7.シビラ
「助けて。……もう嫌だよ」
目の前で蹲っている子どもが自分に向かって手を伸ばしてきた。その手を冷ややかにただ見つめる。
「なんで?なんで僕ばっかりこんな目にあうの」
「もう痛いのも苦しいのも嫌」
懇願しながら擦り寄ってくる子どもを見下ろして、あぁ夢か、と頭が冴えてきた。
「ねぇ。そこまで生きてて何かいいことあった?」
助けてくれないと分かると子どもは死んだ瞳で見上げてくる。そうこの目だ。俺はいつもこんな目をしていた。
この頃の俺はここが地獄だと思っていた。
自分は地獄に生まれてしまったのだと。
シビラ・サクランドは自宅のクローゼットの中で全身の神経を研ぎ澄ませる。
この家に自分の居場所はない。
落ち着く場所を探し求めていくうちにこの場所に辿り着いた。
この暗闇が自分の存在も消してくれるようで安心する。
膝を抱えて身を小さく丸めていたシビラは、扉の向こう側が騒がしくなったことで身体を強張らせた。
野蛮な足音がどんどん近づいてきて、勢いよくクローゼットの扉が開かれる。
光に慣れていない目は突然の明るさに追いつかない。目を細めているうちに髪の毛を掴まれ外に連れ出された。
抵抗すると痛みが強くなるから、首を前に突き出し自ら頭を差し出して相手と一緒に進むようにする。そうすれば少しは引っ張られる痛みが和らぐ。
急に手を離され床に転がったシビラは、向かってくる尖った靴の先を見つめながらグッと強く歯を噛みしめた。身体に力を込め衝撃に耐えようとするが、何をどう工夫したとしても、痛みがなくなるわけじゃない。
蹴られて後方に吹っ飛んだシビラは、カッと吐き出した唾液で「床が汚れた」と今度は頬を張られた。
絶え間ない暴力が、嵐のように通り過ぎるのを待つだけ。
蹲るシビラの視界の隅に母親の姿を捉える。
ただそれは救いではない。
もはや『母親だから何だ』という感情しか湧かなかった。
この人だって、自分の事を息子だとは思っていないだろう。
ようやく気が済んだのか、離れていった相手の背中にホッと小さく息を吐く。
這いつくばってクローゼットの中に戻り、きつく身体を抱きしめた。
切れているのだろう。
口内が鉄臭い嫌な味がした。
こんな状況にも涙の一つもこぼれない自分に感動すら覚える。
辛いのは、痛みよりこの現状に慣れてしまったこと。
愛のない家庭も、理不尽な暴力も、シビラにとっては当たり前すぎていちいち嘆く暇もない。地獄とはこういう場所なのだろうという諦めだ。
合間、合間の男を除いて、シビラの父親は三回変わっていた。
一人目は本当の父親で、マフィアのボスだったと聞いている。
普段は母と二人で暮らしていたが、愛人だった母は父の元へ入り浸っていたので常に孤独だった。ただそんな生活も次第に母が父の元に行く時間が減っていき、シビラが7歳のときに家を出ることになった。
二人目はシビラにも優しく半年間ほど家庭の温もりを感じることができた。
ただそれは偽り。住む場所も家財道具も、もちろん貯金も。何もかも奪われて、母親と二人きり途方にくれたのを覚えている。
そのあと様々な男の家を渡り歩き、最後の男の家に二ヶ月置き去りにされたときは、完全に捨てられたと思った。
ゴミも漁った。
盗みもした。
そうやって辛うじて命を繋いでいると、男を連れた母親が突然戻ってきた。
「新しいパパよ」
そう言って笑ったあの顔は今でもたまに思い出す。
その新しいパパというのが、現在の男。
簡単にいえば性欲と暴力で出来ているような人間だった。
人から求められることに至高の喜びを見出す母親には最高の相手だったようだが、主に暴力のはけ口となったシビラには最悪の相手。
三人での暮らしが始まってそろそろ2年が経とうとしている。
身体の傷は絶えず、こうしてクローゼットの暗闇に落ち着きを感じるようになった。
与えられるのは痛みのみ。
次、あの男に殴られたらそのままあの世にいけるだろうか。
この世が地獄なら、あの世は天国かもしれない。
毎日そんなことを思う。
ぎゅうっと自分で自分を抱きしめながらシビラはクローゼットの中で目を閉じた。
