① 雨、変わりゆく日常
シトシトシトシトシトシトシトシト。
シカバネ町、キョンシー犯罪対策局本部ビル、六階、第六課オフィスにて京香はカタカタとキーボードを打っていた。
今年の梅雨は例年よりも雨が多かった。窓ガラスを打ち付ける音が、オフィスの中の音を吸収している様だった。
「……キョウカ、ワタシの分の資料デス。確認してくだサイ」
「ん。ありがとヤマダ。えっと……中国での戦いね」
「はイ。まあまあ骨が折れましタ」
四月に行われたモーバ対策会議が終わり、既に約二か月が過ぎた。
久方ぶりに起きた大規模テロ。住民達の約二パーセントを簒奪されたが、シカバネ町には平和が戻りつつあった。破壊された施設や工場は表面上修復され、住民達にも平穏が戻っている。
会議で決まった通り、各国との連携も強化されている。
ヤマダからの報告はその一環だった。
「中国の杭州だっけ? モーバは居たの?」
「えエ、中途半端な戦闘員達でしタ」
「撲滅は?」
「しましタ。一人足りとも逃してまセン」
「ん。素晴らしいわ」
シカバネ町の捜査官達は今世界各国に飛び回っている。目的はモーバの撲滅である。各国のモーバの拠点を調査しているのだ。
「キョウカは先週までカナダでしたネ?」
「そ、バンクーバー。アタシは空振りだったけどね」
第六課も例外ではない。むしろ、使い易い別働舞台として世界各地へと派遣されている。京香も恭介を連れてこの一か月エジプトとカナダの二地域へ飛び、一つのモーバの拠点を潰していた。
「先輩、僕の資料もできました」
「ん、恭介もありがとね。後で読むわ」
京香達が今書いているのは、世界各地を飛び回った際の報告書である。どの様な敵が居たか、今まで発見されていたネームドは居たか、注意すべき戦力は増えたのか。それらをまとめる事務仕事だった。
シトシトシトシトシトシトシトシト。
シトシトシトシトシトシトシトシト。
シトシトシトシトシトシトシトシト。
――集中が切れて来たわね。
昼食から既に二時間。今日はずっと報告書と格闘している。雨音が気に成って来ていて、京香は一度休憩することにした。
肩を伸ばして立ち上がり、窓際に立ち、外を見た。
白い雲で覆われたシカバネ町。水滴が付いたガラス窓にオフィスの風景が反射している。
ヤマダは自席でセバスチャンの紅茶を飲んでいる。奥のソファではホムラ、ココミ、シラユキ、フレデリカの四人がいつもの様に菓子を摘まんでいて、ただ一人仕事を続ける恭介がこちらへと目を向けていた。
恭介には心配をかけている。四月にあんな泣き面を見せたのだ。先輩として情けない。けれど、少しだけスッキリしていたのも事実だった。
取り繕うプライドももう無い。情けない先輩として恭介に接するしか無かった。
シトシトシトシトシトシトシトシト。
シトシトシトシトシトシトシトシト。
シトシトシトシトシトシトシトシト。
京香は眉を顰めてこめかみを揉んだ。
雨が降っている。低気圧で、ずっと頭痛がしていて調子が悪い。朝よりは幾分マシだが、それでも苦手な物は苦手なままだ。
「……降ってるわねぇ」
梅雨明けはまだ遠い。もうしばらくこの頭痛と付き合っていくことになるだろう。
徹夜明けの様な鈍痛と頭に血が行っていない感覚が収まらない。京香がこめかみを揉んでいるとドタドタと言う大きな足音がオフィスドアの外から響いた。
足音の持ち主は分かる。京香は無意識に唇をキュッと引き結んでいた。
「ハハハハハハハハハハハハ! 吾輩達がパトロールから帰ってきたぞ!」
「おかえり。何か変なことあった?」
「素体狩りを見付けたから撲滅しておいた! 後ほど連絡がお前に行くだろう!」
「マジで? 何処の建物も壊してない?」
「ハハハハ。すまんな」
「いや、すまんな、じゃなく」
振り向き、ドアを開け放ちながら笑う霊幻に京香がいつもの様に話しかける。
マント姿の霊幻。いつもの姿だが、その体には無数の紅髪が絡み付き、ほとんど零距離で幽鬼の様な女が寄り添っていた。
