

 恵が声をかけてくる。そういえば、朝のこと説明するって言ったな。

「りょーかい。ちょい、待ってな」

 急いで教科書をカバンに詰める。席を立ち、ある場所へと向かう。

「ねえ。恋華。どこに行くの?」

「少し待ってて」

 恵をアタシの席で待たせ、足を進める。

 どうしても、毎回声をかけるタイミングは緊張する。手汗がすごい。

「か、葛城くん」

「霧島さん? どうしたの?」

 目的の場所、葛城くんの席に着く。いつも通り、しゃべる時はカミカミだ。

「あ、あの、きょ、今日はちょっと、恵と用事があ、あるので、あ、明日、よければ、一緒に帰りませんか?」

 体が熱い。彼の顔が見れない。断られたらどうしようと、不安が押し寄せてくる。

「……うん。いいよ」

「っ! あ、ありがとうございます!」

 断られなかった。その事に安堵の息を漏らす。

「……あのさ、良かったら、明日の朝、一緒に学校行かない?」

「え!? い、いいんですか……?」

 葛城くんから思いがけない提案が出てきて、心臓が跳ね上がる。

「うん……。正直、一人で学校行くの少し怖いし、霧島さんがいれば、安心できるし……」

 最後の言葉を聞いて、頬がどんどん緩んでいくのがわかる。

 ――霧島さんがいれば、安心するし……。

「は、はい! 一緒に行きましょう!」

 彼女がここまで信頼してくれた。それだけで、胸が躍る。気が昂ぶる。

「うん。清沢さん待たせてるでしょ? 早く行ってあげな?」

「あっ、そ、それじゃ、葛城くん。ま、また明日」

 急いで、恵の元へ戻る。

「愛しの葛城くんとの会話は楽しかった? 霧島さん?」

「ご、ごめん」

 つい、葛城くんとの会話に花を咲かせてしまい、途中から恵のことを忘れてしまっていた。

「まあ、いいや。それより早く帰ろう」

 そう言うと、アタシの前を歩き出す恵。

 そのまま下駄箱まで行き、上履きからローファーに履き替え、外へ出る。

「それで、朝、葛城くんと何があったんだ?」

 校門を抜けると、恵が口を開く。

「そうだな……簡単に言えば、アタシの答えを伝えただけだ」

「答え……聞かせてもらってもいいか?」

 昨日の屋上のときのように、真剣な声で問いかけてくる。

「アタシは、葛城くんを助けることはできない。だけど、一人にしないことはできるって」

 あまり褒められた答えではないだろう。もしかしたら、恵からは責められるかもしれない。

 それでもアタシが悩んで、苦しんで出した答えだ。どう言われようと、今のアタシにはこれぐらいしかできない。

 恵は、何かを考えているように黙っている。

 彼から出る言葉が、少し怖い。

「……そっか。あんたらしいかもね」

 返ってきた言葉は、アタシの予想とは違う、肯定に近い言葉だった。

「アタシらしい……?」

「ああ。できないのに、どうにかやろうとして足掻いて、自分にできる今一番の答えを出す。恋華らしいよ」

 アタシはいつも、そんな感じなのだろうか。今までの自分の行いを振り返っても、それらしいものは、記憶になかった。

「それでいて、その答えは、一人にだけ優しくて、すごく安心できる答えだよ。きっと、あんたが答えは、今の葛城くんには本当に心の拠り所になってると思う」

 空を仰ぎながら、そう言う恵の顔は、柔らかく綻び、遠いものを見るように目を細めていた。

「本当にそうなれてるかな……」

「大丈夫。今の葛城くんには、恋華が絶対に必要だと思うよ」

 いまいちピンとこない。

 信用はされているはずだ。だが、心の支えになれているかどうかはまだ、自身がなかった。

「そういえば、さっき葛城くんと何の話をしてたのー?」

 いつも通りの恵の口調に戻り、話を変えてくる。

「いや、明日の朝と放課後、一緒に登下校する約束をしただけだよ……」

 今、思い出してもニヤケがとまらなくなりそうだ。

「うっわ、恋華。今すっごいキモイ顔してるー」

「うっさい! しょうがないでしょ。……嬉しいんだから」

 自分の思いに気づいてから、葛城くんと一緒にいれるだけで、すごく満たされた気分になる。

 最初のころは、ただヘマをしないように緊張して、褒められたり、嬉しいことを言われたときは、素直に喜んでいるだけだった。

 でも、今は違う。

 彼の一つ一つの仕草や、表情。それらを見るだけで、アタシの感情までが変わっていく。

 笑顔のときは、こっちも笑顔になれる。暗い表情のときは、心配になる。泣いているときは、その泣かしたものに怒りを覚える。

 そんな彼の行動に、一喜一憂するアタシがいる。今はそれが楽しい。

「マジ……。恋華が素直だ……。しかも、恋する乙女みたいだ」

「待って。誰が乙女よ」

 信じられないものを見るような目で、こちらを見てくる恵。

 その顔に一発入れたくなってくる。

「まあ、でも、今の恋華。すごくいいと思うよ?」

「え? なに? まさかアタシのこと好きなの? ちょっと女は無理です」

「違うから!」

 軽口を叩き合いながら、完全に茜色に染まった帰り道を歩く。

 恵といるこの時間は、葛城くんと一緒にいるときとは別の意味で好きだ。

 楽で、ありのままの自分でいられる。家以外では彼女の隣だけだろう。

「ありがとう。恵」

「……うん。なんせ、あんたの親友だからね」

 いつものお決まりを言い、アタシたちは足を進めた。


***


「ただいま」

 扉を開けると、家に明かりがついている。

「おかえり。恋華」

「最近早いんだね。母さん」

 今日も母さんは早く帰ってきたらしく、格好が、いつものラフな部屋着だ。

「ええ。仕事の方もだいぶ落ち着いてきたからね」

「そうなんだ」

 確かに、前までは帰ってきても、疲れたような表情をずっと浮かべていた。

 それが近頃は大分、余裕があるように見える。

「どうだった? 学校は」

「……予想通りのことになってたよ」

 先ほどまでの学校のことを思い出す。

 葛城くんの孤立。クラスの見て見ぬ振り。どれもこれも、昨日、アタシと恵が話した通りになっていたことを母さんに話す。

「そっか。それで、恋華は葛城くんに対してどんな答えを出したの?」

「やっぱりアタシには、葛城くんを助けることは出来ない。でも、一人にしないことはできる。葛城くんの傍にいるって、味方でいるって。そう伝えた」

 アタシの答えを伝えると、母さんは口元を緩め、こちらに歩いてくる。

「良い答えね」

 それだけ言ってアタシの頭を撫でてくる。

 何時ぶりだろうか。撫でられるのは。久々の母さんのぬくもりにくすぐったくもあるが、それ以上に嬉しかった。

