ep5.枯れぬ一輪
大変長らくオマタセシマシタ!
最後まで楽しんで読んでくれると嬉しいです♪
ただ一点だけを見据えてその人は窓辺に座り、朝焼けを全身に纏っていた。
翳りを含んだ瞳が水面に浮く木の葉のように揺れている。やがて焦点はある対象物を通り越して、自身の内面を見つめているような感覚にその人を錯覚させた。
暗闇に飲まれそうになる瞬間、その光を追えば心の燈明はまた輝きを取り戻すことができる。自身が擦り切れてなくなる時まで彼という光を見続けていよう。ーー現実では1輪の黒椿が豪奢な花瓶に生けられていた。
色褪せた塗装の不格好な椿と、きめ細かな細工で飾られた花瓶とでは一見釣り合いが取れていないもののように感じるのだけれど。
彼女は愛おしそうに手で触れて、くすぐるように花の形をなぞった。永遠に咲く椿は過去の優しい記憶をいつまでも湛えていた。
❋
夢の中で誰かがそっと歌を口ずさんだ。ーー聞き慣れた子守唄。
熱を出す度に母はそうやって彼をあやしてくれた。普段は気丈な彼もこの時ばかりは年相応に母へ甘える。研究のしすぎでかさついた手がそっと額に触れて、痛みを取り除くように優しく撫でる。すると、全身を炙られ心臓を突き刺す程だった痛みが少しずつ治まり、呼吸も楽になっていく。
「……母さん」
「なぁに?」
今となっては懐かしい声が頭上から降ってくる。
「ごめんなさい。俺また母さんたちに迷惑かけちゃった」
「もう、そんな事ないのよ! きっとすぐ治るから気にせずに寝んねしなさい」
そう言うけれど自分が熱を出して倒れるのは3日に1度や2度の話ではない。あまりに弱い自分の身体が情けなくて不甲斐なくて、死んでしまいたいとさえ思っていた。涙でぼやける視界のせいで母の表情は霞んで見えない。
「ごめんねぇ、私がもっと……」
言いかけて母は淀んだ。
「ううん、母さん頑張るから! お父さんと2人できっと托空を元気にしてみせる。そしたらいつかお空の下で家族3人楽しくピクニックでもしましょう」
想像して記憶の中の彼は嬉しそうに涙でいっぱいだった目を拭う。
「約、束……?」
「うん、約束。托空の好きな物いっぱい詰めたお弁当持って……」
「どうせ作るの父さんでしょ?」
「なまいき!」
母は頬を摘んで笑った。つられて彼も笑う。ーー木漏れ日のような人だった。
けれども、その時交わした約束は叶えられることなく無残に打ち捨てられることになる。苦痛に歪んでしまった母の顔と狂気に染まった奴の微笑。頭にこびりついて離れない。あんな酷い最期を迎えていい人じゃなかった。
怒りに湧いた心は沸騰して全身を燃やすーー。
「ーー暑い」
燦々と降り注ぐ光の雨で兎坂托空は目を覚ました。迎えた朝は真新しく、いつもと違う感覚に戸惑ってしまう。
彼は普段の位置に時計を探したが室内のどこにも見当たらない。そこが自室ではなく、喰狼邸であったのだと自覚するまでにはかなりの時間がかかった。未だ彼の思考は夢の名残から抜け出せずに、浮遊する風船のごとくゆらゆらと曖昧に漂うのであった。
彼はゆっくりと身を起こす。見渡せば昨夜の惨状が目について、頭も痛くなってくるのだが、かえって体調は良好だ。枕元には昨日凪に貰った「例の指輪」が光っていた。それを見ると昨日の出来事が荒波のように押し寄せてくる。
「そうだ。俺は蓮海と……」
ーーセックスしたんだ。しかも奴とは出会ったばかりなのに……。
身体に染み付いた怠さはそれが幻ではないと物語っていた。
重くのしかかる男の体重……。組み敷かれて快楽に喘ぐしかない自分が翻弄されてはみっともなく腰を揺らす。出入りする肉棒が容赦なく乱暴に胎をつき、抗いようのない絶頂まで追い詰められる。そして熱い吐息が耳元にかかり、顔をあげた獣と目が合うのだ。
