⑤ 脅迫
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ヨダカが霊幻へ白刃を晒した一時間半前。
カタカタカタカタ! カタカタカタカタ! カタカタカタカタ! カタカタカタカタ! カタカタカタカタ! カタカタカタカタ! カタカタカタカタ! カタカタカタカタ!
鬼気迫る表情のスズメを囲む様に同期した八体のキョンシーがタイピング音を奏でていた。
「きょうか、きょうか、きょうか、きょうかきょうかきょうかきょうかきょうかきょうか」
スズメの唇はほとんど無意識に同じ音を繰り返していた。
――やっぱり行かせるべきじゃなかったんだ。何が何でもここに居てもらうべきだったんだ。きょうかはとっても強いけど、そんなに強くない人だって私は分かっていた筈なのに。何で。なんで何でなんでなんで何で何でなんで? なんで行かせてしまった? 愛しいフィアンセだろう?
半球型ヘルメット、オクトパスから伸びた八本の端子は子供姿のメイドの旋毛にある受け口に刺さっている。
オクトパスを用いた複数体キョンシーの同時多角的操作。葉隠スズメの筆頭技能。
スズメの脳内では八体のキョンシーの視覚情報が共有され、脳内言語で超高速にそれらキョンシーへ指示を出していた。
真っ黒な着物から見える肌にはじんわりとした汗が浮かび、脳が捩じられる様な感覚がスズメを襲っていた。
――どこ、どこ何処どこどこ何処? どこに居るのきょうか! きょうかは何処に隠されてるの!?
ツバメから清金京香が誘拐されたという報告が届いた時、体を支えていた両腕の力が抜け、スズメは畳へと頭から落ちた。
強烈な精神的負荷への防衛反応として、脳への血流が阻害される。視界が暗くなり、ただでさえ力が入らない体から生気が失われた。
スズメが倒れたのは精々数十秒の時間だった。すぐさま、スズメは起き上がり、オクトパスを持って来るよう、屋敷のキョンシーを大声で呼び寄せた。
――はやくはやく見付けないと、きょうかがどうなっちゃうか分からないんだから。私みたいな目にきょうかが遭うのはだめ。わたしみたいにきょうかがなっちゃうのはだめ。それだけはだめだめだめだめだめ。
ほとんどスズメの中で言葉は体を為していなかった。
はぁ、はぁ、はぁ。自分が壊されたあの日々が記憶と成って蘇る。泣き叫び、最後には何の反応もしなくなったかつての自分の姿が清金京香へと置き換わっていく。
「やだやだやだぁ」
京香は自分の様に成ってはいけないのだ。あの、かっこよくて美して綺麗なあの人が自分の様に壊れて汚れてしまうのは耐えられなかった。
カタカタカタカタ! カタカタカタカタ! カタカタカタカタ! カタカタカタカタ! カタカタカタカタ! カタカタカタカタ! カタカタカタカタ! カタカタカタカタ!
高速のタイピング。シカバネ町のあらゆる電子セキュリティをツバメは突破し、膨大な監視カメラの情報を漁った。
京香が敗北したのはシカバネ町北区関所近く。そこから凡そ三百メートル離れたビルの屋上に居たツバメは京香の敗北を見た瞬間、葉隠邸へと撤退した。ツバメの戦闘能力では清金京香を倒せるようなキョンシー相手に勝ち目は無く、いざ本気で追われたら逃げ切れないからだ。
超高速で脳内を流れる監視カメラの情報の中に京香の姿は無い。どうやら、敵は何らかの手段でシカバネ町の監視カメラを無効化している様だ。
先程からスズメはそんなほとんど見た目の変わらない監視カメラ映像の中の微かな違和感を探し続けていた。
シカバネ町の監視カメラの性能は世界でも有数だ。一つや二つはともかく、全ての痕跡も残さず無効化できる筈が無い。
脳内に流れて来る映像の中に法則性を持ったノイズがある。それに気付いたのは三十分前だった。ある瞬間瞬間にだけ現れる不自然な映像の途切れ。それは京香が倒れた北区から発生している。
スズメはこのノイズこそが京香を追う手掛かりだと確信した。
だが、敵の策は巧妙だった。特徴的なノイズを持った監視カメラは広範囲に渡って存在し、どれが必要なノイズデータなのか判断するのは至難の業だ。
「きょうかきょうかきょうかきょうかきょうかきょうか」
愛しい相手の名前を呟き続ける事で、スズメは倒れそうになる体を叱咤する。壊された体はもう動けないと悲鳴を上げている。
そんな物は些事だった。
カタカタカタカタ! カタカタカタカタ! カタカタカタカタ! カタカタカタカタ! カタカタカタカタ! カタカタカタカタ! カタカタカタカタ! カタカタカタカタ!