「でも、これからが大変よ? ちゃんと葛城くんの傍にいるように付き添ってあげないと」

「大丈夫。アタシは一人じゃないから」

 アタシには、葛城くんもいる。そして、その関係を支えてくれる恵もいる。

「……大人になったわね」

 撫でるのを止め、母さんはアタシをじっと見てくる。

 その瞳はなぜか潤んでいる。

「そう、かな」

「ええ。向かう方向は違うが、お父さんさんに良く似たしっかりとした信念が、恋華にもあるよ」

 素直には喜べなかった。

きっと、母さんのその言葉は褒め言葉として言ってるんだろう。

 でも、アタシにとって『母さん』という言葉は大嫌いな言葉で、その言葉と比べられるのは好きじゃない。

 アタシを、アタシたちを捨てたあの人と比べられるのは。

「どうしたの? 恋華」

「いや、なんでもないよ。そろそろ夕飯作るね」

「ええ。今日も手伝うわ」

 そうして、夕飯の準備を始めた。

 先ほど、母さん言われたことを、頭の片隅に置き、料理を始める。

 過去のことよりも、今のことを考えよう。

 そう思いながら、包丁を振るった。


***


 夕飯を食べ終え、風呂から出ると、部屋に戻ると、スマホが鳴っている。

 ディスプレイを見る。知らない番号だ。

「もしもし?」

 通話のボタンを押し、電話に出る。

「あっ、霧島さん? 葛城です」

「か、かか、葛城くん!?」

 スマホから聞こえてきたのは、聞きなれた彼女の声。

「な、なんで、アタシの番号を?」

「清沢さんから聞いたんだ。明日の朝の待ち合わせ場所、決めてなかったからさ」

 それを言われて思い出す。

「そ、そういえばそうだったね。ごめん、気づかなかった……」

「ううん、大丈夫だよ。それで、どこで待ち合わせする?」

 どうしようか。アタシも葛城くんもお互いの家を知らないから、家に迎えに行くのは無理。かといって、アタシと葛城くんの両方が知っているちょうど良い場所なんて……。

「あっ、あの十字路……」

 アタシと葛城くんが一緒に帰ったときに、別れたあの場所ならちょうど良い。たぶん、お互いの家の中間地点くらいだろう。

「十字路って、この前霧島さんと一緒に帰ったときに、別れた場所?」

「覚えてて、くれたん、ですか?」

 胸がキュッと締め付ける。覚えててくれた。アタシと一緒に帰ったあの時のことを。

「そりゃ覚えてるよー。そんなに昔のことじゃないしね」

 葛城くんの言葉に、肩を落とす。自分の浮かれっぷりに恥ずかしくなる。

「そこなら俺の家から近いから良いね。じゃあ、明日、そこに八時くらいに集合でいい?」

「は、はい」

「ん? どうかした? 元気なさそうだけど?」

「い、いや、な、なんでもないです」

 あの妄想を話せるわけが無い。恥ずかしすぎる。

「そう? じゃあ、また明日ね。あっ、あとこの番号、登録しておいてね」

「は、はい! しっかり登録しておきます!」

「それじゃ、また明日ね!」

 そういって、通話が終わる。

 思わぬ形で葛城くんの番号を手に入れることができた。これはお気に入り登録に設定しないと。

 登録が終わると、スマホを枕元に置く。

 ベッドに身を任せ、天井を見る。

 今日始まったこの関係。歪で、本当のことを隠して作られた仮初の関係。

 そんな関係でも、満たされているのがわかる。

 でもそれじゃ、アタシの求めるものじゃない。

 空に浮かぶ満月のように、何も欠けることなく、すべてが丸く、元の形に戻らなきゃいけない。

 それが、アタシと葛城くんの関係を変えてしまったとしても。

 彼女は今を望んではいない。なら、アタシは彼女の望むものを与えられるようにするだけだ。

 部屋の電気を消し、目を瞑る。

 ――明日、遅刻しないようにしないとな。

 いつもより早い時間だが、アタシは、夢の中へと意識を落とした。


***


 朝。いつもよりも少し早い時間だが、アタシは台所に立っていた。

「おはよう。恋華」

「おはよう。母さん。今日は早いんだね」

 最近はアタシが起こしに行かない限り、母さんはおきてこなかったのだが、今日は珍しく、一人で起きてきた。

 頭には寝癖を付けている。

「昨日の夜、いきなり電話が来てね。今日は早く来てくれってさ」

「そうなんだ。てか、寝癖、直してきて。すごいことになってるよ?」

「わかった」

 あくびをしながら母さんは、リビングを出て行く。ご飯が炊けたことを知らせる音が、炊飯器から聞こえてくる。

 おかずと、ご飯を机の上に並べる。

「いただきます」

 母さんはまだ、戻っていないが、先に朝食に手をつける。

「そういえば、恋華。今日はすごい早いけど、なにかあるの?」

 洗面所から戻った母さんが、椅子に座りながら聞いてくる。

「……うん。今日は日直なんだ」

 咄嗟に嘘を吐く。

「嘘ね」

 一瞬でバレた。

「はあ。葛城くんと一緒に登校するの」

「ほほう」

 ニヤケながら、こちらを見てくる。これが嫌だったんだよ。

 母さんはすぐに調子に乗る癖がある。アタシはそれがあまり得意じゃない。

「良い感じなのね」

「別にそんなんじゃないよ」

 実際そうだ。これがそういう系のことなら、アタシはもっと浮かれているだろう。

 時計を見ると、そろそろ家を出なければいけない時間だ。

「そろそろ行かなきゃ。食器は流しに置いておいて」

「わかったわよ。いってらっしゃい」

「いってきます」

 カバンを持ち、家を出る。

 相変わらず、朝なのに暑い。すぐにクーラーが恋しくなる。

 待ち合わせ場所に向かう足が、いつもより速く感じる。

 先ほど母さんにあんなことを言っておきながら、アタシ自身が少し楽しみにしている。

 そんなことを思っている自分が、嫌いだ。

 葛城くんが本当に望んで、一緒に登校したいわけじゃないのに。

「ふざけないでよ。アタシ……」

 気を緩めるとすぐに、浮かれたほうに持ってかれる。本当に弱い。

「霧島さん?」

 前のほうから声が聞こえる。

「か、葛城くん」

「うん。おはよう。霧島さん」

 いつの間にか、待ち合わせ場所に着いていたようだ。

 目の前にはいつもの笑顔を浮かべた葛城くんがいる。

「お、おはよう」

 またか。

 それなりの回数の会話をしてきているのに、アタシはまだテンパってしまう。

「じゃあ、いこっか」

「は、はい」

 葛城くんがアタシの前を歩いていく。

 そのすぐ横に並び、足を進める。

「隣に来てくれたんだね」

「え、えっとまずかったですか?」

「ううん。嬉しいよ」

