④ 重い指
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カタカタカタカタ。カタカタ、カタ、カタ。カタ、カタカタ、カタ。
つっかえるようなタイピング音がスズメの寝床から鳴っていた。
「スズメ様、スズメ様、お仕事はお止めになってください。今のスズメ様の体は休息を必要としております」
「ごめんね、サルカ。放っておいて」
スズメは布団の上で体を起こし、ノートパソコンのキーボードをタイピングしていた。
液晶画面にはシカバネ町の監視カメラの映像が次々に流れていた。上手く動かない指を無理やり動かしていつもの様にシカバネ町のセキュリティシステムをハッキングしたのだ。
体が重い。心臓がずっしりと地面に引っ張られているような感覚が続いている。
「スズメ様」
「サルカ、いいから、わたしの好きにさせて」
「……承知いたしました」
サルカがジッとこちらを見ていたが、それだけだった
これが人間であったのならば、きっと無理やりでも自分は寝かされているのだろう。だが、サルカ達はキョンシーだ。機能として気遣いの言葉や動作を見せるが、主の命令には逆らえない。
指が重い。いつもよりも打ち間違いが多い。だから、いつもよりもハッキングに長い時間がかかった。
安静にしているべきだ。理性がそう語り、
安静にしていて何になる? 理性がそう問うた。
――きょうかを助けなきゃ。じゃなきゃ、わたしが生きている意味が無い。
壊れた体。壊された体。何かをしていなければ心が耐えられない。
液晶画面の光が目に辛い。太ももの上に置いたノートパソコンが重い。関節が熱で痛くて、肺が上手く動いてない気がする。
それらを全部無視してスズメは頭の中で監視カメラの情報を処理していく。
映像の並列処理。かつて味わったあの忌まわしき研究所での地獄の日々の中で改造させられたスズメのスペシャリティ。目に映った十数の映像を瞬時に認識し、次の映像を表示し続ける。
体を起こしてから既に千近い地点の監視カメラ映像をスズメは見ていた。
いくつもの不審な影があった。それらは無意識レベルに刷り込ませた動作でハカモリに報告をしてある。
例えば、三百ほど前の映像。シカバネ町西区のとあるマンションの階段で素体狩りに連れ去られようという子供の姿があった。
例えば、八百ほど前の映像。シカバネ町北区の路地裏に数個の内臓が落ちていた。
例えば、たった今映った映像。シカバネ町東部の大通りにて、改造痕が見えるキョンシーを連れた人間の姿があった。
心臓が苦しくて重い。監視カメラの先には数々の〝大人〟の姿があった。
映像とはいえ、大人はスズメのトラウマの象徴だ。自分を破壊し尽くした研究員達の姿と重なる。今すぐに逃げろと心臓は絞めつき、逃げられるような体ではないと脳が絶望する。
そのトラウマもできるだけ無視して、スズメはシカバネ町の監視映像を片っ端から脳に叩き込んでいく。
――また死角が増えてる。
異様な速度で増改築を繰り返していくシカバネ町。監視カメラが行き届いていない場所が生まれては消えていた。
シカバネ町の歪みだった。この死角の中で、かつてのスズメと同じように何人もの素体が攫われて壊されているのだ。
それは良い。それはもう良い。だが、死角に対してスズメでは無力だ。
苛立ち、苛立ってしまったから、体が痛み、スズメは唇を噛む。
「きょうか」
愛している人の名前を呟く。あの人のために尽くすのだ。そうスズメは決めている。スズメにとってきょうかは女神なのだから。
カタ、カタカタ、カタカタカタカタ。
カタカタカタカタカタカタカタカタカ、タカタ。
「サルカ、お水を、持ってきて」
「かしこまりました」
頭が重い。それでも指をスズメは止めない。
京香はきっと望まないだろう。優しいあの人はきっと自分には安静にしていて欲しく、元気に成って欲しいのだ。
でも、スズメには――きっと京香にも――分かっていた。葉隠スズメが元気に成ることはもう二度と無いのだ。
「スズメ様、お水です」
「ありがとう。口に入れて」
コップもまともに持てない。タイピングをするのがやっとの体だ。