「リコリスもお疲れ様。体に異常とかはある?」
「……無いよ。コウちゃん、濡れちゃってるね。タオルを持って来るから待っててね」
リコリスの返答は分かり易かった。ジロリと京香を睨みつけ、その後すぐに霊幻のためにタオルを取りに行っている。
「ん。いつも通りみたいね」
苦笑しながら京香は霊幻へと近づき、リコリスの言う通りびしょ濡れの頬を撫でた。
「アンタはどう? 異常はある?」
「全く無い。吾輩の防水性は完璧だからな」
「そ。良かった」
ペタペタと一通り霊幻の体を触る。確かに何処にも異常は無さそうだった。
「コウちゃんにベタベタ触るな」
「あ、帰って来たの。早いわねリコリス」
「黙れ。早くコウちゃんから離れて」
目一杯のバスタオルを腕と髪で抱えたリコリスが戻って来た。京香が霊幻に近寄っているのが気に入らない様で、隠すことも無く、憎悪の声を浴びせて来る。
この二か月毎日の様に聞いて来た。だが、慣れられる物ではない。
ズキズキと攻撃された心が痛む。それを表情には出さない様にして京香は「はいはい。霊幻を拭いてあげて」と返事をした。
京香が離れ、リコリスが霊幻の体をバスタオルでもみくちゃに拭いて行く。特に京香が触ったところを念入りに拭いていた。
「リコリス、何度も言っているが、お前の憎悪は対象を間違えている」
「……でも」
「でも、ではない。京香は吾輩達の主なのだ。意味も無く攻撃をするな」
「……コウちゃんが、そう言うなら」
リコリスは納得していないのは明白で、きっと明日も今の様なやり取りが起きるだろう。
カリカリ。京香は軽く首を掻き、席へを戻る。
「先輩、お茶です」
「ん? ありがとね、恭介」
京香が席に座った直後、恭介が茶と茶菓子を机に置いた。
「……もしかして雨の日は苦手ですか?」
「あ、分かる? 酷い低血圧でさ。もう頭痛が酷いのなんの」
ハハハ、と恭介に笑い返し、京香は温めの茶を飲んだ。
こうして、恭介が適当な雑談をして来る様になったのは最近だった。
「先輩は今日早上がりでしたよね」
「うん。ちょっとスズメの所行きたくて」
「葉隠邸に? 何かありましたか?」
「んーん、単純にお見舞い。年明けからスズメの体調崩れてるからさ。心配なのよ」
年明け、京香がコウセン町に行き、恭介がモーバと争った時、スズメは大分無理をした。その無理がたたってずっと体調を崩している。先月会いに行った時も大分痩せてしまっていた。
友として昔馴染みとして、心配で、京香は今日も見舞いに行くことにしたのだ。
「……それは、心配ですね」
「うん。まあ、スズメの体のことを考えるなら仕方ないんだけどね」
スズメの体は壊れている。度重なる薬物投与、内臓の採取、地獄の日々が彼女の寿命を著しく削った。
京香は前方のソファで何やら喋っているフレデリカを見た。
ある意味でスズメの体はフレデリカよりも深刻である。フレデリカ、木下優花は四肢を捥がれ、内臓を一部酷使されたが、致命的な破壊が体の中に起きている訳ではない。
けれど、スズメはその逆だった。外見上、大きな損傷は無い。だが、内部はその実めちゃくちゃだった。
「……本当は、病院に行った方が良いんだけど、ほら、スズメは大人の人が駄目だから」
「それは、もう何と言うか」
「ま、でも、まだ大丈夫よ。一応お医者さんからの治療は受けているみたいだし。もうしばらくちゃんと静養してれば前みたいに這ってでもアタシに突撃してくるようになるわ」
「あ、それなら良かったです。僕も葉隠さんにはお世話に成りましたから、回復を祈ってますよ」
「ん。スズメにも伝えとくわ」
ハハハと笑い、京香は報告書の続きを打ち込み始める。
シトシトシトシトシトシトシトシトシトシト。
シトシトシトシトシトシトシトシトシトシト。
シトシトシトシトシトシトシトシトシトシト。
時刻は午後三時。雨音はまた少し強く成っていた。