 そう言って彼女はまた笑ってくれる。その笑顔にアタシの中が満たされていく。

「霧島さん。聞いてほしいことがあるの。あまり時間はかけないから」

 唐突にそんなことを言う葛城くん。

 そう言った彼女の顔は真剣な表情に切り替わっている。

「……わかった」

 そんな顔されたら聞かないわけにはいかない。

「ありがとう。霧島さん。そこの公園で話そ」

 通りかかった公園に入り、そこのベンチに腰を下ろす。

 深呼吸をして、「よしっ」と小さく呟くと彼女はしゃべりだした。

「俺ね、一人が嫌いなんだ。回りに誰かいないと怖くて、不安になる。だから、周りに良い顔して、男女問わず、できるだけ多く友達を作るようにしてた」

 今までのこと、そして、昨日のことを見ていれば、そのことは容易に想像できた。

「それで、昨日みたいに勘違いされて失敗しちゃった。でも、あれが最初じゃないんだ」

「最初じゃない?」

 たまらず口を挟む。初耳だ。ってことは。

「うん。中学でも同じ失敗してるんだ。俺」

 中学。アタシの知らないときの葛城くん。

「そのときも、同じクラスの女の子に告白されて、断ったら、逆恨みした男子たちからハブられるようになった」

 その時のことを思い出しているのか、表情が暗い。

「今よりも酷いいじめだった。普通に暴力も振るわれたし、物隠されたりとかもあった」

「葛城くん、キツかったらもう……」

 今にも壊れしまいそうだった。体は小さく震えている。両手で肩を抱いて、必死に震えを止めている。

「大丈夫。大丈夫だから、聞いて」

 うっすらと涙を浮かべている彼女の目は、しっかりとこちらを見ており、アタシはそれ以上何も言えなくなる。

「それでね。その時も霧島さんみたいにしてくれた子はいたんだ。その子は『絶対いじめはくいとめてみせる』って言ってたけどね」

 アタシと違う答え。その子はアタシが出来ないことをやろうとしたのか。

「でも、その子は俺と一緒にクラスの人にハブられるのが、怖くなっちゃったのか、やっぱり他の人たちと一緒で離れていったよ」

「なっ!」

 あんまりだ。きっとそのときの葛城くんにとっては、その人が心の支えで、希望だったかもしれないのに。

「それで、最初、霧島さんに強く当たっちゃったんだ」

「そう、だったんだ……」

 乾いた笑いを浮かべる葛城くんから、視線を外す。

 見ていられなかった。こんな彼女を。

「そ、それで、その後は、どうなったんですか?」

 噛みながらも言葉を紡ぐ。

 古傷を抉るようなことをしているのはわかる。

 でも、アタシはその先を知らなきゃいけない気がする。

「……いじめが起きたのが中二の最初の頃。それから卒業までずっと」

「そんな……」

 当時葛城くんをいじめていた奴らに怒りを覚える。

 ズボンを握っている手に力が入る。

 だけど一番腹が立つのは、葛城くんを裏切った奴だ。

 きっとソイツも葛城くんのことが好きだったんだろう。なら、なんで最後まで一緒に居てやれなかったんだ。

 ソイツが居ればもしかしたら、少しは結果が変わっていたかもしれないのに。

「これが俺が話したかったことかな。ごめんね。朝から暗い話して」

 またも、乾いた笑いを浮かべる葛城くん。

「……やめて」

「え? どうしたの? 霧島さん」

「……アタシが見たいのは、そんな笑顔じゃない」

 葛城くんの顔を見る。キョトンとした顔をしている。

「葛城くんには、笑っていて欲しい」

「え? 俺、さっき笑ったよ?」

「違うんだ……アタシはいつもの楽しそうな、明るいあの笑顔を見ていたい。今の辛そうな、無理して作っている笑顔じゃなくて」

 その言葉を言った瞬間、葛城くんの表情が大きく変わった。

 なんでわかったのかという驚きの顔。

「……すごいね。霧島さんは」

 すぐにいつもの表情に戻ると、空を見上げながら、そんなことを言う葛城くん。

 その目には、うっすら涙が浮かんでいるように見える。

「……うん。やっぱりこの想いは、勘違いじゃなかったよ」

「おもい?」

 なんのことを言っているんだろう。

「ううん。こっちの話。そろそろ学校行こうぜ?」

 ベンチから立ち上がり、アタシを見ながらそう言ってくる。

 その顔は、憑き物が取れたようにスッキリとしていた。

「そうだね。行こっか」

 ベンチから立ち上がり、歩き始める。

 もう彼女にあんな顔をさせたくない。

なら、これからアタシがやることは決まった。

ポケットからスマホ取り出し、メールをする。

 すると、すぐに返信が返ってくる。

「よっし」

 決意を固め、賑う通学路の人波の中、アタシは学校へと向かった。


***


あれから葛城くんとしゃべりながら登校していると、あっという間に学校についてしまった。

 相も変わらず、下駄箱から廊下にかけて話し声で騒がしい。

 ローファーから、上履きに履き替えて、教室へ向かおうとする。

「か、葛城くん?」

 後ろからワイシャツを摘まれ、振り返ってみると、下を向いて泣きそうな表情を葛城くんは浮かべている。

いくらアタシがいるからってやっぱり怖いものは怖いんだろう。

「だ、大丈夫ですよ! お、アタシがちゅいていましゅかりゃ!」

 肝心なときなのに、いつも以上に噛んでしまった。

 今時の小学生でも、もっとまともにしゃべることできるぞ……。

「ぷっ、あはは! 噛みすぎだよ! 霧島さん! うん! 元気出た。行こう!」

 大笑いすると、アタシの前を歩き始める。

 葛城くんが元気になって良かったんだが、なんか釈然としない。

 そう思いながらも、彼女の後ろを付いていく。

「霧島さん」

 階段を上っていると、急に葛城くんから名前を呼ばれる。

「ありがとう」

 後ろを振り向き、『いつも』の笑顔を浮かべる葛城くん。

「どういたしまして」

 そんなやりとりをして、止まっていた足をまた動かす。

 それから無言で教室までの道のりを歩く。

 葛城くんと並んで歩いているせいか、周りからの視線が刺さる。

 実に居心地が悪い。

 そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にか教室の前まで来ていた。

 しかし、葛城くんは教室に入ろうとしない。

「葛城くん?」

「霧島さん……お願いがあるんだ」

 弱弱しく発せられた声は震えている。

「なに?」

 アタシが聞き返すと、ワイシャツの袖を握って、アタシの目を見つめてくる。

「傍に、いてくれ……お願い」

 頬を染めながら、小さく、細い声で言ってくる葛城くん。

 きっといつもなら、その顔に見惚れていただろう。でも、そうならなかった。