ーーギリリッ。
托空は無意識に指輪を掌に食い込ませていた。本当は感情のままそれを粉々に砕いてしまいたかった。
「……頭ん中めちゃくちゃだ」
でも結局彼は力を緩め、ただ放心したように視線を泳がせるのみだった。その後も暫くの間は立ち上がるのが億劫で、高い位置にある格子窓を細目で眺めてじっとしていたが、やがて思いたったように重い腰を上げた。そうして感傷に浸っている場合ではないと喝を入れたは良いが、乱れた服ではそれも格好がつかない。
托空は室内を物色して、けれど役立つ物は見つけられず、段々と苛々が募り、もういっそこのまま部屋を出てしまおうと思い至った。彼がみっともない肌着姿で廊下を徘徊せずに済んだのは、扉前に着替えが置かれていたからだ。また、側には傷薬と包帯が添えられていた。
「余計なことしやがって……」
もう跡形もない肌をさすって彼は呟きをこぼした。支度を済ませると托空はその庵を後にした。記憶をなぞるように橋梁を渡り、回廊を突き進んだ……は良いものの、彼は極度の方向音痴であったため、ある角を曲がった辺りから戻ることも出口に辿り着くことも出来なくなってしまった。そこらの組員をつかまえて道を聞けばいいだけの話なのだが、例の庵を出てから彼等の視線は来た時以上に鋭くて、話しかけるのは憚られたのだ。畏怖のような尊敬のような、好奇心たっぷりの視線に托空は息が詰まりそうになった。
そこでちょっとブゥブゥ鼻を鳴らしながら同じところを行ったり来たり、落ち着きなく足を踏み鳴らして歩き回っていた。と、不意に大声で呼び止められる。
「あーー! ちょっとそこのあんた!」
托空に駆け寄ってきたのは三流感漂う組員の1人だ。その癖っ毛で吊り目の彼は顔を真っ赤にしながら托空に追いついた。
「あ゛? んだてめぇ」
迷子になっていたこともあって托空の機嫌は最悪だ。その物言いに吊り目の彼は憤慨しながらも、けれど上司の鬼のような顔を思い出すと、思いとどまって自己紹介した。
「俺は司麻組若頭補佐の三毛大和です」
「司麻組」と聞いてあの仏頂面が目に浮かぶ。托空は頭の中から消し去るみたいに大きく身震いした。
一方で三毛はそわそわと忙しなくしていて、続けて早口で捲し立てる。
「あんた……じゃなくてあなた、兎坂托空さんっすよね? 若と蓮海様がお待ちになってるんで付いてきてください。さ、さ」
そう急かすように手を捕まれたが、托空はすぐさま振りほどいて言った。
「……行かねぇ」
「は?!」
その拒絶に三毛は焦る。
「な、なんでですか」
「昨日の今日で気まずい……つか、行きたくねぇから行かねぇんだ!」
まるで子供みたいな物言いになってしまったが、実際に托空の心は昨夜のせいで混乱しており、整理のために距離を置きたかったのだ。何がしたいのか托空自身も定まっていなかったが、とりあえず今はこの場から抜け出したい一心だった。
しかし、三毛は事情など知る由もない、というか知ったこっちゃない。彼が托空について知っている情報はせいぜい「蓮海様の婚約者である」という事だけ。彼の懸念はもっぱらあの鬼上司の「連れてこい」という命令と、果たせなかった時の自分の末路のみだった。
「まぁまぁ、そう言わずに……」
「行かねぇつってんだろ。しつけぇな!」
相手があまりに聞き分けがないので、2人は軽い揉み合いになった。最初は貴賓のごとく接していた三毛もついには声を荒らげた。
「勘弁してください! 痴話喧嘩でもしたのか知らねぇっすけど、俺だって必死なんです。いいから、きてください!」
鬼気迫る様子に托空は思わずたじろいだ。そこへすかさず三毛は付け加えて言った。
