ep1.出会い
強くなければ淘汰される。それは今日に至るまで変わらない獣人社会の全容だ。
※
青年は貧民街を全速力で駆けていた。すれ違う人の罵倒やぶつかって物が落ちる音、頬を切る風の音などが騒々しく頭に入り込んでくる。それでも自慢の脚力は衰えることなく獲物を捕捉し続けていた。赤茶色の髪が陽に透けて深紅の輝きを帯びる。青年と擦れ違った人はその燃えるような赤色に思わず目を奪われた。
そんな有象無象を無視して青年は走り続ける。
二組の男女の間を駆け抜けた時、偶然男の腕に激しくぶつかってしまったのだが、青年は気付かない。ただ、その男もまた例に漏れず呆然と青年を見つめていたーー…。
雑多な市場通りを抜け、小路を曲りくねって進み、とうとう青年はそいつを追い詰める。相手の男はフードの下からぜぇぜぇと荒い息を吐き出して疲れ切っている様子だ。
「……色々と聞きたいことがある」
詰め寄る彼にフードの゙男は観念したように静止した。そのまま男に触れようと手を伸ばし、けれど青年は音に反応して瞬時に重心を右にずらすと身体を捻らせた。揺れるフードの先から鋭い爪が光って、彼の顔すれすれを引っ掻く。虚しく空を切る手応えに相手は舌打ちし、そのままバランスを崩した青年を押し退けて元来た道へと逃げ出した。青年は、逆にがら空きになった相手の脳天目掛けて蹴りをーー見舞うつもりだった。
驚くことに男は青年の゙蹴りを受ける前に嫌な音を立てて自ら地面へ倒れ込んだ。
「急に勢いよく近づいて来たから魔が差したな」
と、見知らぬ男の声が響く。どうやら横に面していた道から足をかけてフードの男を転倒させたらしい。突然現れた謎の人物を警戒しながら青年は転倒したままのそいつをふん縛る。手際の良さに見ていた男は感嘆して口笛を吹き洩らした。フードの男を完全に拘束し終えると青年は謎の人物の方に向き直った。
「で、あんたは誰なんだ?」
逆光で顔は見えないが男は自分より身長が高く、おそらく低く見積もっても175センチ以上は下らないだろう。
青年は値踏みするように男を見定め始めた。
男の広い肩幅から腰まで浮き沈みしながら線を描く引き締まった身体は、切り立った崖肌のように逞しい。厚い胸板の前で組まれた腕には血管が浮き出ている。体格だけ見ればまさに理想的、優雅な横姿は悔しいけれど絵になる。訝しげに目を細める青年の様子に気付いて、男は右の壁沿いに身を寄せた。
「喰狼蓮海だ」
露わになった男の姿は自然と目を引かれるものだった。端正な顔立ちをしていて、切れ長な目からは鋭い眼光を放ち、薄い唇から犬歯がのぞく。
雰囲気からして肉食獣の血が入っているのは考えるまでもない。なにより黒髪の間からぴんと立つ犬耳と服の隙間から露出するふさふさの尻尾がその証だった。
「偉ぶるんじゃねぇよ……。権威主義のクソ犬が」
通常、獣人は獣の身体部分を目立たないように隠している。それは肉食獣種、草食獣種の隔たりを意識させないためだ。
「犬じゃない。狼だ」
青年の様子を気にせずに蓮海は全身を舐めるように不躾に観察した。
「ガゼル……それとも鹿か? いや、猫とか豹の可能性も……」
青年は、ぶつぶつと自分の正体について思案している男の様子が気に入らなかった。
「どうだっていいだろ。なんの用かは知らねぇがどっか行きやがれ」
ない牙をむき出しにして彼は威嚇する。逆に蓮海は余裕の姿勢を崩さずに言い放った。
「用はある。お前ら二人にな」
「は? なに……」
青年が会話に夢中になっている隙をついてフードの男が片腕を動かした。すぐさま拘束したが間に合わない。口に何かを含んだと思いきや、男はものすごい咆哮をあげて苦しそうにもがいた。
ーーがぁあぁあァァァーーー
「っ……くそ!」
関節を完璧にきめて拘束しているのに、構うことなくそいつは出鱈目に力を込めていく。青年の耳には男の関節がミシミシと音を立てているのが聞こえた。そして徐々に増していく力に耐えかねて拘束が解けてしまうーー…!