 彼の瞳には涙が浮かんでいたから。

「……うん。わかった」

 なるべく優しく答える。

「行けそうになったら言って。そのタイミングで行こう」

「ううん。大丈夫。もういけるから」

 首を振り、彼女は扉を見つめる。

 未だ握られているワイシャツから、彼女が震えているのがわかる。

 アタシは扉に手をかけ、ゆっくりと開け放つ。

「はよー」

 いつも通りの感じで教室へと足を踏み入れる。葛城くんも、ワイシャツを握りながらアタシの横について教室へ入る。

 その瞬間、先ほどまで騒がしかった教室が、しんと静まり、クラス中の視線がアタシと葛城くんに浴びせられる。

 そのせいで、より一層葛城くんの震えが強くなる。

「おはよう。恋華。葛城くん」

 前のほうから、アタシと葛城くんの名前を呼ぶ声が聞こえてくる。

「おはよう。恵」

「お、おはよう。清沢さん」

「おはよう。葛城くん。噛んだりしちゃって、恋華っぽいぞ?」

「そ、そんなことないよ!」

 強く恵の言葉を否定する葛城くん。その顔は、リンゴのように赤く染まっている。そんなに嫌なんですか……。

「……へえー」

 目を細め、ニマニマしている。ドラマに出てきそうな悪役みたいだ。

「恵。それ犯罪」

「清沢さん、それはちょっと……」

「え、二人とも酷くないですか?」

 そう言って、また笑いが起こる。葛城くんも一緒に。

 笑いながらも、教室の中を見渡す。

 そこには、アタシが求めていた人がこちらを見ていた。

 目が合うと、ソイツはすぐにアタシから視線を外した。

 ――覚悟、決めなきゃな。

 ソイツの席に足を進めようとした時、またも後ろから服を掴まれる。

「どこに、行くの?」

 泣きそうな声で、アタシに問いかけてくる葛城くん。

「だ、大丈夫ですよ。ちょっと話したい人がいるから……」

「行かないで……俺を一人にしないでくれ……」

 アタシの言葉を遮り、涙声で懇願してくる葛城くん。これで、アタシが行ってしまったら泣いてしまうんじゃないか。というくらいの小さく弱弱しい声。

「必ず、必ず戻ってきますから」

「本当?」

「はい」

 そう言うと、渋々といった感じでアタシの服から手を放してくれる。

「恵。あとお願い。あと、ありがとう。メール」

「うん。頑張って」

 恵と、葛城くんを一瞥して、目的の場所へ向かう。

 席についても、ソイツはアタシと目を合わせようとしない。

「三河さんさん。少し話があるんだ。ちょっと付き合ってもらえない?」

 二日ぶりに学校に顔を出し、葛城くんを今の状況に追いやった原因。アタシはどうしても、コイツと話をしなければならない。

「……わかった。どこに行けばいい?」

 少しは抵抗すると思っていたが、三河さんはすんなりとアタシの提案を呑んだ。

「付いてきてもらっていいか?」

 アタシの言葉に無言で頷き、席を立ち上がる。

「ちょ、ちょっと、霧島! あんた三河さんさんに何する気なのかよ!?」

 あの時、葛城くんに色々言った男子が突っかかってくる。

「別に。ただ少し話したいことがあるだけ」

 そう言って教室を出る。


***


「やっぱりここなんだね……」

 三河さんさんが小さく呟く。

 屋上。最近何かとここにくることが多い気がする。だが、ここが一番話し合うにはちょうど良い。

「それで、話って?」

「葛城くんのことだ」

 無駄話をする気はない。最初から本題をぶつける。

「やっぱり。君は京くんと付き合ってるんでしょ? それで、あたしをどうにかしようとしに呼び出したんでしょ?」

 三河さんは少し怒気が篭っている声で言ってくる。

「違う。まず、アタシは葛城くんと付き合っていない」

「え……? じゃあ、なんのために……」

「三河さんは、今の葛城くんがどんな状況になってるか知ってる?」

 アタシの問いかけ顔を歪ませ、三河さんは無言で頷く。

「じゃあ、その事についてどう思ってる?」

 これで、アタシの予想している答えが返ってくるか。それが来なかったらまたフリだしからだが。

「見ていて良い気持ちはしないよ。フラれたけど、やっぱり好きな人が、ああなっているのは辛い」

 予想通り。やっぱり、三河さんは良いやつだ。

「なら、三河さんがどうにかしてくれないか?」

 アタシの言葉が予想外だったのか、驚いた表情を浮かべる三河さん。

「それは、霧島さんがするべきことなんじゃない?」

「たぶん、そうなんだろうな。でも、アタシにはできないんだよ。助けたくても、アタシにはその力がない」

 手に入る力が強くなる。

「葛城くんを助けることができるのは、三河さん。あなただけなんだよ。お願い。彼を救って」

 しゃがみこみ、両手を地面につけ、頭を下げる。人生で初めての土下座だ。

「や、やめて。そんなことをするのは」

 焦ったような声が頭上から降ってくる。

 でも、やめない。

「いいや、三河さんが「うん」と言うまでアタシはやめない」

「わ、わかった。やる。やるから、頭を上げて!」

 その言葉を聞き、頭を上げ、三河さんを見る。

 あきれたような表情を浮かべる彼は、アタシを見て、柔らかな笑みを浮かべた。

「……すごいね。霧島さんは。彼のために、そこまでできるんだな」

「アタシにできるのはこれぐらいだから……何度、アニメの主人公のように、かっこよく強くなれると考えたことか」

「あははは!」

 自虐気味にそう言うと、三河さんは笑い始める。

「そっか。そんなあなただから京くんは……」

 そこまで言うと、三河さんは思い出したかのように言葉を切る。

「いや、なんでもない。それで、あたしはどうすればいい?」

 正直気になる。だが、今はそれよりもこれからのことだ。

「葛城くんへの謝罪と、男子グループにいじめをやめるようにクラスの皆の前で言ってもらっていい?」

 三河さんがこれをやれば、きっといじめは終わる。彼の影響力はそれほどまでも強い。三河さんが葛城くんとの関係を修復すれば、男子グループの人たち、葛城くんに手を出せなくなるはず。まあ、アタシのこの提案を三河さんが受ければだけど。

 少し考えこみ、三河さんはアタシの目をしっかりと見てくる。

「わかった。あなたの案に乗る。確かに、あたしのせいでもあるからね……」

「ありがとう。三河さん」

 ほっと胸を撫で下ろす。これで、全てが終わる。

「いいよ。あたしだってまだ、京くんのことを忘れることができた訳じゃないし。好きな人が、いじめられているのを見るのは嫌だから」

 三河さんの言葉に耳を疑った。まだ、忘れることができてない?