――――――――――――
「○○の息子だな?」
誰もいない家に突然やってきた来訪者は、開口一番にそう言った。
呼び鈴も鳴らさず勝手に家に入ってきた男は、手あたり次第部屋を物色し、クローゼットの中にいるシビラを見つけた。
母親の名前を知っている相手に警戒心が高まる。蹲ったまま相手を見上げていると、無理やり抱え上げられ外に出された。
今の父親よりずいぶん若い印象を受ける。
新しい男か。
それにしては威圧感があり、少しでも緊張を解いたら頭から食われそうだと思った。
この人に殴られたら痛そうだな、とも思う。
「ボスの命によって迎えに来た」
すとんとシビラの身体を下ろした男は、子汚いシビラを上から下まで視線でなぞった。
背中に悪寒が走る理由は恐怖だろうか。それを振り払うようにシビラは男の足元に視線を落とした。
「誰?今は俺しかいないけど」
「迎えはお前だけだ」
「か、母さんは?」
「すでに話はつけてある」
「ボスって……俺の父親のことだよね?」
射竦めるような目で見下ろされて、おどおどと言ったシビラを遮るように男は答えた。
ピリッとしたこういう空気は苦手だ。
最後の質問に男は返事をしないがそれが答えだろう。
いちいち愛人の子の認知などしないのかもしれない。だって、近くに住んでいたハズなのに7年間一度も会ったことがないのだから。
男と距離をとりたくて一歩後ろに下がるが、身長の高い男はシビラより長い足を一歩踏み出し近づいてくる。
離れたかったはずなのに結局距離が縮まっただけ。
男の威圧感に無意識に俯いてしまったシビラの前で男はしゃがみ込む。
「お前、とんでもない悪さでもしたのか?」
「は?」
「それか、とんでもなくドジか」
突拍子もない言葉に呆気にとられたが、何となく男の言おうとしていることが分かる。
パッと顔を上げたシビラは、自分を真っすぐと見つめる男の瞳に捕らえられた。逸らしたいのに引力に逆らえない。
何か答えようとは思うが、頭の中に浮かび上がる様々な単語の、どれとどれを結び付ければいいか分からなかった。
困り果てたシビラは黙ったまま、ただ眉を顰めて男の顔を見る。沈黙が広がり、居心地の悪さに体がむず痒くなった。
無意識のうちに上手く呼吸が出来ていなかったらしい。
息苦しさを感じ、身体を震わせると緊張が解けたのか男から目を逸らすことが出来た。シビラが顔を背けた瞬間、男が口を開く。
「言葉は武器にもなる。学がないのは罪じゃないからな。お前に悪いところがあるとすれば、この現状をどうにかしたいと思わないことだけ。……ただそれだけだ」
説教か。
男から顔を背けたシビラの視線の先には、到底人が住んでいるとは思えない荒れ果てた部屋。シビラには綺麗にするという概念がそもそもなかった。生まれてからこれまで誰かに何かを教えてもらった記憶がない。だからこの荒れた部屋でも何も思わず住むことができる。
偽りだったとはいえ、二人目の父から与えられた家庭の温もりも、もうすっかり忘れてしまった。ただ歳だけ重ねただけで、そこら辺の赤ん坊より普通の生活を知らないかもしれない。
物心ついたときは、地獄。
一瞬味わった天国の後も、また地獄に戻ってしまった。
期待しても、希望を見出しても、無駄だと心の中で警鐘を鳴らしている。
綺麗事を言う奴は嫌いだ。
言われなくても分かっていることをあえて言ってくる奴も嫌い。
それなのにこの男がやけにまっすぐ自分の目を喋るから、気持ちが揺らいでしまった。
「あんたに……着いていったら、どうにか出来るの」
気が付くと勝手にそう口が動く。
「俺にそんな力はない」
けど男はそんなシビラを一蹴するように言い放った。
やはりどこか期待していたのだろうか。
ズンとお腹の奥が重くなったシビラは、自分勝手に罵りたくなるのを必死に堪えた。
結局、あんたもきれいごとだけ。
一瞬でも信じようとしてしまった自分が憎らしい。
気まずくなり俯いたシビラに男は「当たり前だろ」と続けた。
「そんな力があれば俺はこんなところにいない」
「なんだ……結局あんたも逃げられないのか」
