② ハリネズミの抱擁
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六階のレストスペースで恭介はソファに座っていた。視線は603号室へ、意識は左耳の無線イヤホンに向けられている。
先程、子供キョンシー達に車椅子を押された葉隠スズメが603号室の中に入った。彼女は遠目から見ても震え、体調を崩している様に見える。それだけのストレスが葉隠邸からの移動だけで発生したのだろう。
「恭介様、お心遣い感謝いたします」
「どういたしまして」
隣に座るヨダカが深く頭を下げ、その奥でホムラとココミが意味も無くクルクル踊っている。
本当なら恭介は603号室を離れたくなかった。妹の体は葉隠スズメの姿でトラウマを思い出すだろう。なら、少しでもストレスを和らげるため、近くに居てやりたかった。
だが、葉隠スズメは恭介が視界に居たら喋る処の騒ぎではなくなる。それでは本末転倒だった。
「でもさ、お前の主はまだ一言も話してないよ? 大丈夫なの?」
トントン。恭介は603号室の音声を拾う左耳のイヤホンを叩く。
部屋に入って既に数分。一度としてスズメは声を発していなかった。
葉隠スズメのトラウマを恭介は知っている。シカバネ町の捜査官ならば誰もが知っている彼女の絶望。
大人への恐怖もあるのだろう。けれど、自らの辛酸と苦渋にまみれた過去を知られてしまっているというのはどれほどの絶望なのだろうか。
『大丈夫、大丈夫よ、スズメさん。木下優花の記憶はあなたへの恨みを否定しているの。だから、大丈夫、大丈夫。喋れるようになるまでフレデリカはいつまででも待つから』
フレデリカの声はとても穏やかで、体が震えているかは分からない。
そして、そこから更に一分ほどして、やっと葉隠が声を出した。
『ひ、ひひ、ひさしぶり、ゆうかちゃん』
『ええ、久しぶり。木下優花はあなたとの再会を待ち望んでいたわ。ね』
対照的な声色だ。葉隠は怯える様に、フレデリカは堂々としている。
どちらにとっても互いの姿はトラウマの象徴である。忌むべき記憶を掘り起こす存在だ。精神の安寧を考えるならば会うべきではない。
けれど、再会を望んだのは彼女達だ。
『手と、足は、もう、痛くない?』
『ええ、全然痛くない。触ってみても良いわ』
『…………ほんとうだ。痛くない、んだね』
『ふふ、少しくすぐったいわ』
少しは葉隠の緊張もほぐれた様だ。きっと、今、葉隠は優花の肩の断面を触っているのだろう。優花の四肢の切断部は傷跡一つ無い。まるで元から無かったかのようだ。
『助けられなくて、ごめんなさい』
『あの時のスズメさんじゃ木下優花を助けるのは無理よ。フレデリカの論理回路は可能性を否定しているわ』
ある意味で残酷に、ある意味で誠実に、とてもキョンシーらしく、フレデリカが答える。
その言葉は正しい物だった。木下優花の凌辱に、葉隠スズメに何一つ責は無い。彼女が感じている罪悪感は本来背負うべき物では無いのだ。
『でも、私にはこうして手足があって、ゆうかちゃんには無くなっちゃって、それは、酷くて、恨まれてもおかしくなくて』
『対象が違うの。木下優花が恨むなら、憎むなら、それはこの体をこんな風にした人達へだわ。スズメさんは何にも悪くないじゃない』
フレデリカの声は穏やかだ。穏やかで何も変わらない。
とても酷いことだ。木下優花の無惨さは極まっている。
せめて、悔しがっていたり、悲しがっていたり、恨み言の一言でも言ってくれれば、と思わずにいられなかった。
「ゆうかちゃん、でも、ゆうかちゃんは今、震えてるよ?」
「ええ、そうね。スズメさんを見て脳特殊開発研究所のことを思い出して体が拒否反応を起こしているの。スズメさんもそうでしょう?」
「っ」
――そこまで言わなくて良いんだ。
フレデリカはキョンシーとしての思考回路を持っている。だから、禁じられていない限り、人間の疑問には答えようとしてしまう。
葉隠は理解しただろう。目の前の少女は決して彼女が知るかつての少女ではなく、その顔をした別の存在なのだ。
「ゆ、ゆうかちゃん。今のあなたは、キョンシー、なの?」