「あなた、フラれたのにまだ、葛城くんのことが好きなのか?」

「何を言ってるの? そんな簡単に忘れることができてしまったら、それは恋じゃないよ」

 わからない。拒絶された相手を、未だに想っているその意味が。

「どうしたの?」

 アタシは、もしかしてまだ……。

「霧島さん!」

「な、なに?」

 三河さんに呼ばれ、そちらを向く。

「なにじゃないよ。急に黙るからビックリしたじゃん」

「ご、ごめん」

「あたしはそろそろ教室に戻るけど、霧島さんはどうする?」

「……ごめん。先に戻ってて」

 そう告げると、三河さんは扉を開け、屋上から出て行った。

 今、ここにいるのはアタシ一人だけ。何の物音も聞こえない。聞こえるのは風が吹く音のみ。

 先ほどの三河さんの言葉を思い出す。

『何を言ってるんだ? そんな簡単に忘れることができてしまったら、それは恋じゃないよ』

 今、冷静になって考えてみても、やはりその言葉に納得はできなかった。

 拒絶され、自分のことを必要ないと言った相手を、なんでそこまで想うことができるのか。もし、アタシがその立場に立ったとしたら、すぐにでもその相手のことは忘れるだろう。

 でも、それは三河さんからすれば、『恋』ではないらしい。

 もしかしたら、アタシのこの想いも紛い物かもしれない。

 嘘で塗り固められ、自分の勝手な欲望が渦巻いている醜い何か。

 ――やめよう。

 無理矢理、頭の中に浮かんでいた考えを払拭する。

 無意識に下唇を噛んでいたようで、血が滴っており、口の中は鉄のような味が広がっている。

 そんな苦味と自分への不信感に襲われながら、アタシは屋上を後にした。


***


 教室へ戻ると、いつもと同じように騒がしい声が響いていた。

 葛城くんの方を見ると、前よりかは少ないが、人だかりができている。

「良かった」

「本当にね」

 恵が、近づいてきて、アタシの肩に手を置く。

「ビックリしたよ。三河さんが帰ってきたと思ったら、恋華は帰ってこないわ、三河さんは葛城くんに謝り始めるわで」

 呆れたように言う恵の顔には、うっすらと笑みが見てとれた。

「まあ、でも、これで一安心だね」

「うん。……これで、アタシと葛城くんの関係も元に戻っちゃうのかな」

 きっと、もう少し時間が経てば、前のように元通りなってしまうだろう。そうなれば、アタシは……。

「霧島さん!」

 声が聞こえ、そのほうを向く。

 すると、人波を押しのけ、葛城くんがこちらに向かってくる。

 そして、抱きつく。え?

「にゃ、にゃにを!?」

「バカ! すぐに戻ってくるって言ったじゃん! それなのに、全然戻ってこないし」

 先ほどよりも強い力で抱きしめてくる。

「わ、わかりましたから! そ、その、そろそろ離してくれると、あ、ありがたいのですが……」

 そう言うと、葛城くんは一回こちらを見てから、クラス全体を見渡す。

「ご、ごめん!」

 顔を赤く染め上げ、慌てたようにアタシから離れる。

 体が熱い。心臓の鼓動が収まらない。

 ちょっと、惜しい気もするが……。

「恋華……。それは流石にウザいわ……」

「なっ! 恵! どういうことよ!」

「そういうところだよ……」

 呆れたように眉間を抑える恵。

「あ、あの、ホントにごめんね……」

 未だ顔を赤くした葛城くんが、謝ってくる。

 その姿に、少し目を奪われる。ほんのりと上気した頬が、なんとも言えない色気を出している。

 鳴りやまない鼓動のせいで、胸が痛い。

「い、いや、だ、大丈夫ですよ!」

「ありがとう。そ、それでさ、今日の放課後なんだけど……」

 放課後。葛城くんと帰る約束をしていた。もしかして、断られるのか……?