嫌味を言ったつもりだった。
けれど、男はフッと口の端を上げる。
「名は?」
「……誰にも呼ばれないから忘れた」
「俺はサリューだ。“あんた”じゃない。よく覚えておけ」
サリューはドカッと床に腰を下ろす。
汚い部屋だ。
皺のないスーツが汚れてしまいそうだったが、彼はとくに気にしていないようだった。
「で?本当に忘れたのか?」
サリューは床に落ちていた本を拾い上げながら、何でもないように聞いてくる。
変な奴。
別に教える義理もないが、よく考えたら隠す理由もない。
「シビラ」
「分かった。それで?どうする?ついてくるか?」
「俺が行かなかったらサリューは困る?」
「そうだな。ボスの気分次第だ」
手にした本をパラパラを見ていたサリューはいきなりその本をシビラに投げる。
とっさに受け取るとサリューは口を開けて笑った。
「学ぼうとする気持ちがあるやつは好きだぞ」
隙間から除いた八重歯に気を取られているシビラは、一瞬怪訝な顔をした後すぐに頬を赤く染めた。慌てて本を開くと、たどたどしい字がびっちりと書き加えられている。
「なっ!お、俺は別に」
「文字は分かるのか。なら俺より優秀だ」
どういう意味?と聞く前にサリューは立ち上がる。
「シビラにとって俺と一緒にボスの元へ行くのが幸せかと聞かれれば答えはNOだ。長生きしたければこのままここで丸くなって生きていったほうがいい。理不尽に虐げられる生活のままだけどな。ただもし着いてくるなら……俺が人から殴られない方法を教えてやる」
「……そんな方法があるの?」
サリューは右側の口角だけあげて悪そうな笑みを浮かべた。
「先手必勝。やられる前にやればいい」
――――――――――――――
自分より弱い立場の人間には、毎度の暴力より最初に酷い恐怖を植え付けておけば、そのまま支配が出来るから楽だった。
それか強い立場の人間の場合、向こうも覚悟をしてきている分、戦い方も分かりやすくていい。
ただ、面倒なのはこういう相手。
「ど、どうせ殺されるならお前も道連れにしてやる」
散々口汚く罵られ、挙句の果てに刃物を向けられる。
ずいぶんな行為じゃないか。
よく考えてみろ。
お前がクスリを使ってファミリーを出し抜き、儲けを独り占めした挙句、情報を横流ししていた下っ端を殺したから、俺がわざわざ、直々に、ここにいるというのに。
これみよがしに大きなため息を吐いて、胸元に右手を突っ込むと男は完全にその手の動きに意識を集中させた。凝視されたってここには何もない。流れるような動作で左手でポケットから小刀を取り出し、男に向かって鋭く投げつける。
「ああっ!」
太ももに刺さった小刀に狼狽える男と一瞬で距離を縮め、手にしていた刃物を奪い取りそのまま顔面を抑え込んで仰向けに地面に倒す。
奪った刃物で鋭く心臓を貫き、びく、びく、と動く体から徐々に力が抜けていくのを確認して、ようやく立ち上がった。
「相変わらずあっという間に殺すよなぁ。もっと痛めつけてからじわじわとやるのが始末屋の醍醐味じゃねぇの」
「俺にそんな趣味はない」
「ハハッ、相変わらずつまんない返事」
立ち上がり屍となった男を見下ろしていると、背後から声をかけられた。
振り返りもせず返事をすると、相手はくるりと回り込んでくる。
「まぁ、シビラが仕事が出来て助かるよ。俺はそっちの才能はないみたいだから」
自分とは違う明るい髪色と瞳の色。
癇に障る言い方をしながら、言うだけ言ってヒラヒラと手を振る。
「間違っても殺されないでよ。次、俺の番なんだからさ。かわいい弟の為にこれからも上手くやって」
「俺が殺されるとしたらファミリーに消されるときだけだ。お前のためじゃないから心配するな。さっさと報告して帰れ」
「はいはい。言われなくても」
スタスタと通り過ぎていく男に、はぁと息を漏らす。
屍を端に寄せて回収されるのを待ちながら、シビラはずるずるとその場に座り込んだ。
かわいい弟、か。
言われたことを思い出して眉を顰める。
あと何人兄弟がいるのか、考えるのも面倒だった。
それに、痛めつけてじわじわと殺すのは性に合わない。