「それに、大事な物も預かってるみたいですよ!」
「…………」
長い葛藤の末、渋々といった感じで托空は首を縦に振った。すると三毛は安堵安堵のため息をつくとともに上機嫌で彼を先導するのだった。
着くまでの道中、脳内で昨夜の出来事が何度も逡巡しては、けれど「Spark」を潰す為だと自分に言い聞かせた。どんな犠牲も厭わないと誓ってここまできたのだ。ならば、今さら自分の身体がどうなろうと構わないではないか。強姦されて純潔を散らされようとも。乙女じゃあるまいし……。
「そうだ、俺はこんな事で挫けねぇ」
自分に向かって小声で言い聞かせると、不思議と勇気が湧いてきたようだった。
三毛の案内で蓮海の待つ車の前までやってきた托空は、喧嘩腰で挨拶した。
「荷物を人質に取るなんて卑怯だぞ。おい!」
その声に反応して蓮海は振り返った。彼は相変わらず不遜な笑みを浮かべて托空を待っていた。
「来ないんじゃないかと思っていたところだ」
なんて、偉そうに返すが、彼を一目見た托空は思わず噴き出しそうになった。蓮海の氷を張ったように鋭く冷たい面差しや均整の取れた眉根と鼻筋、夜に染めた髪と瞳はいつみても見事だけれど……。
……けれど、今彼の耳と尻尾はこれでもかと下がりきっていた!
正直な耳と尻尾は、まるで彼の気持ちを代弁するみたく、申し訳ないとばかりにぺたりと張り付いている。おまけにその部分だけ毛艶が悪い気がした。
「……ちなみに昨日のこと。お前、反省してるか?」
托空は平常を保ちつつ聞いてみる。
「いいや。お前には悪いが、あれは適切な対処だったと思っている」
冷淡な言葉に普通なら怒るところ、蓮海の耳と尻尾が否定するみたいに激しくぱたぱたと動くものだから……。なにか言う気力もなくなってしまった。
「……てめぇの気持ちはよくわかった」
大きくため息をつくと、托空は蓮海の横っ面を思いっきり平手打ちした。
「…………」
「これで勘弁してやる。だから早く『Spark』を追うぞ」
横で見ていた司麻と三毛は複雑そうにそのやり取りを見ていたが、主が大人しくしているのを見て押し黙っていた。
その後、三毛の見送りで3人は喰狼邸を発った。
運転席には司麻が。そして助手席には蓮海が座り、後ろを托空が占領した。司麻にしてみれば、主君が隣に座るなんて以ての外、更には気まずい事この上ないのだが、彼等の雰囲気からして言い出せる事ではなかった。広々した後部座席で空間を持て余していた托空も同様に考えていたが、昨夜の出来事が尾を引きずっていたため、敢えて席を譲るだとか一緒に座るだとかいった余計な事は口に出さない。当然、ばつの悪い蓮海も無言でいた。
暫くそうしていたが、その内に痺れを切らした托空は何か喋ろうと言葉を探し始めた。
「……そういや、昨日から思ってたが蓮海は常に獣化したままなんだな」
「ああ。『濃血障害』という。生まれつき獣性が強いんだ」
そういって蓮海は外へ目を逸らして、サイドミラーに映る自分の姿を見つめた。
「俺の母は原生獣種族が父と同じでな。俺は濃血障害で薬を服用しないと獣化が解けない。妹の潮璃に関しては先祖返りだ」
ーー宴席で見たあの黒髪金眼の少女。そういえば彼女は蓮海の実妹だと司麻から聞かされている。
托空は昨日の宴席を思い出していた。その少女は物静かでまるで人形のようだった。今思えば不思議と彼女は、蓮海どころか候補者の誰とも似ていなかった気がする。それぞれ母親が違う喰狼家の5人兄妹。とりわけ血の濃い蓮海と潮璃は同腹の兄妹で……。
「妹はお母さん似か?」
「…………」