 やっぱり、もう、アタシは彼女にとって必要がないのか……。

「俺と一緒に帰ってくれるか……?」

 葛城くんから出てきた言葉はアタシの予想したものとは違うものだった。

 そんな彼の瞳には不安の色が見える。

体は微かに震えている。

「あ、アタシは、そのつもりでしたが……逆に、アタシとい、一緒に帰ってくれるんですか?」

 そんな予想外の言葉にアタシは、逆に問いかけてしまう。

「もちろんだよ!」

 力強くそう言う葛城くん。

 その言葉に少し安心感を覚える。

 アタシとの約束を断って、今日、またよりを戻した友達たちと帰ってしまうのではないか。その考えが拭えなかった。

 でも、そんな事は無かった。

 目の前の彼女は、真剣な眼差しでアタシを見つめてくる。

「霧島さんは、俺が他の人と帰るって思ったの?」

 答えることができない。葛城くんの顔を見ることができない。視線が下に行く。

「ちゃんとこっち見て」

 顔が葛城くんの手に包まれ、無理やり持ち上げられる。

 頬に、彼女の手の柔らかさや、体温が伝わる。また、鼓動がうるさくなる。

「俺、霧島さんとの約束、絶対に破らないよ。霧島さんは、守ってくれたんだから」

 いつもの明るい声でもなく、あの時の弱弱しく泣きそうな声でもない。

 その声は、いつになく重く、心に圧し掛かかり、深く突き刺さるようなものだった。

「だからさ、安心して? 俺は絶対に裏切らないから」

 目頭が熱くなる。胸の奥が、今までにないくらい温かく、満たされていく。

「……わかったよ」

「よっし! じゃあ放課後、校門で待ってて!」

 わざわざ、待ち合わせ場所を決める葛城くん。

「え? 一緒に行けば……」

「それじゃ、なんか雰囲気でないじゃん!」

 雰囲気? どういうことだろう。

「まあまあ、恋華、葛城くんの言う通りにしとけって」

 恵までもが、葛城くんの提案に賛同する。

「まあ、別に断る理由もないし……いいけど」

 本当にどういうことなんだろう。いくら考えても、その意味が分からなかった。

「じゃあ、またあとでね!」

 そう言って葛城くんは、分の席へ戻っていく。

 それと同時に始業のチャイムの音が教室に響く。

 皆、自分の席に着き、先生が来るのを待っている。

 葛城くんの席を見る。

 昨日までとは違い、晴れやかな顔つきをしている。まるで、あの空に浮かぶ太陽のよう。

 その顔を見ながら、アタシは三河さんと話していた時のことを思い出す。

 アイツとした最後のやり取り。そして、その時に感じた違和感。

『あなた、フラれたのにまだ、葛城くんのことが好きなのか?』

『何を言ってるの? そんな簡単に忘れることができてしまったら、それは恋じゃないよ』

 どうしてもその意味が分からない。

 きっと、三河さんは本当に葛城くんのことに恋をしていたんだろう。

 もし、あれが『本物』なんだとしたら、アタシの抱いているこの気持ちは。やっと気づけたと思ったこの気持ちは、果たして『本物』なのか。その答えが出ない。

「お前らー、席に着いてるかー」

 教室の扉が開き、そこから担任の先生が入ってくる。

 その声で、考えることを一旦止める。

 先生の話に耳を傾けながら、窓の外を見やる。

 快晴。とまではいかないものの、空は勿忘草のような青色に染まっている。

 そこには、白い入道雲が高く伸びている。地面には陽炎も見て取れる。

 そろそろ、夏本番。ここ最近は色々あったが、やっとひと段落できそうだ。

 そう思っていると、自然と口角が上がっていくのを感じる。

 外から聞こえる鳥の囀りが、心地良い。

 そして、今日の放課後のことを考えながら、朝の時間は過ぎ去っていった。


***


 放課後。日が長くなり、未だ外が明るい中アタシは、校門の前でスマホをいじっていた。

 これから葛城くんと一緒に帰る。そのことに胸を躍らせながら、付けていたイヤホンから流れる音楽に耳を傾けていた。

 スマホでは、『女の子と一緒に帰るときのポイント』というサイトで、予習をしている。

「霧島さん!」

 後ろのほうから声が聞こえる。イヤホンを外し、振り返る。すると、手を大きく振りながら走ってくる葛城くんの姿が見える。

「ごめんね。待たせちゃって」

 葛城くんは、アタシの前に着くと、手を膝に付いて荒れた息を整えながら、謝ってくる。

「い、いや、だ、大丈夫ですよ」

「ありがとうね。それじゃ、帰ろっか」

 顔を上げ、笑みを見せながらそう言ってくる葛城くん。その姿を見て、安堵の息を零す。

 あれから特に問題なく、いつも通りの葛城くんの明るさが戻ってきたように見えた。

「もう、大丈夫、ですか?」

 詰まりながらも、なんとか会話をしようとする。

 アタシは未だに、この病気は治らないようだ。

「……うん。だいぶマシになったよ。」

「そ、そうですか。良かった。」

 それを最後に少しの間、無言の時間が続く。

 先ほどの質問がまずかったのか、葛城くんから口を開くそぶりを見せない。

「え、えっと、今日は、そ、その、クラスの男友達と一緒に、か、帰らなくて、良かったんですか?」

 なんとか会話をしようとするが、アタシの問いかけに中々答えてくれない。

 本格的に話すことが、気まずくなってきた。

「霧島さんさ」

 急に名前を呼ばれて、体がビクつく。

「俺を助ける事、できないって言ったよね?」

 急にそんなことを聞かれ、頭の中にハテナマークが浮かんでくる。

「確かに、い、言いましたが、そ、それが、どうしたんですか?」

「今日のこと、霧島さんがやったんでしょ? 三河さんくんと話して」

 その言葉で、足が止まる。

 葛城くんにはこの事を言っていないはずなのに、なぜ知っているんだ。

「……やっぱり」

 葛城くんも足を止め、こちらに振り向く。

「す、す、すみません……でも、三河さんなら、葛城くんを助けることができると思って、それで……」

 余計なことをしてしまったのだろうか。でも、これをしなかったら彼女は、今日も、あの乾いた笑いを一日中浮かべていたかもしれない。アタシはそれが耐えられなかった。正直、アタシがやったことに対しては後悔していない。