自由の身になった男はさっきよりも鋭くなった爪で青年を引っ掻いた。ヒュッと耳元を擦る音を勘で避ける。しかし、今度は避けきれずに腹部に熱い衝撃が掠めた。
「……ってぇな!」
青年は傾いた姿勢から流れるように相手の顎へ蹴りを食らわせると倒れ込んだ先で距離を取った。普通なら気絶する威力のそれを受けたのにも関わらず男はなんともない様子でその場に立ち尽くしている。そうして顔を伏せ、微動だにせずにだらんと両腕をたらして立っていたが、次の瞬間激しく痙攣を始めた。
そして低い獣の唸り声を上げると目の゙色素が赤く濁っていく。皮膚の薄いところには青黒い血管が浮き彫りになって耳や尻尾以外の牙や爪などの獣の特徴が凶悪に現れた。
青年は手に汗を握って男を睨みつけた。
こうなったらもう手加減できる余裕はない。彼は逃げたーー。
ーー上へ。高く高く疾く高く、バッタのように壁を交互に跳ね上がっていく。
相手は完全に理性を失い、眼の前の獲物を引き裂くことだけに集中したようだ。頭上に消えた青年を無視して蓮海一直線に突進していく。
「狼相手に歯向かってくるか」
蓮海は落ち着いて構えると哀れな生き餌が懐に入るのを待っていた。彼の爪が男に届くよりも数センチ早く青年は飛び降りていた。狙いは上々、男の脳天目掛けて渾身の踵落としが炸裂する。
鈍い音がしてやっと男は再起不能となった。溜息ついて青年はその場に座り込む。すかさず蓮海がなにかの薬品が入った注射をそいつに打ちこんだ。
「いい動きだった。お前、名前は?」
すっかり疲弊している青年に蓮海は話しかけた。それが無視されると大袈裟に嘆く素振りをしてこんな事を言い始める。
「お前のせいで俺は散々な出来事に遭ったていうのに謝罪どころか無視するとは。なんて礼儀知らずで無神経な野獣なんだ……」
理性ある獣人にとってそれは挑発以外のなにものでもない。青年はそれこそ野獣のように激怒した。
「お前が邪魔さえしなければ最初から上手くいってた! 何が散々な目に遭っただ! 被害被ってるのはこっちだくそ犬野郎!」
口汚く罵ったせいで傷口に痛みが走り、青年は軽く悶絶した。
蓮海は気にせず大人しくそしりを受けると冷静に主張する。
「事実そうだ。お前は楽しく追いかけっこしている際にどさくさに紛れて俺から大事な物を奪っただろ……?」
「知るかそんなの!」
青年はこの侮辱に怒りを通り越して呆れた。それもその筈、彼は今まで一度も盗みを働いたことがない。大体「盗んだ物」がなにかもわからない上、あの状況で見ず知らずの男から窃盗を働く暇など無いに決まってるだろ……!
大方良い言い訳が見つからずに下手に取り繕ったのだろう。そう考えると滑稽だ。
すっかり青年は言いがかりだと決めつけ「具体的に何があったのか話してみろ」と鼻で笑った。その言葉に蓮海は薄く微笑って懐から取り出した濃紺の箱を彼に手渡した。青年は不思議に思いつつ、促されるままにその小さな箱を開ける。
……何も入っていない。
「結婚」
「は」
青年は耳を疑った。意味がわからない。「結婚」がどうしたというのだ。
「お前のせいで結婚を逃したんだ」
男はとんでもない事を言い出した!
「は? なにか? 俺がお前の結婚する機会を奪っただって? あの一瞬でか?!」
困惑する青年に「ああ、そうだ」と蓮海は自信満々に頷いた。
「プロポーズする時に指輪が無くなったんだ。そりゃ振られるのも仕方ない。あの時お前が俺にぶつからなければ指輪は無事だったし、俺が振られることもなかった。お前が悪いだろ?」
的を射るような指摘に青年は内心焦っていた。思い返してみれば数人と接触していたのは本当だ。その中の一人にこいつがいて、被害を受けていないとは青年自身否定しきれない。もしこれらが嘘だとして果たして自分をここまで追ってきて、更に今この場で男が嘘を付くメリットがあろうか?ーーいや無い。
反論出来なくて彼は渋々具合が抜けないまま謝罪の゙言葉を口にした。
「それはっ俺が、わ、悪かった……。この通り謝罪する! でも俺にも切羽詰まる事情があったんだ……許して、欲しい」