素朴な疑問だったが、蓮海は何故か沈黙した。他に聞きたいこともあったのだが、托空はミラー越しに司麻に睨みつけられているのに気づいた。そこで彼はようやく触れてはいけない話題だと分かり、慌てて誤魔化すのだった。
「あ、あーー俺の荷物! 結局俺の荷物ってどうなったんだよ!」
咄嗟に出たのはそんな突拍子もないことだった。
「後部座席の下にあると思うが……」
言われるがまま探してみるとあっさり見つかってしまって、托空はきまり悪そうに赤面し鼻を鳴らした。
「そろそろ着きます」
丁度いいタイミングで司麻によって会話は終わった。胸を撫で下ろしつつ、托空はその場所とやらを聞く。
「で、目的地ってのは?」
「『浮世4番街』です」
「なんだって!?」
聞き間違いとも思ったが、司麻の口ぶりは確かなものだった。
「いや、いい。分かった。分かってないけど分かった……」
その『浮世4番街』というのは娼館街としてもっとも有名な通りだ。またしても昨夜の事が頭をよぎって托空は顔を顰めた。どうやら蓮海も同じようで、気まずそうに咳払いした。
そこで、会話を切り替えようと今度は全く違うことを聞いてみる。
「えと、あ、司麻てめぇのその面どうしたんだ? 随分酷ぇじゃねぇか」
というのも今朝会った時から彼の顔は怪我だらけで、気に食わない相手とはいえ、見ていて痛々しかったのだ。
「殴った奴は相当だな!」
聞かれて司麻は中々答えようとせず、代わりに蓮海が口を開いた。
「俺が殴った」
「……そうか」
「ああ」
もう托空は閉口して大人しくしていようと決めた。
「……」
「……」
「……」
それから目的地に着くまでまるでお通夜のように車内は静まり返っていた。
※
そこは西洋と東洋折り混ざった雑多な様式の娼館が軒を連ねた場所だった。絢爛な彫刻や立て看板がその店その店を強調している。街道の脇に植わられた枝垂れ桜が青々とした身を風に揺らしていて実に風流である。
店の奥では妖艶を纏った女たちが手招きしてこちらを誘っている。でも、まだ日が高い内は逢瀬も見咎められて難しいようで、彼女らは知っていて弄う素振りでクスクスと笑っていた。
男たちは今はもう一夢から覚めて、昨夜の女に見送られて名残惜しそうに後ろを振り返りながら帰って行く。
ーー浮夜4番街。欲が渦巻くこの場所で彼、彼女等は束の間の愛と色を売っている。
見慣れないその風景に托空は落ち着きなく地面を踏み鳴らした。
「っとに、ここに手掛かりがあんだろうな……」
彼は目的地も分からないのに先を急ぎ、蓮海はそれを制すると慣れた足取りで道を辿って行く。時々視界の隅で、大通りから外れた路地より数人の女が覗いているのが気になった。進むに連れて一層存在感の強い店が増えていき、やがてその楼閣に到着した。
漆塗りの真っ黒な楼は縦に長いのは勿論、横にも長くできていて、喰狼邸に負けず劣らずの迫力であった。花を散りばめ、蝶の舞う様を彫刻した壁は絵画のように鮮明だ。その重厚な造りは見るものを圧倒し、或いは独特な雰囲気に没入させる。立派な門には『黒露椿屋』という看板が掲げられていた。
「ここだ」
蓮海は堂々と門をくぐり、店の入り口へ進んでいった。司麻も確かな足取りで主人の後を追う。そして托空はというと動揺を隠せずに赤面し、2人に隠れるようにして後ろについた。しかし、中に入る直前で彼等は引き止められてしまう。
「申し訳ありませんが旦那様方、当館は完全会員制でして、どなた様かのご紹介がありませんとお通しすることが出来ません。また、只今は営業時間外となっております」
その娼婦は草食獣種のようで、頭には角飾りのついた立派な山羊の角を、黒いドレスの大きく開いたスリットからは長い尻尾が見え隠れしていた。気怠げな色気を放つ彼女に托空はどぎまぎした。一方で彼女は慣れたように托空等怪しい一行をあしらおうとしている。