それでも、もしかたら。と思うと、謝らずにはいられなかった。

「別に、怒ってるわけじゃないよ。でも、キミは裏切ったんだね」

「裏切った……? アタシが?」

 その言葉に背筋が凍る。アタシは知らないうちに、葛城くんのことを裏切ってしまっていたのか。

 血がスーッと引いていき、震えてくる。

「そうだよ。俺の事助けられないって言ったのに、助けてくれた」

 そう言うと、満面の笑みを浮かべる。

 どういう事なんだろう。裏切られたと言っているのに、笑っている。疑問が疑問を読んでいるせいで、アタシの頭の中では、糸が絡まったように、グチャグチャになっていた。

「最高の裏切りだよ……こんなに嬉しい裏切りは初めて」

 胸の前で両手を組み、目を瞑っている。

 バックに傾き始めた日があり、一枚の絵画のようになっているその姿に見惚れてしまう。

「本当にありがとう。俺を助けてくれて」

「い、いや、だから、助けたのはアタシじゃなくて、三河さんで……」

「ううん。違うよ。三河さんじゃない。正真正銘、霧島恋華さん。キミだよ……」

 アタシを見つめ、そう言ってくる葛城くん。その瞳からは涙が流れている。

「い、いや、あの、その」

「キミは他の誰とも違う。俺の傍にずっといてくれて、俺を見捨てないでいてくれた。そして、助けてくれた」

 涙交じりの声がアタシの耳に届く。アタシは、それに返す言葉が見つからず、ただ茫然と立ち尽くすだけになってしまう。

「ねえ。霧島さん」

 不意に名前を呼ばれる。

「は、はい」

「キミはなんで、俺を助けてくれたの?」

 またも言葉に詰まってしまう。

 アタシが葛城くんを助けた理由。それは……。

「……もう少し待ってくれない?」

 絞り出したその言葉。

 今のアタシじゃ、まだこの想いを伝える資格はない。

「アタシにちゃんと覚悟ができた時に、絶対言うから……待っててくれませんか?」

 伝え終わると、葛城くんは黙ったまま、じっとアタシの目を見ている。

 呆れられてしまっただろか。

 不安がアタシの胸を埋め尽くす。

「あの時の会話、覚えてる?」

「あの時?」

 葛城くんから出てきた言葉は、予想もしていない言葉だった。

「そう。朝の教室で、俺と霧島さんの二人で話したときのこと」

「お、覚ええるけど……」

「その時も『待ってて』って言ったよね?」

 そうだった。

 前もアタシは、葛城くんに『待ってくれ』と頼んだ。そして今日も……。

 本格的に呆れられてしまったかもしれない。葛城くんは、過去の辛いことや、今の自分を曝け出してくれているのに、アタシは隠したまま。

 でも、今はまだ言えない。言っちゃ駄目なんだ。

「ごめん……。でも、必ず話すから」

 葛城くんの目を見る。その大きな瞳も、アタシの目を見ている。一ミリも視線を外すことなく。

「わかった。待つよ。でも、その代わり条件つけるね」

「条件?」

「そう。この前の事と今日のこと、本物の会話と、俺を助けた理由。それの両方を同時にやって」

「……わかった」

 葛城くんの顔は真剣で。それでいて、弱弱しくすがるような目で。とても見ているこちらとしては不安定で。そんな彼女の提案にアタシは頷くしかなかった。

 アタシはちゃんと伝えられるのか。その覚悟を決めることができるのか。

 今のアタシには考えることができなかった。

「よかった……」

 力が抜けたように、彼女の肩が下がる。その顔は、安心したのか頬が緩んでおり、うっすらと涙も見える。

「これで断られたりしちゃったら、俺どうしようかとおもったよ」

 涙を人差し指で拭い、アタシの好きな笑顔を浮かべる。

「……そろそろ、行こう。日が暮れてきてるし」

「そうだね。行こっか」

 無理矢理に話題を変え、止めていた足を動かす。

 今ではもう、葛城くんがアタシの隣を歩いていることに、違和感はない。それでも、やはり慣れはしない。

 茜色の空が紺色に染まっていき、学校のチャイムの音が当たりに響く。

 隣では葛城くんが、笑いながら今日の出来事を楽しそうに話している。

 その二つに耳を傾けながら、ゆっくりと紺に染まっていく空を見つめた。


***


「いってきます」

 朝。いつも通りの時間に家を出る。

 まだ八時前だというのに、日差しが強く、じわっと汗が滲む。

 イヤホンを耳に付け、音楽を聴きながら学校へ向かう。

「きーりーしーまーさん!」

「痛っ!」

 音楽とは別の音が耳に届き、その声のほうを向くと、その声の正体に背中を思いっきり叩かれた。

「ご、ごめん! そんなに強く叩いたつもりは無かったんだけど」

「か、葛城くん」

「おはよ! 霧島さん!」

 いつもなら、朝は絶対に会うはずの無い葛城くんが、なぜかアタシの目の前に居る。

「お、おはよう。な、なんで、ここに?」

 未だに、噛む癖は直らない。たまに普通にしゃべることができるに、なぜなんだろう。

「霧島さんを待ってたんだ。一緒に学校行こ」

 そう言ってはにかむ葛城くん。ただ、その笑いに何か違和感を覚える。

「何か隠してる?」

 思わず口に出してしまう。

 今の彼の笑顔は、いじめられていた時に浮かべていた乾いた笑顔に近かった。そんな笑顔は葛城くんにしてほしくない。

「……すごいね。なんでわかったの?」

「い、いや、なんとなく。というか、そんな感じ、です」

 うまく説明できず、カミカミでごまかす。

「そっか。実はね。まだちょっと怖いんだ。一人で教室に行くの。これで、今日またいじめが起きていたらって考えると……」

 そう言って、アタシのワイシャツの袖をキュッと摘む。その手は微かだが、震えているようだった。

「わ、わかった。じゃあ、一緒に行こ」

「ありがとう。霧島さん」

 今度は正真正銘、彼女だけの笑顔を浮かべる。

 ポケットに入っていた音楽プレイヤーの電源を落とし、イヤホンと一緒にカバンの中へしまう。

 葛城くんはアタシの隣に来て、顔を一瞥すると、歩き始める。

 しばらくの間、無言の時間が続く。それでもアタシは、この時間に気まずさを感じなかった。

 ここ最近、濃密に係わっていただけだが、それでも葛城くんとの距離は縮まった気がする。

「ねえ。霧島さん」

「どうかした?」

 考えに耽っていると、不意に葛城くんが口を開く。

「霧島さんってさ。好きな人とかいるの?」

「は、はい!?」

 唐突にそんなことを聞いてきたせいで、声が裏返ってしまう。

「いいから教えて。いるの? いないの?」

「いや、あの、えーっと」

 顔が熱くなる。別に、好きな人を教えろ。とか言っているわけでもないのに、それを言うのを怖がっている自分が居る。それとなにより、恥ずかしい。

「いるの? いないの?」

 足を止め、こちらに近づいてくる。手と手が触れ、体が密着している。今にも心臓が爆発してしまいそうだ。

「……い、います」

「え? なに? 聞こえなかったよー」

 なんとか振り絞って出した声は、小さく、葛城くんの耳に届かなかったらしい。

 そのおかげで、もうほぼ抱き合っていると間違われてもおかしくないほど、葛城くんが体を近づけてくる。

「い、います! いますから! だからそろそろ離れて!」

 限界を向かえ、叫ぶように葛城くんの問いに答える。それと同時に、アタシから離れるように言う。

「ご、ごめん。……そっか。いるんだ。好きな人」

 葛城くんが離れて、荒くなった息を整えるのに専念していると、葛城くんが何か呟いている。しかし、小さすぎて聞こえない。

「あ、あの。なんか言った?」

「ううん。なんでもない」

 なぜかわからないが、先ほどよりも葛城くんの元気が無いように見える。

「そういえば、霧島さん。やっと敬語止めてくれたね」

「え?」

 そう言われてみれば、昨日ぐらいからか彼女に対して、ずっと敬語だったのに今は普通にタメ口だ。

「ご、ごめん! 嫌、だった?」

「むしろ、そっちを推奨するよ! 俺は!」

 親指を立て、グッとやってくる葛城くん。

 よかった。嫌われていなかったようだ。

「じゃあ、これからはこ、これで」

「うん!」

 そうして、また歩き出す。

 それにしても、先ほど見せたあの暗い表情はなんだったのか。急に話を変えられてしまったので、追求することはできなかったが、あの顔は今まで見たことが無かった。

 それから、学校に着くまで、お互いにしゃべることはなかった。


***


 下駄箱で、上履きに履き替え、葛城くんと一緒に教室の前まで来た。

 教室までの道のりで、すれ違う人たちに、ジロジロ見られていたが、それを無視し、なんとかここまでくることができた。

「大丈夫? 葛城くん」

 噛まずに声をかけることができた。その事に、胸のうちでガッツポーズをする。

「うん。大丈夫。行こ」

 昨日と同じで、アタシの袖を握りながら、後ろについてくる。

「はよー」

「おはよー。恋華。葛城くん」