青年の性格上、初対面から気に食わないと思っていたこの不遜な男相手に謝罪をするなんて耐え難い屈辱だった。
なのに、
「謝罪はいらない。だって、謝って済むならなんとやらって言うよな。その通りだ。時間は巻き戻らないし、起こった事は変わらない」
蓮海はきっぱりと言ってのけた。
「ブゥゥ゛……じゃあ、どうすればいいんだ?」
無意識の内に青年は文字通り地団駄踏んだ。不機嫌そうな彼を尻目に蓮海は愉しそうに目を細める。
「そうだな。やはりお前が代わりに責任取るのがいいだろう」
意味ありげな提案だったが、青年は拍子抜けするぐらいあっさりと2つ返事で了承した。
「わかった」
そんな彼の表情は馬鹿みたいに真剣だ。さっきまで愉快そうに口を曲げていた蓮海は不覚にも真顔になってしまった。
身を打ち据えるように真っ直ぐ向けられた視線が生半可な冗談なんかで済ませていいような雰囲気を圧倒していたのだ。その触れれば火傷する苛烈な焔にいけないと知りつつも手を伸ばして、触れてみたいと望んでしまう、これは単なる好奇心なのだろうかーー…。
「けど具体的には何をすればいいんだ? 流石にまんま言葉通り俺を娶るわけじゃねぇだろ」
一方で青年は「いくら獣人が進化の過程で雌雄関係なく子どもが産めるからといって、好き好んで男を番にする奴はそうそういないだろう」などと高をくくっていただけなのだった。
「……まぁな」
気勢をそがれる彼の態度に蓮海は正気を取り戻した。よく分からないが、一瞬危うい考えを抱いたようだった。
「俺としばらくの間行動を共にして必要な時に利用させてくれれば良い」
こうして青年は蓮海のために無償で力を貸すことになった。
「それでお前の名前は?」
彼が差し出してくる手を青年は力いっぱい憎しみを込めて握り返すと挑む口調で答えた。
「托空。兎坂托空だ……」
痛いくらい繋がった掌を蓮海はわざとらしく上下に振って握手する。
「よろしくな。托空」
偶発的な出会いから早々にして発展ーー前途多難。希薄な他人同士が今初めて共鳴した瞬間だった。
「ところで」と彼は托空にそれとなく種族を聞いた。この男は始終偉そうな態度で相手の事情を顧みない傾向があり、托空がこの質問を投げかけられて顔を歪ませたことに気づいていない。
そして托空は足を小刻みに揺らしてどう答えるべきか蓮海の表情を観察していた。自信に満ちた彼の表情は見ているだけで腹が煮えてくる。
蓮海は考えた。托空の動きは見た限り荒っぽいが喧嘩慣れしている印象だった。戦闘スタイルは足がメインのようで、身軽かつしなやかな身体の造りを活かした素早い動きは眼を見張るものがあった。ーーとあれば予想されるのは肉食獣。
獣的特徴を隠しているので定かではないが、狩りを得意とする好戦的で身体が柔軟な猫や豹なんかの中型種の血が入っている説が濃厚だろう。
そんな彼の間違った思考を托空は本能的に感じとっていた。そこで捻くれた思考をそのまま悪意たっぷりに答え合わせしてやる。
「俺の名字は兎に坂で兎坂だ。つまりは読んで字のごとく俺の種族は逃げ回ることに特化した草食獣種で、愛玩程度しか取り柄のない弱々のうさぎってことだ」
彼の「どうせ馬鹿にされるだろう」という自虐的な思考は長年の経験から来るものだ。獣人社会では未だこういった偏屈な考えが浸透している。彼らの祖先は肉食動物と草食動物で区別され、強者が弱者を従え糧にして命を繋いでいた。
故に肉食獣種は草食獣種を軽んじて弱者と嘲る。どれだけ能力が高く劣らないだけの実績があろうがお構い無しだ。草食獣種というだけで侮られ蔑まれ底辺に追い込まれてしまう。
ーー彼は否定するがために牙を剥くのだが、その行為こそ自らの存在を貶め芯足らしめているとは露も知らない。
果たして目の前の男はどう反応するだろか?
草食獣種と知って失望するか、それとも取り繕って慈愛を向けるのか、そのどちらであっても驚きはしない。どうせ世間の愚物共と同じように反応するんだろ?