「おい、どうすんだよ」
小声で托空が聞くと、蓮海は「任せろ」と言う風に余裕の笑みを浮かべた。
「まぁ待て、ここのオーナーに水鈴様の使者が来たと伝えてくれないか?」
「水鈴様の……かしこまりました。少々お待ち下さい」
聞いて彼女は受話器を取りに足早に店の奥へ下がっていった。
「使者ってお前……」
托空は呆れた目で蓮海を見た。暫くすると確認を終えた彼女は戻って来て尋ねた。
「恐れながら身分を証明出来るものなどはございますか?」
内心冷や冷やしている托空を余所に、蓮海は司麻へ目配せすると示し合わせたみたいに何かを取り出させた。
「こちらのミスですまんが、あいにくと身分を証明するものが今手元にないんだ。代わりと言ってはなんだが、これを」
そうして差し出したのは金のバッヂだ。極道の代紋とも違う、レースの柄のように繊細な技巧が施されている。受け取った彼女はまじまじと観察した後、さっきまでの態度と打って変わって愛嬌のある顔で言った。
「これは『High・Order』のSクラスですか。ありがとうございます。それでは、副オーナーがお会いになられるようなのでお連れいたします」
そして彼女は「こちらへ」と言って彼等を店の奥へ案内するのだった。蓮海は得意げに托空を見つめて笑みを深めた。こうして、大胆にも男は義姉の名前を使って正面から乗り込むのに成功したのだった。
彼女に続いて中へ入ると、意外にも淫靡さのかけらもない清潔で古風な空間が広がっていた。派手な飾りはないけれど、雅やかで旧時代を思わせるデザインだ。回廊に設置されている淡い色合いのステンドグラスが光を帯びて虹のような輝きを散らしている。組み木の天井にはライトが垂れ下がっていた。
また、そこには女たちが大勢いて、部屋から覗き込むように多くの視線が押し寄せた。そこかしこからむせ返るほど甘ったるい香水の匂いが漂ってきて思考が霞む。特に嗅覚の優れている蓮海と司麻は渋い顔をしていた。
一方で女達は突然訪問してきた3人の美男子に釘付けだった。彼等が通るたびに笑い声と誘うような言葉が小鳥の囀りのように四方八方から飛んでくる。
「貴女達、遊んでないで仕事なさい」
そう案内役の彼女に窘められると女達はめいめい軽く文句を言いながらも従うのだった。
最上階の6階までは建物の軽い紹介も兼ねて階段で通された。何段にも入り組んだ階段をたまに降ったりしながらも進み、托空は美しい構造に目を輝かせた。
やっと執務室へ辿り着くと、その重々しい扉を前に案内役の彼女もまた強張った様子で数度ノックした。
「リヴォね、お入りなさい」
若い女性の張りのある声が中から響いた。先程まで托空等を案内していた女ーーリヴォはゆっくりと扉を開けた。
窓辺に立っていたのはまるで美しい花の精だった。柔らかな髪が陽の光で金色に透けて視え、頭に刺した赤と黒の椿は水滴を含んで瑞々しい。葉や蔓の刺繍が織り込まれた濃紺のドレスが彼女自身を引き立てている。
「え……」
「は」
彼女と托空はほぼ同時に固まった。というのもお互い見覚えがあったからだ。そう、彼女は例の候補者である航貴の婚約者ーー『兵瓦紅緒』だった。以前会った時と印象が違い過ぎて托空は困惑した。
「貴方達なんで!?」
そして紅緒も予想外の訪問者に驚くのだった。大分動揺したものの、彼女は直ぐに立ち直ると厳粛な面持ちになった。
「それで、候補者の蓮海様とその婚約者様が一体何のご用でうちに?」
威風堂々ぜんとしているが、本家である蓮海の前ではそこまで強くでられないようで、声色に緊張が滲んでいた。
「航貴に会いに来たんだが、どうやら不在のようだな」
