⑤ 誰の物?
ほんの少しの沈黙が流れた。
京香が放った一撃でこの場に居た敵は掃討され、一つの戦闘が終わったからだ。
視線の向こう。霊幻の腕に抱かれたリコリスはその身をゆだね、紅髪を彼へと絡み付かせている。
ジャリジャリジャリジャリ。砂鉄の翼が乱れる。
「ッ」
背後で恭介とフレデリカが海へ呻いていた。それを労うことも京香にはできない。
静かだった。地上の敵は消え去った。海に逃げた敵はもう追えない。この場で京香達にできることは何も無い。
だから、本来なら、マグネトロキネシスを解き、恭介にでもハカモリの本部へ通信させ、次の指示を仰ぐべきだった。
冷静な部分がそう主張する。それらは全て封殺された。
京香の意識は十数メートル先の霊幻達にだけ注がれ、視線は霊幻の頬を撫でるリコリスの手に向けられている。
ジャリジャリジャリジャリ。グルグルグルグル。
砂鉄の雲、鉄球の星。二つの黒鉄を携え、京香の足は前に進む。
「せん、ぱい」
恭介の声がする。京香を止めようとしているのか、それとも何か別のことを言おうとしているのか。そこに割ける意識は無かった。
きっと、今の自分は酷い顔をしているのだろう。頬と唇に力が入り、眉の辺りが少し痛かった。
近寄ってくる京香へリコリスが表情を変える。
紅髪は霊幻に絡み付けたまま、霊幻の頬から名残惜しそうに手を外し、重心を前に、憎悪に塗れた眼が京香を突き刺した。
心が悲鳴を上げる。不知火あかねの顔で、そんな表情を自分に向けて欲しくなかった。
ああ、だけど、京香には分かっていた。きっとあかねは自分を恨んでいただろうし、幸太郎のために作られたリコリスはその憎悪を引き継いでいる。
キョンシーの思いは時として人間よりも純粋である。
先鋭化された感情と画一化された行動。この憎悪の眼は不知火あかねの物と同じではない。けれど、あかねが持っていた感情の証左でもあった。
胸が痛い。恐怖が湧く。後悔と罪悪感が血を巡る。
それでも、京香の足は止まらない。頭には霊幻のことしかなかった。
ジャリジャリジャリジャリ。グルグルグルグル。
全身に砂鉄を纏う。あんなにも操るのが難しかったのにおかしいくらい素直に磁場が従ってくれていた。
クネクネクネクネ。リコリスが紅髪を広げる。見開かれた紅い眼が京香から逸らされない。
ピリリとした緊張感。京香の足は止まらず、リコリスは霊幻の前で立ったままだったからその距離は縮まっていく。
トラウマが刺激されている。首筋には鳥肌が立っていた。
そんな物はどうでも良かった。
トン。京香は足を止める。ジャリジャリジャリジャリ。砂鉄の翼が乱れ、砂鉄の雲が展開され、鉄球の星が周囲に浮かんだ。
京香は右手を突き出した。
眼を見開いたまま、霊幻とリコリスから目をそらさない。
「霊幻を返して」
蘇生符を付けている。見た目も随分と変わった。けれど、霊幻とリコリスの姿はかつての幸太郎とあかねの姿に重なる。
きっと、自分が居なければあの二人は今もこうして寄り添っていたのだろう。
後悔と悔恨と自己嫌悪を忘れた日は無い。自分が居なければ良かったのだと思わない日は無い。
それでも、霊幻は渡せなかった。
***
「霊幻を返して」
京香が吐いた言葉にリコリスは心を憎悪が駆け巡った。
返して。返せ。返せと京香は言ったのだ。
どの口がほざくのか。あかねからコウちゃんを奪い、この素体を殺し、そしてあまつさえコウちゃんを死なせた女が。
――臨戦態勢。敵はA級相当のマグネトロキネシスト。類似戦闘検索。モーバ、B+マグネトロキネシスト、クロガネ。対象キョンシーを起点に戦闘シミュレーションを開始。
憎悪と憤怒に塗れながら、リコリスは両手が地面に付く程重心を低くする。
クネクネクネクネクネクネクネクネクネクネクネクネクネクネクネクネ。
忌まわしいと思っていた毒の髪を膨らませる。
疑い様の無い戦闘態勢。
「リコリス、止めろ!」
背後でコウちゃんが制止の声を上げる。
――ごめんね、コウちゃん。ちょっと無理かな。
愛情とは本能である。自分の大切な物を大切なままにしようというどうしようのない情動のことだ。決して綺麗な物では無く、時として過剰な攻撃性にその姿を変える。
「コウちゃんはあげない」
ダッ!