サルカの持つ水差しから口に水を含む。
少しでも指を動かせ。少しでもあの人に尽くせ。でなければ耐えられない。
スズメはタイピングを続ける。画面で見た映像が千五百を超えた。
体が重いのに頭だけが動いていた。いつのまにか一つの映像にかける処理時間は一秒を切っている。
常人にはノートパソコンの画面に無数の映像が高速で移り変わっていく様にしか見えないだろう。
自分が息をしているのかさえ分からなくなるほどにスズメは没頭する。自分が情報処理の装置になった様な感覚だった。
脳の映像処理に指が追い付かない。それが腹立たしい。
どれだけ頭が動いてもこの重い指では思ったようにシカバネ町のカメラをハッキングできない。
――オクトパスを……。いや、だめだ。今のわたしの体力でオクトパスは使えない。
ただでさえ、安静にしていなければならない体を無視してノートパソコンを弄っているのだ。オクトパスを使ってしまったら次いつ起きられるかも分からない。
オクトパスを使って京香の役に立てるという確信も無いのに、賭けには出られない。
カタカタ、カタ、カタカタカタカタ。稀に乱れるタイピングを我慢してスズメはシカバネ町を見ていく。これは自分にしかできないことで、自分が京香の役に立てる数少ないことだ。
何かを見つけなければ、彼女に尽くせる何かを為さなければ。
スズメのそれは執念だった。無理やり見開いた眼は幽鬼の様。
カタカタカタ、カタカ――
「――ん?」
そして、認識した映像が六千を超えた頃、一つの映像にスズメはタイピングを止めた。
スズメが見たのはシカバネ町南区のとある監視カメラだった。
キョンシー用のパーツが保管されている倉庫近くの監視カメラだ。シカバネ町では最大級の大型倉庫。前に蜘蛛型キョンシーに襲われ、故障したカワセミ用の修理パーツもここから買っている。
その倉庫の近くに一人の女が立っていた。
フードを被り、マスクをした女だ。穿った見方をすれば、薬や素体パーツの違法売人にも見える。シカバネ町ではありふれた姿だ。
しかし、その女の姿にスズメは違和感を覚えた。
他の監視カメラの映像への意識を一旦止め、スズメは女が映った映像にだけしばらく注力する。
女は倉庫の前でしばらく止まり、そして背後を見た後、すぐに脇道へと姿を消した。続いてハカモリの第一課の捜査官達が現れる。
今の一連の映像をスズメはループして流す。
どうやら、女はハカモリから逃げたらしい。何か後ろ暗い物を抱えているのは確定だった。
だが、スズメが気にしたのはそこではない。スズメが気にしたのは〝なぜ、自分が今の女の姿に目を止めたか〟だ。
女の顔はマスクで隠れていた。監視カメラの映像からでは良く分からない。
あれは大人の女である。マスクをしてフードを被っていたけれど、体格からして第二次性徴を終えた女の体だ。事実、そう認識してしまったスズメの体は震え、肌が粟立っている。
大人はスズメにとって嫌悪と恐怖の対象だ。映像越しだとしても一秒だって視界に入れたくない。
そんな自分の目に留まった、言い換えるならば目に留める判断をした無意識の理由にスズメは意識を向ける。
「……きょうか関係だ」
それしかない。葉隠スズメの無意識が恐怖を超えて大人を認識しようとするなど、京香関係しかなかった。
クラリ、クラクラクラクラ。集中が途切れ、スズメの体を強烈な眩暈が襲う。
「スズメ様。限界です。今度こそお休みになられてください」
いつの間にかサルカが近くまで寄ってスズメの体を布団へと優しく押し倒していた。
限界である。これ以上今日は動けない。
完全に意識が落ちる前にスズメはサルカの眼を見た。
「サルカ、みんなに命令する。この映像の女の情報を集めて。きょうかの今までの周辺人物をまとめた情報と一緒に。今すぐに」
サルカが一度目を見開き、そして、スズメの指がさした監視カメラの映像を見る。
「承知いたしました。お任せください。次にスズメ様が目覚めるまで、十全の情報を集めて見せます」
「おね、がいね」
スズメの意識が落ちる。どうにかモニターをさしていた重い指がポスンと布団に落ちた。