 教室に入ると、恵が真っ先にアタシの元へ駆け寄ってくる。

「おーおー。今日もお暑いね」

「ちょっと! 清沢さん!」

 恵のからかいに、葛城くんがツッコミを入れる。それを見ていたクラスメイトたちに笑いが起こる。

「もう、いじめがおこることはないよ。だから安心して」

 そう言うと恵は、白い歯を見せながら笑った。最初からこれを狙っていたのだろうか。そうだとしたら、大したやつだ。

「まあ、なんかあったときは、隣にいるお姫様に助けてもらうことだね!」

「誰がお姫様よ。バカ」

 前言撤回。コイツはバカだ。

 恵の頭にチョップを食らわし、葛城くんの方を見る。

「あまり同意したくないけど、恵の言うとおりだよ。葛城くん。もう大丈夫だと思うよ」

「……うん。ありがとう」

 すると、また教室がうるさくなる。でも、今はその騒々しさが嫌じゃない。

 その騒がしい中、HR開始のチャイムが鳴る。

「ほーら。席に着けー」

 眠そうな声をした担任が、あくびをしながら入ってくる。

「じゃあ、また」

「霧島さん」

 葛城くんと別れ自分の席に戻ろうとすると、呼び止められる。

「なに?」

「お昼、一緒に食べようね」

 まさかのお昼のお誘いだった。そんな嬉しいお誘い、断るわけにはいかない。

「うん!」

 アタシの返事を聞くと、彼女は嬉しそうに笑い、自分の席へと戻っていく。

「よーし。皆席に着いたな。では、まず今日このクラスに新しい仲間が増えることになった」

 担任の言葉に教室がざわつく。

 こんな時期に転校生が、しかも、高校生になって転校生が来るとは思ってもみなかった。

「じゃあ、入って来い」

 その時、教室の扉が開き、一人の少女が入ってくる。

 黒髪短髪で、瞳の色も真っ黒。スラッとした感じのモデル体系だ。しかも、超が付くほどの美少年。

 その容姿に、クラス中のやつが見惚れている。

「それじゃ、自己紹介を」

「はい。です。まだ、わからないことだらけで不安もありますが、一日でも早く皆さんと仲良くなれるように頑張りたいと思います。よろしくお願いします」

 典型的な挨拶をする紫雨さんさん。その挨拶に拍手がどっと沸く。

「じゃあ、紫雨さんの席は……。おー、霧島の後ろが開いているな。じゃあ、そこで」

「はい」

 ゆっくりとこちらのほうにやってくる。

「きみが、霧島恋華さん?」

 アタシの席まできて、一旦止まり、教えてもいない名前を言い当ててくる。

「なんで、アタシの名前を……」

「ある人から聞いたんだ。それで、あなたに興味が沸いた」

 ますます訳がわからない。なぜ、紫雨くんがアタシのことを知っている。そして、アタシのことを教えたやつは誰だ。しかも、興味って。

「どういうこと」

「お昼休み、人気の無いところに行こう。そこで教えてあげる」

 そう言うと、妖艶な笑みを浮かべる。この笑い方、どこかで……。

「じゃあ、またお昼に」

 そう言うと、アタシの後ろの席に着く。

 どういうことなんだろう。なんで、アイツがアタシのことを。そして、あの笑い方。何か引っかかる。

「昼になればわかるか」

 考えるのをやめ、先生の話に耳を傾ける。

 その間、アタシに注がれる視線を気づくことができなかった。

「霧島さん……」


***


 終業のチャイムが教室に鳴り響く。

 午前の授業をすべて終え、これから昼休みになる。皆、グループを作って、各々の時間を楽しみ始める。

 チラッと後ろを見ると、紫雨さんは後ろの扉のほうでアタシのことを見ていた。

「霧島さん。お昼食べよ」

 葛城くんがアタシの席までやってきて、お弁当を見せながらそう言ってくる。

 それで、今朝のことを思い出す。紫雨さんの言葉で頭がいっぱいで、葛城くんとの約束があることを忘れていた。

「ご、ごめん。お昼にちょ、ちょっと用事が入っちゃって……」

 そう言うと、葛城くんは一瞬落ち込んだような表情を見せる。

「……そっか! 用事があるなら仕方ないよね! また一緒に食べよ!」

 だが、すぐに笑顔を見せ、手を振りながらアタシから離れていく。

 さっきの笑顔。あの時と同じだ。アタシがさせてしまった。もうあの乾いた笑いをさせないようにここまでやってきたのに。アタシが、させてしまった。

 そんな罪悪感が、アタシの中を埋め尽くす。

「霧島さん、早く行こう。昼休みが終わっちゃう」

 知らないうちに紫雨さんが、アタシの席まで来ており、声をかけてくる。

「……うん」

 席を立ち、先を歩く紫雨さんの後ろについていく。

「どこに連れて行くんだよ」

「朝も言ったでしょ? 人気のない場所だって」

 こちらを振り向かずにアタシの質問に答える紫雨さん。

 少し歩いて、着いた場所。それは、アタシにとってあまり良い印象があるところではなかった。

 ――体育館裏。

「……なんでこんなところに連れてきたの」

「ここじゃダメだった?」

 そう言って、彼女は含みのある笑顔を浮かべる。

「いや、いいよ。それで、今朝のことどういうこと」

「せっかちだね。新たな発見」

 本題をぶつけると、おちゃらけたような態度を見せてくる。

「遊んでるの? ならアタシは帰るよ。先約を断ってまでこっちにきたの。早くして」

「ふーん。あの葛城とかいう男子のことかい?」

 先ほどの態度が一変し、どこか冷めたような表情を見せてくる。

 今日会ったばかりだから、彼がどんなやつなのかわからない。

「今はボクとお話しているんだよ? 他の男のこと考えないで」

 距離を詰めてきて、アタシの耳元で囁く。

「まあ、いい。じゃあ、早速本題に入ろうか」

 後ろに二歩ほど下がり、手を後ろで組んで話を始める。

「まず、ボクにあなたのことを教えてくれた人。それはボクのお父さんだよ」

「紫雨くんの、お父さん……?」

 なぜ、紫雨くんの父親がアタシのことを知っている?

「ボクとお母さんは血がつながっていない。お母さんの再婚相手が今のお母さんだ」

 ダメだ、全然分からない。今の話が、今朝の話とどう繋がっているんだ。

「まだ、分かってなさそうね。じゃあ、霧島さん。『』って名前に心当たりある?」

 北山、空。名字のほうは聞いたことはなかったが、名前のほうは……。

「まだダメそうだね。じゃあ、大ヒント。『霧島空』は?」

「な、なんでその名前を……」

「その人が、ボクに貴方のことを教えてくれたんだ。まあ、今は『紫雨空』だけどね」

 嘘でしょ。なんで、今更になって、『あの人』が。

「そう。今のボクの父親は、元貴方の父親。その人からあなたのことを聞いて、ボクはここに転校してきたんだ」

「なんの、ために」

 頭がうまく回らない。ハンマーで思いっきり頭を殴られたような頭痛がする。

「あなたに興味が沸いたからと言ったでしょ?」

 何を言っているの。この人は。

「お父さんから、ボクと同じ歳の子が娘がいるって言われて、すごく驚いた」

 アタシは口を挟むことが出来ず、紫雨さんは次々と言葉を並べていく。

「ボクは、そんなあなたと友達になりたいんだ」

「どういうこと……」

 笑顔を浮かべながら、こちらに近づいてくる。

 アタシの手を握り、どこか、好奇心に満ちたような瞳でアタシの目を見る。

「あの人の娘がどんな人なのか知りたい。そう思ってのことだよ」

 周りの時間が止まったように感じる。

「なにが言いたいのよ。紫雨くんは」

「そのままの意味だよ。ボクはあなたの友達になりたい。それも異性の中で一番の」

 どういうことなの。なんで紫雨くんはこんなにもアタシと友達になりたがるの? 興味だけでそこまでの執着心がでるなんて考えられない。

「そういえば、あの葛城くんって子。すごく仲が良さそうだったね」

 不気味な笑顔を浮かべる。コイツはなにを考えているんだ。

「確かに葛城くんとは仲がいいよ。それがどうしたの」

「気に入らないね。ボク以外に仲のいい子がいるなんて。絶対に彼から貴方を奪って見せる」

「あなた! 葛城くんを巻き込まないで!」

「それはあなた次第だよ。じゃあ、また教室でね」

 そう言って、彼女はこの場から去っていった。

 当のアタシは、未だにパニくっている。

 アタシの元母親の娘が、アタシの前に現れて、急な友達宣言。全然整理が出来ない。

「なんでいきなりこんな……」

 悪態をつかずにはいられなかった。

 やっと元のレールに戻れそうだったのに、またこれで脱線してしまうかもしれない。

 やっと前に進めたと思ったのに、また壁が立ちはだかる。

 そんな中、相も変わらず太陽は、燦々とアタシを照りつける。

 額にいやな汗が滲む。鬱陶しい。

 生ぬるい風が吹く中、昼休みの終わりを告げる鐘の音が耳に届く。

 このまま授業をバックれたくなる気持ちを押さえ、アタシは教室へと脚を運んだ。


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