そしてリコリスは躍動する。四肢を使い、髪を使い、海洋生物と四足動物の中間の様な動きで一気に京香へと距離を詰めた。
人間では不可能な動き。重力さえも無視した様なリコリスにしかできない不可解な妙技。
左右上下に体を動かし、リコリスが一瞬にして京香の背後に回り込んだ。
砂鉄で包まれた京香の体。だが、毒で酸化させてしまえば磁場では操れない。
「溶けろ」
そして、憎悪と憤怒を殺意へ変換し、リコリスは紅髪を京香へと伸ばす。
「弾けろ」
「!」
バアアアアアアアアアアアアアアアアン!
だが、瞬間、京香を包んでいた砂鉄が一部に弾け、リコリスの顔を襲った。
見えていたとしか思えないタイミング。ギリギリで蘇生符を守ったリコリスの両腕は今の一撃だけでズタズタに成っていた。
――右腕左腕深部三十層まで裂傷。筋繊維断絶。稼働率四十パーセント減。
グルグルグルグル! 損傷具合を把握しながらリコリスは紅髪を使って更に京香と距離を取る。
人間では認識が追い付かない様に動いたはずだ。いくらマグネトロキネシストとはいえ京香は生者である。反応速度の現界は超えられないはずである。
けれど、事実として京香は今の自分の動きに対応していた。背後からの攻撃を見もせずに完璧に近いカウンターしたのだ。
勝率を計算する。僅かコンマ二パーセント。
ジャリジャリジャリジャリ。。京香がこちらへ向く。その眼と蘇生符は薄ら銀色に輝いていた。
「返して。霊幻はアタシのキョンシーよ」
「絶対にあげない。私がコウちゃんの物なんだよ」
言葉は平行線だった。許せるはずが無い。不知火あかねはコウちゃんにやっと愛しているって言って貰えたのだ。その時の歓喜と幸福はリコリスの胸にある。
そして、リコリスは幸太郎の物に成るために作られたのだ。その存在理由さえもこの女は奪おうとしている。
絶対に許さない。素体の頃から不知火あかねは清金京香を恨んでいたのだから。
クネクネクネクネ。黒鉄を従えた女王へリコリスは再度突撃する。
「なら、あんたを撲滅するわ」
ジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリ!
京香の砂鉄が周囲に広がる。まるで翼の様だ。砂鉄で作られた槍や剣、鉄球の星の周囲には瓦礫達。銃口の様なそれらが全てリコリスへと向けられる。
本気だとリコリスは理解する。この女は今まで本気では無かったのだ。その事実がリコリスの憎悪と憤怒を膨れ上がらせる。
「お前が、お前がお前がお前が、お前が居たから私は!」
記録データから出力される感情を吐き出し、リコリスは突撃する。このまま行っても予測される未来は自身の破壊だけだった。
が、その未来は訪れなかった。
ピピピピピピピピピピピピピピピピピピ!
「!」
その時、リコリスの首輪がアラームを鳴らした。
音の意味は理解している。緊急停止装置が作動したのだ。
「待って! 待って待って待ってよ!」
何を? リコリスは進行方向をコウちゃんへと変える。まだ自分は何も彼へ伝えられていない。伝えるべき言葉はまだたくさんあって、彼とまだまだ一緒に居なければいけない。
――強制停止まで三秒。三、
コウちゃんへリコリスは一秒足らずでたどり着き、その全身で愛しい人を抱き締めた。
でも、後二秒しかなかった。
「コウちゃん、」
――二。
「愛してる大好き!」
――一
「コウちゃ――!」
――零。
瞬間、リコリスの意識は暗転した。