「いいえ、木下優花は確かに人間よ。話しているのがフレデリカなだけ」
「……フレデリカ。それは、あの、フレデリカ?」
「あの、とは? 不知火あかねのフレデリカのことなら、ええ、確かにそう。その蘇生符を使って作られたレプリカブレイン。それが作った仮想人格がこのフレデリカね」
「そっ、か。あの、不知火あかねの、フレデリカ、なんだ」
どうやら、葉隠はかつてのフレデリカを知っているらしい。
――清金先輩が言ってたな。葉隠スズメはアタシのことを全部調べてるって。
第六課でのパーティでの一言を恭介は思い出す。その中でマイケルとヤマダは葉隠スズメにとって清金京香は女神に等しいとも言っていた。
だからだろう。葉隠スズメは彼女の女神の歴史を調べたのだ。別段隠されていた訳ではない。興味があって時間があれば誰でも知れる悲しい過去だ。
「ゆうかちゃん、フレデリカ、今のあなたを、どっちで、呼んだら良いの?」
「どちらでも。お兄様はフレデリカと呼ぶことにしたから、フレデリカは自分をフレデリカと自称しているけれど、この体は、脳は、精神は木下優花の物だわ。外ではフレデリカと呼んで欲しいけれどね。ほら、見て」
キイイイイイイいいン。
僅かにテレキネシスの音が聞こえる。フレデリカが葉隠スズメにPSIを見せたのだろう。そうして良いと恭介が言ったのだ。
木下優花がPSIを手に入れたという事実は世界に隠すべき物だ。もしも知られれば、脳特殊開発研究所での日々が生温く感じる程の地獄が彼女には待っているだろう。
そんな劇物的情報。知らずに済むなら越したことは無い。巻き込むのは不義理だろう。
しかし、葉隠スズメの能力はこれから先木下優花を守るのに有用である。
妹を守るためなら何でもしなければならないのだ。
「え? でも、え? そんな、これじゃ、きょうかと同じ」
「ね? こんな物を木下優花が使えるって成ったら危ないでしょう?」
唖然とした葉隠の声。圧倒的調査能力を持つ彼女も、木下優花に発生した特異については知らなかったらしい。
少ししてPSIの発動音が消え、ポスッとした音が鳴った。優花の体がベッドに落ちたのだろう。
「な、なな、何で? 何でゆうかちゃんがこんな、PSIが使えるの? そんなの、おかしいよ」
「フレデリカに言われてもね。使えるんだからしょうがないの。脳特殊開発研究所の目的が叶っちゃってるね」
恭介達は木下優花への様々な処置は彼女が発現したPSIに起因していると睨んでいる。それほどの特異性が無い限り、ここまで検体を破壊する理由が思いつかないからだ。
「あいつらが、あんなやつらの目的が、果されてるなんて」
「スズメさんの気持ちがフレデリカには分かるの。理不尽だよね。あんなに酷い集団なのに夢を叶えたんだもん」
思わず恭介は天井を仰いだ。そうなのだ。どの様な理由があれ、木下優花が生体のままPSIを発現したと言うのは覆しようの無い事実だ。
それは世の科学者達の夢の具現化だ。悪人と呼んで良い様な集団がそれを叶えてしまった。
理不尽への慟哭が恭介の胸の中で荒れ狂った。
「でもね、スズメさん。そういうこともあるとフレデリカは思うの。確かに、脳特殊開発研究所は罰せられるべき組織だわ。けれど、それとあの研究所が生体のPSI発現の為に費やした努力は別の問題なの」
「そんなの、おかしい。絶対に、あんな物が努力だなんて、そんなはずが、ない。だって、ゆうかちゃんは震えているじゃない」
キョンシーの様な温度の無い言葉は葉隠スズメの心をズタズタに切り裂いているのだろう。
――でも、フレデリカの言葉は正しい。
恭介は否定できなかった。
努力が報われるのは正しい。
ならば、悪人の努力も報われてしかるべきなのだ。
恭介が歯を噛み締めていると、ベッドのスプリングが軋む音がした。
「ごめんね、スズメさん。木下優花に手足が残っていたのなら、フレデリカはあなたを抱き締め返せたんだけど」
「そんなこと言わないでよ、お願いだから。ゆうかちゃんが謝ることじゃないんだよ」
葉隠スズメがすすり泣く。
その音が聞こえた所で恭介は耳元からイヤホンを外した。
葉隠スズメが帰ったのはそれから数分も経たない内だった。