④ 始まりの誓い
「コウタロウに守られてね、色んなことが分かっていってね、アタシは分かんなくなっちゃったの」
「何が、ですか?」
「幸太郎にね、どんな感情を向ければ良いのか、とかかな」
恭介はこちらを見ながら酒を飲んでツマミを食べるだけだった。
――止まれ。
僅かな理性が舌を止めようとする。けれど、熱に浮かされた様に舌は止まらなかった。
「結局、アタシのせいであかねさんが死んじゃって、アタシを助けて幸太郎も死んじゃった。だから、もうね、今でも分かんないの」
「……」
「おかしいよね。アタシもそう思うわ」
幸太郎のことを思い出さない日は無い。彼の笑顔や彼の声を忘れた日は無かった。
――止まれ。
「幸太郎はすごい人だったんだよ。アタシを守ってくれて、アタシのことを育てようとしてくれた。幸太郎がアタシをどう思ってたかは分からないけど、とっても感謝してるのよ」
グラスからサワーが切れ、京香はもう一度蒸留酒を今度はそのまま注いだ。
「幸太郎が死んじゃって、霊幻に成ってさ。アタシは初めて分かったの。ああ、人間とキョンシーは違うんだなぁって」
「そりゃ、違いますよね。人間とキョンシーは全然別物ですし」
「うん。そうなの。知ってはいたのよ。でも、分かってなかったの」
――止まれ。
「霊幻がね、いつも幸太郎に見えるの。霊幻を見る度に幸太郎を思い出しちゃうの。でもね、霊幻は霊幻で、幸太郎とは違くて、でも幸太郎みたいで。……ごめん、何言いたいのか分からなく成っちゃったわ」
クピッ。蒸留酒を喉に流し込み、カァッと喉が熱くなった。
ピントが合わなくなっていく。瞼も落ちそうだった。
気付いたら京香は黙っていて、恭介もそれに準じていた。
何故だか目頭が熱い。霊幻と幸太郎の顔や姿が何度も脳裏に過る。
――ヤバい。
まずい状況だ。悪い酔い方をしている。揺れる視界の中で時計を見ると午前三時半を超えていた。
口が上手く動かなくて、視界はただ幸太郎が好きだった酒の入ったグラスに向けられたままだ。
震えそうになる肩が抑えられない。感情が上手く制御できなかった。
「リコリスのさ、あかねさんの遺言がさ、すごく辛くてさ」
「……はい」
恭介の声だけがただただ優しかった。
「あかねさんに恨まれてるって分かって、あかねさんから見てあたしが幸太郎と居て良かったらしいって分かって、訳が分からなくてさ」
「はい」
――止まれ。
「アタシにはあんな言葉言えない。あんな風に一緒に居ようなんて言えない」
「はい」
幸太郎と並ぶあかねの姿は京香にとって理想だった。
「アタシがあかねさんから幸太郎の隣を奪えるはずが無いのにさ。でも、幸太郎の隣にアタシは立ちたくてさ。それでもあかねさんはそれが嫌だったみたいでさ」
「はい」
「あんな、あんな言葉聞いたらさ、霊幻はリコリスの傍に居るのが正しい様にさ、思えちゃったんだよ」
「……はい」
でも、京香は後悔していた。ずっと後悔しているのだ。
「もう、霊幻と一緒に居れる時間はあまり残ってないのに。何で、それをリコリスにあげちゃったんだろ」
鼻の奥が痛かった。コップを握る手が強く成る。
「〝京香〟先輩」
「え?」
ずっとそう呼べと、そう呼んで良いと言っていた呼び方が恭介の口から出て京香は顔を上げてしまった。
そこに居たのは、こちらを真っ直ぐに見る後輩の姿。
眼の奥が熱くて痛い。それでも恭介から目を逸らせなかった。
「京香先輩。今から僕はあなたへ酷いことを言います」
グラスの酒を飲み下し、恭介がゆっくりと京香へこう言った。
「京香先輩はどうしたいんですか?」
「――」
京香の頭が真っ白に成った。
「どう、したい?」
色んな言葉が体の中で駆け巡る。今やるべきこと、やらなければいけないこと、霊幻の寿命、モーバの撲滅。京香の中で対応できない程多くの言葉が流れた。
でも、その中で最後に残った言葉は二つだった。
『好きなように生きろ』
