⑯ ブロークンクイーン
***
――死んだ。
霊幻の体が破壊された時、恭介の頭に真っ先に上がったのはその言葉だった。
たった今、自分達を抱えていた霊幻は破壊され、地面へと倒れている。まだ、脳の稼働自体は続けている様だが、残ったパーツは頭と右腕のみ。最早、戦闘も移動も望めない。
凡そ後五百メートル先、長谷川は既にキョンシー達を引き連れこちらへと走ってきている。後、僅か十秒程度の時間を稼げたのなら、恭介達は助かったかもしれない。
だが、耳障りな砂鉄の音が直ぐ後ろに迫っている人間の身では逃げ切れない事が明白だ。
走馬灯は流れなかった。ただ単純に、ああ、もうこれで死ぬのか、とぼんやり思っただけ。
僅かに優花のことだけが気がかりだった。木下恭介が死んだとして、木下優花を生かそうとする人間はこの世に居ない。きっと遠からず優花は死ぬだろう。
「京香ああああああああああああああああああああああ!」
クロガネの狂った声が聞こえた。本当に清金を助けようとしているのだろう。まるで悪漢に攫われた娘を取り戻そうとする母の様だ。
ドチュ! 霊幻がの腕に抱かれたまま、恭介達はアスファルトに落下する。
霊幻の走行速度は凄まじい。この勢いで恭介達の体がアスファルトに擦れたのなら、あっという間にパンに塗ったバターの様に成るだろう。
しかし、霊幻は右腕しかないと言うのに、恭介と清金の体を守った。どの様に体を動かしたかは不明だ。自身の腕と背中をフルに使い、残り少ない体を削りながらアスファルトを滑る。
ただの悪あがきだ。摩擦が終わり、恭介達の体が停止した時、クロガネの砂鉄と鉄球が恭介の命を奪うのだから。
「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!」
グチュガリキャリキャリグチュグチュグチュグチュグチュグチュ!
霊幻が肉片と歯車をまき散らしながら地面を滑る。
そして、右腕さえも千切れ、何処かに飛んで行った。
一瞬と呼んで差し支えない僅かな時間が恭介には緩慢な物に思えた。
反射的に体を起き上がらせた恭介はクロガネを見る。
喪服の黒いヴェールの向こう、そこには鬼子母神を彷彿とさせる形相があるのだろう。
螺旋状に拘束集会していたクロガネの砂鉄が槍の形を取る。本数は二本。恭介と霊幻を殺すための物だ。
抵抗はできなかった。落下の衝撃は殺しきれる物では無く、体勢も悪い。
迫った死の直前。恭介は眼を瞑らなかった。瞑ろうとする意志さえ消えたのだ。
故に恭介は目撃する。
「返せえええええええええええええええええええええええええええええええ!」
ビュン! 二本の槍が射出され、真っ直ぐに恭介の心臓と、霊幻の頭部を狙う。
美しいとさえ言える直線軌道。きっと痛くて苦しくて死ぬのだろう。
――優花。
思うのは妹の事。彼女の幸福な未来はやはりもう二度と訪れなかった。
諦めなのか、冷静に事実を見ただけなのか。
果たして、恭介の心臓を鉄槍が貫くことは無かった。
恭介達の前方五十センチ。そこまで迫った鉄槍が、一瞬にして爆ぜ、砂鉄へとその形を崩したのだ。
「は?」
死を覚悟したわけでは無い。だが、半ば受け入れていた死が突如として消失した。
何が起きたのか、恭介には分からなかった。
だが、誰が今の現象を起こしたのかはすぐに分かった。
恭介の右側で何かが動いた。そこには清金が居たはずだ。
誘われた様に恭介の首が右を向く。
清金は立ち上がっていた。
「清金、先輩?」
大怪我を清金はしている。立ち上がれる状態では無かった。
恭介は気付いた。立ち上がったのではない。フワリと浮き上がっていたのだ。
「京香! 大丈夫!? すぐに助けるわ!」
クロガネが立ち上がった(ように見える)娘へ飛んで行く。砂鉄と鉄球を従え、両手を目一杯に広げながら。
フワフワともう首しか残っていない霊幻が浮き、その首を清金は抱き締めた。
直後、恭介は気付いた。
清金京香の虚ろな瞳が白銀に光っている。
白銀の瞳が迫り来るクロガネを見た。
「こわさないで」
「!?」
前方、五メートル。クロガネが急ブレーキをかける。いや、急ブレーキをかけさせられた。
ジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリ!
