パンイチ(そして体育祭の思い出)
いじめ、性同一障害に関する記述があります。
苦手な方はお避け下さいませ。
「パンイチ……」
「え、何? お父さんパンの方が良かったの?」
篝の声に我に帰ると炊飯器の蓋を開けているその姿が目に入った。つい独り言を言ってしまったらしい。
「あ、いや、何でもない。いい匂いだな」
笑って見せると篝は笑顔を返し朝食の準備をつづけた。妻を亡くして一年。高二の篝との二人暮らしがやっと日常になって来ていた。
私はふと、以前ポロリと漏らした捜査情報から篝がぴたりと犯人を言い当てたことをふと思い出し、篝に事件解決のヒントをもらえないか、と思った。が、首を振り、私はその考えを押しやった。たとえ家族といえど捜査中の事件について語ることはできないのだ。
「また事件の事を考えていたの?」
食卓に着くと篝は言った。私は欲望に負けた。捜査は詰んでいた。
「仮にだよ。仮に大人の男がパンツ一枚で傘を手にビルの下に落ちていたら、それは殺人か事故か自殺か。一体どれだろうな」
篝は目を閉じた。そしてやがて目を開くと語り始めた。
「中学校の時のあたしの友達の健君の事を覚えてる?」
ああ、もちろん、と答えながら、懐かしく思いだした。
篝は体は男だが、心は女子という性同一性障害を抱えており、健君はそんな篝に理解を示してくれる大切な友達だった。
「健君、あの頃あたしの友達をやっているってことでいじめられることがあったの。体育祭の日、空き教室に呼び出されて、着ていた体育着どころか下着までとられて……その格好で助けを呼ぶこともできなくて、たまたまそこにあった古い傘で体を隠しながらベランダ伝いに教室に置いていた制服を取りに行こうとしたんだって。外からも教室の窓からも見えないように身をかがめながら。でも突風で傘が飛んで。人気のなくなる放課後まで裸でベランダにいたって」
「そんなことが」
「健君は中三の時に家の都合で転校したでしょ。その時に教えてくれたの。『10月に屋外で全裸はきつかった』って笑いながら」
翌日、死亡した男性の会社で上司のひどいパワハラがあったことが内部告発された。死亡した男性は勤めていた会社の14階のベランダに裸で放置されることがあったらしい。おそらくあの日も。ベランダにあった傘で体を隠していたところに突風が吹き、あおられ、傘の持ち手のひもに手首を通していたためはずみで落ちたという見解だった。
事故。
だが別件での立件を目指し証拠固めが始まった。
私は自宅に戻ると篝に言った。
「辛いことはないか?」
篝はただ微笑んでいた。
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