「航貴様は今は火急の用で不在にしております。その間の権限は私にあるのでお気になさらず」
この会話でやっと托空は、ここは喰狼航貴が運営に携わる場所なのだと知った。喰狼邸で変に因縁つけてきた男の顔は托空の中で要注意人物と記憶されている。敵の渦中ともいえるここで一体蓮海はどうしようというのだろうか……? 「喧嘩でも吹っ掛けに来たのか」なんて好戦的な彼は思うのだった。
「ーーまぁ、そう警戒しないでくれ。ただ、俺たちはそちらの問題解決に助力出来ればと思って来たんだ」
初耳な托空は一瞬目を見開いて蓮海を見たが、勿論何の答えも返ってこなかった。
一方で紅緒は飄々として言った。
「この街に問題はありません。あるとしたら……身分を偽って面会に来た者がいるくらいで」
彼女の無礼な物言いに司麻は眉根を寄せる。蓮海は気にせず彼女に言った。
「そうやってしらを切るのも良い。だが、見たところ表通りにまでSpark中毒者がうろついているようだ。このままだと本当に取り返しがつかなくなるぞ」
「……だとしても蓮海様には関係のないことです。こちらには航貴様がいらっしゃいますし、我々のことは我々で解決いたします」
確固たる意思で紅緒は男の目を見据えた。ここで今まで沈黙していた司麻がとうとう痺れを切らして、蓮海の制止も無視し彼女へ詰め寄る。
「弁えろ。カシラに対して失礼過ぎる」
「貴方こそ下僕のくせに主の話を遮るなんて弁えた方がいいわ。それにまだカシラじゃない」
「この……」
両者共に一歩も引かず、2人の間には火花が散っているようだった。事情も何も把握出来ていない托空は話に入れずもんもんと頭を悩ますばかり。そろそろ喧嘩でも起こりそうな一触即発のそのタイミングだった。
「ーーお茶が入りましたよ。とりあえず皆さまお座りになっては?」
いつの間にやらリヴォが硝子のカップに注がれたお茶を用意して、使われていなかった部屋の卓へと運んでいた。ハーブと苺が混ざった清涼な香りが部屋に広がる。これに一同は毒気を抜かれて自然と席につくことになった。
彼女はゆったりとした所作でお茶菓子まで並べ始める。その水信玄餅は、球の中で紅と黒の金魚が生き生きと泳いでいて食べるのが勿体無いぐらいだった。口に含むと柔らかい食感にひんやりと冷たい喉越しで、まったりとした甘さが口に広がる。黒い金魚は黒蜜で紅の方は餡子だ。控えめな甘さで甘いものが苦手な托空でもおいしく食べることができた。
紅緒はリヴォの特製ハーブティーを一口すするとふぅとため息をついた。
「では、お茶を楽しむ間だけお話を伺いましょう」
「そう言って貰えると助かるよ」
すると蓮海はわざとらしく托空にも分かるように話し始めた。
「確かな情報だがここ最近『浮夜4番街』では今Sparkが蔓延しているらしいな」
確かな情報と漏らしつつらしいで誤魔化す蓮海は底が知れない。この時ばかりは紅緒と托空は全く同じ感想を抱いた。
「よく知ってますね」
厭味ったらしく彼女は口を曲げて言う。
「別に義弟のシマを嗅ぎ回ってた訳じゃない。自然と俺の耳に入ってくるんだ。詳しくは知らないが随分と困ってるようじゃないか? 何でも娼婦が薬漬けになったり、失踪者も31名ほど出たとか」
詳細すぎる内容に紅緒は観念したように首を横に振った。
「正確には先週で32名ですが……」
「そうか」
2人は同時にお茶を口にした。托空も喉を鳴らしてこれまでの経緯を必死に思い起こしていた。
行方不明者はともかく、娼婦の間で広がるSpark被害で思い出されるのは黒露椿屋への道中に見かけたあの濁った眼の女たちだ。ーー原因がSparkによるものならば許せない……!
