⑤ 傍に居て
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『恭介、リコリスの所、行っても良い?』
『良いですよ』
午後十一時。取らなくても良い様な許可を取り、京香達は昨日に続いてハカモリの研究棟地下を訪れていた。
京香、霊幻、恭介、ホムラ、ココミ、そして、マイケルとメアリーという昨日と全く同じメンバーが昨日と同じ部屋にて、昨日と同じようにリコリスはリペアカプセルの中で薄紅色の液体に浮かんでた。
「……マイケル、リコリスの様子は?」
「昨日と変わり無いぜ」
「霊幻と出会ってからずっと暴走してたって聞いてたけど、それは大丈夫なの?」
「ああ、昨日から暴走はしてねえ。脳波だって今までで一番きれいな形をしてるし、落ち着いたみたいだ」
ポヨンと自身の腹を叩き、マイケルがリコリスの脳波情報だというモニターの波形を指す。京香には良く分からないが、確かにその波形は乱れの無いカーブを描いていた。
波形の意味は京香には分からない。だが、確かにカプセルの中で浮かぶリコリスの顔は穏やかだった。
その穏やかな顔は遠い記憶の中の不知火あかねの物と重なり、同時に昨日見てしまった憎悪に染まった顔が思い出される。
「……霊幻、マイケル、前に言ってたよね。キョンシーの人格や感情は必ず素体に成った生者の物に引きずられるって」
「確かにその様に吾輩達は言ったな。だが、こうも続けたぞ。それでも、素体とキョンシーは完全に別物だと」
「……うん。それは良く分かってるよ」
京香は霊幻を見る。幸太郎と同じ顔をして、幸太郎と似ていて、それでも、幸太郎とは違うそんなキョンシーが霊幻だ。
「でもさ、キョンシーと素体は似ているのよね」
「そりゃ、まあ、影響を受けないはずが無いわな。脳は同じだし、元に成った記録は海馬の記憶から構成してんだから」
マイケルが語る事実に京香は頷く。上手く息を吸えている気がしなかった。
カプセルの中で浮かぶリコリス。あかねで作ったリコリス。自分を殺そうとしたリコリス。
「……あかねさんは、アタシのことをどう思っていたんだろうね?」
自嘲気味に京香は笑ってしまう。
部屋の誰も答えなかった。困る質問をしてしまったと自覚はしていて、誰かに答えを求めたわけではなかった。
リコリスがあれほどの憎悪を向けていて、キョンシーの人格や感情は素体に引きずられるのだ。
質問の答えはとてもとても分かり易かった。
一歩、京香は前に足を進め、カプセルに触った。ほんのりと暖かい。このキョンシーはまどろみの様な夢を見ているのだろうか。
――どうしよう?
リコリスの所に来た。でも、ここに来て京香が何かできることは何も無かった。ハカモリの中でリコリスの存在は公にされた。その管理は水瀬とマイケルとアリシアがやっていて、これからもそうしていくと既に主任間で合意は取れている。
なら、もう京香にできることは無い。やたらと忙しい会議の合間にここに来たのは何処までも我儘だった。
「良し、うん、お邪魔したわね。帰るわ」
カプセルから手を離し、背後を振り向いて京香はそう口に出す。明るく声を出したつもりだったが、色も熱も無い乾いた声に成ってしまった。
しかし、京香の言葉に返事をする者は居なかった。全員が全員、京香の背後へ目を向けている。
「下がれ京香!」
弾けるような霊幻の声に、京香は反射的に従い、一気に霊幻の傍らまで跳び、砂鉄を展開しながらシャルロットからトレーシーを出して背後を振り向いた。
洗練された戦闘態勢への移行。それが向けられたのはカプセルに浮かんでいたリコリスだ。
京香はトレーシーを構えたまま固まり、部屋の中で次に声を出したのはマイケルだった。
「……本当に、お前は大したキョンシーだよ」
カプセルの中、浮かぶリコリスの瞳が開いていた。
リコリスがまどろんでいた。良い夢を見た後の朝の様に、穏やかな覚醒。
京香と霊幻は既に戦闘態勢を取る。昨日の様子を思い出せば、リコリスがすぐに暴走するのは容易に想像できたからだ。
ジャリジャリジャリジャリ。自身を旋回する砂鉄と鉄球、これを放てば無防備なリコリスを今度こそ破壊できるだろう。
「すぐにもう一回眠らせる。一分待ってろ」
マイケルがパソコンのキーボードを触る。慣れた口調を慣れた手つきだ。この様にリコリスが覚醒するのは一度や二度では無いのだろう。
「ホムラとココミを連れて下がります」
「よろしく」
指示を出す前に恭介達が距離を取った。マイケルとメアリーも離れた位置に居る。戦闘の問題はなかった。
「……、……、……、…――!」
数度のまどろみの後、リコリスの眼が何かに気付いた様に大きく見開かれた。
視線はこちら、だが、自分には向けられていない。
「吾輩を見ているな」
「そうね」