『祈りを壊す全てを、祈りを穢す全部を、アタシを邪魔する何もかもを撲滅するの」
幸太郎がくれた終わりの言葉。
霊幻へ向けた始まりの言葉。
アルコールで熱を持った息が胃から喉を通って口から出た。
「……あれ?」
そして、視界が歪む。熱と痛みを持った液体が眼から溢れ出した。
「あ、ごめん、ちょっと、あれ? 止まんない」
遅れて溢れているのが涙だと認識して、見ないでと言う様に両手で眼を覆う。
忘れていた。あの人から貰った言葉の意味を。
幸太郎は望まない。
彼は優しい人だったから。憎らしいあの人は清金京香の不幸を許してくれないのだ。
霊幻は許さない。
彼は酷いキョンシーだから。狂おしいあの人は清金京香の不幸を望んでくれないのだ。
涙が熱い。それに触れた手も熱い。
京香の中で何かが壊れていく。ずっと我慢していた何かが壊れていった。
「恭介、あのね、霊幻がもうすぐ壊れちゃうの」
「……ええ」
「ずっと一緒に居てくれた。ずっと傍に居てくれた。アタシを一人にしないでくれた。霊幻が居なくなっちゃうの」
「……そうですね」
ああ、怖いのだ。嫌なのだ。霊幻が居なくなってしまうことが。口に出せなかった。出してしまったら終わりの様な気がして、でも出してしまった。
こんな弱い姿を後輩に見せたくなかった。
「やだぁ。やだやだやだ。霊幻が居なくなるなんて、嫌だよぉ」
ボタボタと手から零れた涙が机に落ちる。ギギィと音がして、恭介の手が京香の背中を撫でた。
「……嫌ですよね」
止まれ。これ以上の醜態は止めろ。理性は言う。だが、決壊した感情は止まらなかった。
「どうして? 何で居なくなるの? 幸太郎も死んじゃって、霊幻まで居なくなるの?」
霊幻が大切だった。霊幻との日々が大切だった。
ああ、嫌なのだ。怖いのだ。分かっていた感情が、眼を逸らしていた感情が、目の前でありありと形を成していく。
「どうにかならないのかって調べたの。でも、どうにもならないって。どうやっても霊幻の寿命は伸ばせないって。じゃあ、アタシが代わりに戦えば、霊幻は戦わないで済む。そうすれば霊幻の寿命は少しでも延びるって」
「……そうかもしれませんね」
恭介の手が優しく京香の背を叩く。
「でも、ダメだった。ダメだったのよ。それは霊幻を、一番大事な霊幻の否定だから。霊幻の撲滅を邪魔できないの」
叫び様な嗚咽だった。一刻一刻と霊幻は壊れていく。もう数か月も寿命は残っていない。別れのタイマーは眼に見えるところまで迫っていて、京香の精神を追い詰めていた。
「やだ、ほんとにやだ。霊幻に会えなくなるなんて。まだ、霊幻と一緒に居たい。一緒に街を回って、偶にパーティーとかして、やりたいことはまだまだあって。でも、もう全部できなくなっちゃう」
霊幻は京香の拠り所だった。彼が居たからここまで来れた。そんな彼がもう居なくなろうとしている。
ああ、でも、そうだった。そんな彼へ京香は誓っていたのだ。
「京香先輩は、何をしたいんですか?」
再びの問い。繰り返された言葉。
答えはもう決まっていたのだ。
幸太郎からの最期の言葉は覚えていた。ずっと繰り返していた。
でも、霊幻へ放った誓いの言葉を京香は忘れてしまっていた。
「アタシは、撲滅するの。祈りを壊す全部を、祈りを穢す全部を、アタシを邪魔する何もかもを。そう、霊幻に誓ったの」
ああ、そうだ。霊幻はずっとこの言葉を覚えていたのだ。だから、彼は寄り添ってくれていて、自分の傍に居ようとしてくれたのだ。
酩酊の中、京香は泣いた。ああ、自分は間違えていたのだ。
生者の祈りばかりを思い出して、死者への誓いを忘れていた。
涙が止まらない。酔いの中、意識が堕ちていく。
「ああ、もう、くそ、なんで、アタシは」
間違えていた。
霊幻が壊れてしまう。終わりばかりに目が向いて、始まりの誓いを忘れていた。
「……大丈夫です。京香先輩、大丈夫ですよ」
背中を叩く恭介の手、眠りに落ちる最期まで京香が覚えていたのはその手の感触だった。