初めて自分の意思で人を殺したのは、あの散々暴力を振るってきたあいつを殺したとき。
何度も何度も蹴られたお返しに。
縛り上げて何度も何度も蹴ってやった。先の尖った靴を履き同じ個所を何度も何度も。
流れる血で汚れたと原型が分からなくなるまで顔も殴ってやった。
反撃をしてこないお前のおもちゃだった俺にやられる気分はどうだ。
散々罵りたかったが、絞り出すように出てきた言葉はたったそれだけ。
しかも本人には届いていなかった。
すっきりすると思った。
けれど残ったのは虚無感だけ。
恨んでいた相手にすらそう思ったのだから、他人にはなおさら無理だ。
だから一秒たりとも無駄にしない。
そう決めた。それが自分なりの流儀だった。
サリューについていくことを決めてから8年が経とうとしている。
今では誰かに理不尽に傷つけられることもなくなり、逆に人を傷つけて生きてきた。
幸せと問われれば難しいが、それでもちゃんとした人間らしく生活を送れたのは3年。
サリューと一緒に過ごした日々は今でもちゃんと覚えている。
何もかも全て。
首元に彫った花のようなタトゥーにそっと触れる。
結局この模様がなんなのかは教えてもらっていない。サリューのことだ。特に意味もなかったのかもしれないが。
さっき自らをかわいい弟と名乗ったのは、ミラールという名前だったはず。
“ボスに報告する“仕事をしているというが、そんなポジションがあるのは初耳だった。ただ、シビラが知らないこともまだまだたくさんある。シビラはほかの兄弟とのコミュニケーションをとってはいなかった。
今まで出会った兄弟は10人を超えている。
すべて父親だけが同じ異母兄弟。
女を含めたらもっといるのかもしれないが、ファミリーでこの仕事をしている間に出会ったのはすべて男。あの頃は自分ばっかりが不遇な生活をしていると思っていたが、どこも似たような感じらしい。
引き取られ、仕事を与えられ、“弟”に仕事を教えていく。
シビラが初めて仕事を教えた弟は、仕事に耐えられなくなり自害したと聞いた。
ただ本当は、逃げ出したせいで殺されたんじゃないかと思っている。ここはそういう場所だ。自分たちの父親でもあるが、ボスはそういう人間だった。
そんな身内を持ち、そんな仕事をしてきた自分が。
どうして彼女と一緒になれると思ったのだろうか。
ミスズからもらった押し花が、サリューの刺青の模様と似ている。たったそれだけのことで、調子を狂わされてしまった。彼女が徐々に好意を抱き始めているのも知ってしまった。自分でも情が湧いている。一刻も早く離れるべきだろう。
「いいことなんて何もない。俺はここから逃げられない」
「じゃあ、俺は一生幸せには慣れないの?」
夢だと分かっているのに。幼い頃の自分がそう問うてくる。何の感情も映し出さない瞳でまっすぐ俺を見る。そんな目で見たって無駄だ。「そうだ」と言おうとしたら、後ろから誰かに口を塞がれる。
『そんなこと言わないで』
聞いたことがある。
この声は……。
手を振り払おうとして身体を動かすと激痛が走った。
ゆっくりと目を開けるとなんだか見覚えのある場所。そういえばメイセイに……。ぼんやりとしながら思い出して、バッと起き上がった。思わず顔をしかめるくらいの痛みだったが、それより重要なことがある。
起き上がって部屋を出るとメイセイが駆け寄ってきた。
「まだ動かない方がいい」
「それよりミスズは」
「あの子ならちゃんと送ってきた。だから頼むから自分の身体を労わってくれ」
それを聞いて少し安心した。
部屋に戻るように促されてもう一度ベッドに入る。メイセイが布団をかけ直してくれている間、ゆっくりと目を閉じた。
「なんで、あの子なんだよ」
「……だから離れようとしたんだ」
「あの子が何もかも捨てると言ったら?」
「それでも俺が一緒にいていい人じゃない」
返事の代わりにメイセイが大きく息を吐いた音が聞こえる。そのまま部屋を出て行った音がして、うすく目を開けた。
分かっている。
俺は幸せにはなれない。
読んで頂きありがとうございました!