そう沸々と腹が煮えてきて、彼は勢いだけで言葉を発した。
「俺たちに手伝わせてくれ!」
それに紅緒は呆れた様子で彼を見る。
「簡単に言うのね。そこまで事情を汲んでいるのならば、この問題がいかに複雑であるかを知っている筈だけど。身内ですら解決出来ないものを果たして貴方がたはどうするというのです? 特に貴方は見るからに安直で、これと言って考えがあるように思えませんが」
確かに実行力はあれど、解決能力は皆無な托空はおよそ自分が何をすべきか分かっていない。彼女の言葉は辛辣であるが、その通りぐうの音も出せなかった彼は貧乏ゆすりをしながら考えた。
「……手当たり次第あたって……薬を撒いてる売人をぶちのめす」
「短絡的すぎる」
この時初めて司麻は哀れみの目を托空に向けた。
「今までならそれで解決してたんだよ! つか、てめぇは何にでも噛みつかなきゃ気がすまねぇのか陰険野郎!」
「ほざけ能無し」
「ブゥゥ゙」
場所も考えず口喧嘩しだした2人の連れに蓮海は心の中でため息をついた。
「仲が良いのは結構だが、お前等お茶のおかわりでもいただいて落ち着いたらどうだ? ん?」
暗に黙っていろと圧をかけられ、司麻と托空は渋々停戦することにした。
「連れが騒がしくてすまんな。話を戻そう」
「いえ、やはり決定は変わりませんので」
紅緒は残りを飲み干そうとカップに口をつけた。
「航貴の」
しかし、自身の婚約者の名前が出るとその手を止めた。彼女が食いついたのを見て蓮海は少し目を細めた。
「航貴様がなんですか?」
すると彼はゆっくりと宣言するようにこう提案した。
「ーー今この瞬間からこれから先、俺のシマでの自由を許そう」
「そ、れは……」
その言葉を聞いて紅緒はまるで心臓を鷲掴みされたように動揺した。蓮海の瞳は獲物を捕らえた猛獣の鋭さを放っていて、全てを見透かされたと彼女に感じさせた。
「そのままの意味だ。これまで互いに距離を置いてきたが、Sparkを潰すためには手を組むべきだと判断した。だから先ずは俺の方から誠意を示そうと、そういう訳だ」
「……そう、ですか」
少し和らいだ物言いに紅緒はほっとしかけたものの、間髪入れずに蓮海は言った。
「部外者の我々を内部まで入れるのは確かに勇気がいるものな、そちらの言い分も分かる。だが、俺も代紋頭から土地を預かり裁量を任されている身としてこちらの現状は自分ごとのようで同情を禁じえないんだ。幸い俺のところの被害は最小で済んでるが、もし似たような……例えば忍び込んだ鼠が穀物を荒らすようなことでもあれば正気では居られなかっただろう」
隠すことなく男は組んだ両手を固く握り、血管を浮き出させた。もれなくそれは、敵に対して容赦ない報復を行う暴力的な蓮海の一面だった。
「…………」
しかし次に彼女が瞬きした時にはもう、彼の怒りは鳴りを潜め、不気味なくらいの笑みに変わっていた。
「判断を仰ぐなら早めがいい。後で航貴にも確認しておいてくれ」
紅緒は恐怖に震え、言葉も出なかった。彼女は蓮海の言葉の裏にある真意に気づいて怯えていたのだ。冷や汗が背中を濡らし、瞳孔が点まで縮小する。
「紅緒様!」
リヴォの声で彼女は正気に戻ったが、未だ手の震えだけは収まらないのだった。
「紅緒殿、どうした? やはりこの見返りでは少なすぎたか?」
「滅相もありません。その条件で蓮海様がよろしいのでしたら、こちらも同じ条件で協力を惜しまないでしょう」
「そうか。それは助かる。ただ、貴女は代理だろう? 航貴の居ぬ間に決めてしまって本当に良かったか?」
「……はい」
意地の悪い質問に紅緒は肯定するのみだった。
「何がどうなってんだ?」
さっきまでの態度が嘘のように一変した紅緒を見て、托空は首を傾げた。
「どうもありがとう。それじゃあ、早速対策を講じるとするか」
蓮海の一声で全員の意識はSparkへと向けられた。
「では、恐れながら私に考えがあります」
共通の敵を前に紅緒も決心が固まったようで、3人を見つめた。
「ーー聞こうか」
最後まで見てくれてありがととうございます✨️
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