その眼は霊幻にだけ向けられていた。他の存在に気付いていないのではないかと思う程、その眼は見開かれ、微動だにしない。
リコリスは動けない。体は拘束され、紅髪の動きも鈍い。
「――、――」
パクパクとその口が動いた。霊幻に向けて何かを言おうとしている。だが、薄紅色の液体で満たされては音は聞こえない。
――コウ、ちゃん。
京香はリコリスが何を言っているのか分かってしまった。その唇の動きは数年前に何度も見ていたからだ。
「マイケル、リコリスの声を聞けるようにできる?」
「……本気か? 今の内に眠らせた方が良いと思うぜ」
「できるのね。やって。もしも暴走したらアタシが破壊するから」
リコリスから目を離さず、京香はマイケルへ命令を出した。
主任としておかしい判断なのだろう。マイケルの言葉には理があり、京香の判断にはそれが無い。
それでも京香はリコリスの言葉が霊幻に届かないことが嫌だった。
ブシュー。音を立てながらカプセルの液体が抜かれ、リコリスの肩に到達したところで水面が止まった。
カハッ。リコリスが肺を満たしていた溶液を吐き出し、数度咳き込んだ後、霊幻へと声を出した。
「コウちゃん!」
カプセル越しの声はくぐもっている。リコリスの眼は希望に満ちていて、首を動かして少しでも霊幻に近づこうとしていた。
「コウちゃん、ああ、コウちゃんだコウちゃんだコウちゃんだ!」
喜色満面。リコリスは幸せそのものと言った顔で霊幻へ声を掛ける。
暴走はしている。だが、戦闘に移る様子は無い。
「……違う。違うぞリコリス。吾輩は霊幻だ。お前の求め人ではない」
首を振って霊幻は否定する。けれど、リコリスには通じなかった。
「ああ、会えた。やっと会えた。コウちゃんに会えたんだ。ねえ、私を使って。私、キョンシー成ったの。リコリスってキョンシーに成ったんだよ」
「吾輩は死者だ。生者ではない」
「嬉しい。嬉しいよ。コウちゃんが私と話してくれてる」
リコリスの顔は何処までも幸せそうで、京香は口の中で舌を噛んだ。
どうするべきか。どうしたいのか。
京香の感情は乱れ、脳が茹っていく。
その中で、京香はリコリスへと足を進めた。
「アンタも来て」
「……吾輩が前だ」
霊幻が一歩前に出て、リコリスのカプセルの前に京香は立つ。
ここまで来てもリコリスの目線が京香へ向けられることは無かった。その赤い目はずっと霊幻にだけ向けられている。
「コウちゃんだ、コウちゃんがこんなに近くに居る。嬉しいね、幸せだね。ねえ、コウちゃん、最近は何をしているの? 私が死んでからのことを色々教えて欲しいな」
「幸太郎では無い。吾輩は違うのだ」
霊幻はリコリスの言葉を否定する。その横顔にいつもの狂笑は無かった。
「京香、いつでもリコリスを眠らせられるぞ。どうする?」
「……ちょっと待って」
背後からマイケルや恭介がこちらを見ているのが分かる。一体自分は何をしているのだろうと京香は眉根を下げた。
『好きなように生きろ』
幸太郎から貰った最期の言葉が心の中でこだまする。
――好きなように、って何?
分からない。今、幸太郎がして欲しかった自分の〝好きなように〟とは一体なんだ?
混乱する頭、錯綜する思い出、リコリスの声、霊幻の姿。
全てが混ざって、京香は「霊幻、こっちを見て」と傍ら声を掛けていた。
「どうした?」
果たして、霊幻はお願いの通り、こちらを見る。
その蘇生符の奥の瞳を京香ははっきりと見た。
――アタシの、
「リコリスの傍に居て」
「!」
霊幻が眼を見開く。眼を見てでの強制命令。勅令には劣るが、キョンシーの行動を著しく制限してしまえる、主だけの命令権。
「京香、どういうつもりだ? なぜ、吾輩をこのキョンシーの傍に置こうとする?」
「……リコリスはアンタを求めてる。この会議中、また暴走されたら困るの。だから――」
「――吾輩を使ってリコリスを安定化させろと言うのか? 京香、吾輩達はキョンシーだ。生者たるお前が何物も犠牲にしてはならん」
「犠牲だなんて、さ。言わないでよ。そんなんじゃないの」
京香は霊幻へ背を向け、部屋の出口に向かう。
「マイケル、リコリスを眠らせて。また、起きたら霊幻に相手をしてもらえば良いから」
「ああ、良いのか?」
「良いよ。リコリスの様子は見れたし」
「そういうことじゃないんだが……分かった。眠らせよう」
マイケルがキーボードのエンターキーを押して程なく、リコリスが眠りに付いた。
「それじゃ、霊幻、しばらく、リコリスをよろしくね」
「待て京香、吾輩の話は終わっていないぞ」
「ごめん。よろしく。頼むわ」
それだけ言って京香は部屋を出て行き、その背後を恭介達が追った。
「本当に良かったんですか?」
「うん、良いの」
研究棟を出た恭介の質問にそれだけ答え、京香は恭介の家に着くまで後は一言も喋らなかった。