托空は黒耀の瞳からどんな采色が浮かぶのか期待せずに見守った。
ゆっくりと唇が開いて鋭い犬歯が見え隠れすると、はっきりとした音が彼の心臓まで届いた。
「ーー確かに兎でなければあれほどの脚力は持ち得ないな」
ただ一言簡潔に。彼は肉食獣種を圧倒した強さへの純粋な評価を口にしたのだ。
生まれて初めて認められたような気がして托空は耳の先を赤らませていた。嬉しくなどない、早る心臓を無理矢理押さえつける。
「プップッ……そうかよ」
照れたように顔を逸らす托空からは愛玩動物特有の無性に心を掻き乱す愛おしさが垣間見えた。もし、彼がうさ耳を出していたらきっとその赤の混じったふわふわの癖っ毛とよく似合っていたろう。喉の渇きに似た衝動に唾液が滲む。肉を目の前にして食欲に逆らえない駄犬のようだ。しかし自分は高貴な狼ーーそこらを徘徊する野犬とはわけが違う。
「ま、凶暴すぎて嫁や夫の貰い手は無さそうだがな」
蓮海はちゃかすような軽口を叩くと何も無い風を装い、とっさの狩猟本能をかき消した。けれど無意識にその尻尾は高く上がっていたのだった。
少し場の雰囲気が和んだところで二人は例の男に向き直った。托空としては何故蓮海がこの男に興味を示しているのかはわからなかったが、自分と同じく彼もそれなりに関係する因縁があるのかもしれない。
地面にのびたその男からフードを剥ぎ取ると、恐ろしい形相で白目を見開いた獣の顔があった。人間の要素はほとんどなくなり、身体部分も末端の方から侵食されるように獣と化している。
「猫の獣人か……全然もとの顔がわかんねぇな」
続けて托空は手慣れたように服やら鞄やらを物色し始める。かたや蓮海は何かに気を取られて一点を見つめていた。
「ん? これは……」
托空は鞄の中から赤い粉末状の薬と模様のついた金属プレートを見つけた。薬の方はある程度見当がつくものの、金属のそれはまったく解らない。
「符号かなんかなのか……?」
模様は銅でできた赤い月の印の中に苦悶する人間の顔が浮かぶよう彫刻されている。
「やはりな。その悪趣味なエンブレム………緋月の連中か」
「あ、か、つき? なんだそれ」
小首を傾げる托空に、蓮海は油紙に包まれたものを手渡した。それはずっしりと重く、鉄と火薬の嫌な匂いがした。
「銃のグリップ部分をよく見てみろ。同じ模様があるだろ。それらに共通するのはとある海外組織のシンボルマークだ。緋月、またはロッソ・セレネと呼ばれている」
やはり包まれていたのは拳銃だった。そして同じく不気味に象られた赤い月と苦悶する人のシンボルマークーー緋月とは一体?
「なるほどな。で、それを知ってるてめぇは何者なんだよ」
托空は胡乱げに蓮海を睨みつけ、必要ならば攻撃も辞さないと身構えた。両極端に敵味方を区別するのは彼の悪い癖だった。
「逆にこいつ等を追っているのに正体を掴めていないお前がどうかしている」
馬鹿馬鹿しいと蓮海は一蹴した。それでも拭いきれない闘争の火種が両者の間を漂っていたが、やがて彼の混じり気のない面に偽り無いと判断すると托空はきまりが悪そうに視線を外した。
「……うるせえ。俺はただ薬を使ってる奴を片っ端から潰してるだけだ」
托空は男が持っていた赤い粉末を憎悪の目で示した。彼はそれを心の底から憎んでいた。その正体は獣人を苦しめ畜生に身を貶める魔性の薬だ。一度手を出してしまったが最後極上の快楽に酔いしれて、反面悪辣な副作用に気付かずに破滅が待っている。
ーーかつて自分の家族がそうだったように。
だから托空には緋月という組織がなんであれその薬に関係しているか否かを重要視する。
もし薬を悪用するならば、一切の呵責なく相手の心をずたずたに切り裂き血反吐を吐かせるまで叩きのめして思い知らせてやる。これまでもそうだったしこれからも変わらない自分の矜持だ。
托空は拳をきつく握りしめていた。そんな寒々しい怒りを湛えた彼を見つめる蓮海にもまた、彼なりの辛酸を嘗める成り行きというものがある。
「安心しろ。俺は緋月と敵対視しているし、薬には毛ほども関与していない。改めて言おうーー俺は喰狼組幹部若頭候補の一人、喰狼蓮海だ」
『喰狼組』どうして名前を聞いた時に思い至らなかったのだろう。喰狼組はここら一帯の貧民街と、更に南の港商業地帯を広く縄張りとする極道一味だ。武器の密売から犯罪すれすれの商業ビジネス、金貸しなどの大きな勢力を誇り、武力にも優れた国の三大反社会的勢力の一つである。警官の叔父からはよく話を聞いていたのに不覚にも言われるまで気付けなかった。というかここ最近はとんと鳴りを潜めているような……。
「ま、詳しくは道中で説明する」
流石は狼の獣人とでも言うべきか、蓮海は軽々男を担いで歩き出した。托空はそれについて行く。この男について行って正解なのか托空にはまだわからない。けれど何か薬についての糸口を得られるような、そんな漠然とした予感があった。
ここまで読んでくれてありがとうございました(ΦωΦ)✨