クロガネを覆っていた砂鉄と鉄球がまるで掃除機でも使ったかの様に京香の周囲へと飲み込まれる!
ここまで見て恭介の理解が追い付いた。
「マグネトロキネシス!?」
方法は分からない。今、清金は蘇生符無しでPSIを発動しているのだ!
ジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリ ジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリジャリ!
クロガネを覆っていた砂鉄と鉄球の大半を吸収し、恭介を巻き込んで清金の周囲には直径五メートルほどの砂鉄の嵐が展開されていた。
砂鉄が清金の体を覆い、黒いコートを形成する。
「こわさないで、ねえ、こわさないで」
虚ろな瞳を白銀に光らせ、清金の唇が動く。
無作為にだが強烈に動く砂鉄と鉄球はアスファルトを砕き、砕いたアスファルト片すらもその嵐に取り込んでいった。
「京香! オカアサンの話を聞いて! 私はあなたを助けに来たのよ!」
クロガネが叫んでいる。だが、清金に聞く様子は欠片も無かった。
「こわさないで、おねがい、こわさないで」
清金の腕が霊幻の首を抱く。霊幻の表情は驚愕と狂笑の間を取っていた。首だけのキョンシーは唇を動かし、何かを言おうとしている。だが、肺を失ったキョンシーでは声帯を震わせることはできない。
『切り裂いて!』
頭上からセリアのフランス語が聞こえた。アネモイに攻撃を命じたのだ。
ヒュンヒュンヒュンヒュンヒュンヒュンヒュンヒュンヒュンヒュンヒュンヒュン!
不可視の刃が恭介達へと迫る。
しかし、それら全ては瓦礫と砂鉄の大嵐が掻き消した。
「ガリレオ! 全速全開撃ち出して!」
充、いや、カケルがガリレオというキョンシーに命令し、その周囲に旋回していた大型の瓦礫を清金へと撃ち出した。
それも意味をなさない。鉄と暴風はガリレオの瓦礫をケーキの様に破壊して、その支配下へと置いていく。
恭介は清金のマグネトロキネシスのスペックをデータの上では知っている。フランスでの戦闘でも見た。それとは一線を画すほどの大出力だ。
――いける!
生き残れる確率が生まれた。仕組みは分からないが、清金のPSIは今敵の攻撃を完全に防いでいた。
「燃えろ!」
ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!
ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!
ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!
更に事態は好転する。
ホムラの火柱が三つ生え、敵の体を燃やした。
炎はアネモイによってすぐに消される。しかし、時間稼ぎにはもう十分なほどの時間が過ぎた。
ザザザザザザザザザザザ! ザザザザザザザザザザザ! ザザザザザザザザザザザ! ザザザザザザザザザザザ! ザザザザザザザザ
ザザザ!
ザッパアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアン!
「きたよー」
五十体を超えるキョンシーを連れた長谷川とイルカが到着したのだ。
「一号から十号、陣形Aで突撃!」
長谷川の指示の元、十体のキョンシーが横並びに突撃する。
――やった!
これで恭介達の勝ちだ。最早この状況から清金が攫われる事も、恭介達が殺される事も無い。
安堵の息を恭介は吐こうとし、清金と彼女に抱えられた霊幻を見て気付いた。
蘇生符の奥の瞳で霊幻が何かを主張し、唇が一定のペースで動いていた。
唇の動きを母音だけで表すなら、〝お〟、〝え〟、〝お〟。
「? どうしたんだ霊幻?」
ジャリジャリブチュチュンパジャリブチュブチュジャリジャリィブチュグチュジャリジャリジャリジャリグチュジャリジャリブチュブチュジャリグチュグチュグチュグチュジャリ!
水っぽい何かが砂で磨り潰される音が響いた。
「!? 何やってる清金さん!?」
長谷川の愕然とした声が聞こえる。
恭介達を包み込んでいた砂鉄と瓦礫の暴風に一瞬にして無数の肉片が混ざった。
自分達を包み込む暴風の中に、ギリギリで原型を留めたキョンシーの首が飛んでいた。
「……?」
恭介は一瞬何が起きたのか分からなかった。だが、続いて視界に入って来る無数のキョンシーの残骸に何が起きたのかを理解する。
「清金先輩!? 何で長谷川主任のキョンシーを壊したんですか!?」
恭介は慌てて立ち上がり、清金の肩を掴んだ。
「こわさないで、こわさないで、こわさないで」
――!?
清金は正気を失っていた。白銀に輝く瞳は恭介の事を映してなどいない。
砂鉄と鉄球と瓦礫と肉片。道路のアスファルトを破壊し、その嵐の大きさは徐々に徐々に大きく激しく成っていく。
「木下さん! 清金さんに何が起きている!?」
「分かりません! こっちの言うことを聞いてくれないんです!」
「霊幻はどこに行った!?」
「破壊されて首だけに成ってます!」
清金は暴走している。
それを長谷川へ恭介は現状を伝える。だが、事態を把握できる物では無かった。
そう言いながら、恭介の瞳が霊幻と合う。そして、霊幻の〝お〟、〝え〟、〝お〟という唇の動きが何を意味しているのか唐突に分かった。
「と、め、ろ?」
蘇生符の奥で霊幻の瞳が見開かれる。どうやらこれが正解の様だった。
「京香! ああ、京香! あなたは今とても傷ついているのね! ああ、可哀想! 何でそんなに傷ついてしまったの!? 何で何で何で何で何で何で!? 何で私の娘が傷つけられているの! こんなのおかしい! 絶対に許せない! ああ、私があなたを守ってあげるわ!」
赤黒い嵐の向こう、クロガネが清金へと走り出そうと足に力を込めていた。
清金の砂鉄に飲まれればクロガネの体は、一瞬でこの暴風に加わるだろう。
「セリア、アネモイでクロガネを止めて」
『アネモイ、クロガネを止めて!』
カケルの声がして、セリアがフランス語でアネモイへ命じる。
ヒュオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!
その瞬間、駆け出したクロガネがアネモイの風に絡め捕られ、宙へと浮いた。
「離せええええええええええええええええええええええええええええええええ! 私は娘を助けるのおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
ジタバタとクロガネが四肢を動かすが、風の拘束から逃れる事は出来なかった。
「あー、自滅したぁ。ちょぉっと欲張り過ぎちゃったなぁ」
アハハ。とカケルが穴の空いた頭を撫でた。
「しょうがない。セリア、私とガリレオも連れて行って、逃げるよぉ」
ヒュオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!
カケルとガリレオと呼ばれたキョンシー体がアネモイの風に浮く。
「離してえええええええええええええええええええええ! 京香、京香、京香あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
クロガネはもがき続けて、眼下の清金へ手を伸ばす。
「はいはい、クロガネ、それ以上動くと壊れちゃうよぉ」
そんなクロガネの蘇生符をカケルが押した。
直後、クロガネはカクンと機能を停止させ、ダランと四肢を垂らした。
砂鉄と鉄球と瓦礫と肉片。それらの向こうのカケル達を恭介は睨み上げた。
「お前達は一体何なんだ!? 何が目的なんだ!?」
「んー。オッケー、今度教えるよー。またねー」
ヒラヒラ。カケルが手を振って、アネモイの風に乗って飛んで行く。
「待て!」
十メートル、三十メートル、百メートル。あっと言う間にカケル達の姿が小さく成った。
――取り逃がした!
「何なんだよもう!」
恭介は訳が分からなかった。