打鍵の音は激しく響く。ローラー作戦だ。どのノイズデータがクリティカルな物か分からない。ならば、総当たりで探すのが最も早い。
脳が強烈な熱を持って行く、手足が溶けていく感覚。意識の全てがオクトパスの端子が付いた触手に集中していった。
スズメの集中力は過去一番だった。今ここで命が尽きても構わない程の身を削る集中。技術を持った人間の力技は正しく意味を持ち、成果を持って来る。
「きょう、か」
――見つけた見つけた見つけた。ここだ、ここしかない。ここ以外ありえない。
スズメは西区のとある一軒家に京香が監禁されていると確信する。
京香の姿を捉えた映像を視認できた訳では無い。だが、他の全てのノイズデータの中に清金京香が居る可能性は皆無だった。単純な消去法は正しく行ったのなら強烈な解として顕現する。
――ヨダカへ連絡しないと。
唯一スズメが保有する成人体のキョンシー。それは今、南区の工場地帯にて霊幻達と合流している。すぐにこのキョンシーへ連絡し、京香を救出させなければならない。
畳に置いたスマートフォンを持ち上げ、握力が足りず落とす。そんな動作を二三回繰り返し、何度も言う事を聞かないポンコツな手を叩いて、スズメはどうにか彼女にとっては重いスマートフォンを手に取った。
さあ、今すぐにヨダカへと命令するのだ。愛しい京香を救い出せと。
「ああ、だめだめだめ。ちょっと連絡するのは待って欲しいなぁ」
カラカラカラカラ。
空っぽの箱を転がした様な、女の笑い声が葉隠邸に響いた。
突如として背後より鳴り響いた〝大人〟の女の笑い声にスズメの息が止まった。いや、心臓さえも一瞬止まったかもしれない。
あり得ない事だ。葉隠邸周囲にはシカバネ町がどんな状況に置かれようとも葉隠スズメの護衛がキョンシー犯罪対策局第一課から常時配置されている。見ず知らずの人間が許可なく葉隠邸に入って来れる筈が無かった。
「――は――ぇえ――は―――はッ」
小刻みに肺が収縮し、スズメは過呼吸を起こす。
自分ではどうしようもないトラウマ。体中の関節が鈍くなり、頭を押さえて蹲ろうとしてしまう。
だが、スズメは過呼吸を起こしながらも、ゆっくりと背後へ振り向いた。
「はあ……はぁ――おまえ、は」
そこにはスズメの見た事のある女が立っていた。
見た事のある黒いスーツを着たその女の傍らには血に塗れたキョンシーが居た。
「スズメ。こうして顔を突き合わせて会うのも、そもそも話すという行為をするのも初めてだね。こうして見ると君は聞いた通り本当にお人形さんみたいだ。ああ、ごめんごめん。久しぶりに人と話すから興奮しているんだぁ」
酸素が足りなくなり、視界の外側がゆっくりと暗転していく。その中でスズメは気付いた。
女の前頭部、そこには〝穴〟が空いていた。数は五つ。耳から耳へアーチを描く様に等間隔に。
「本題を話すよ。ねえ、スズメ、君には霊幻達を裏切って欲しいんだ。大丈夫、裏切る理由はあげるから。私の要求を聞いてくれるなら、京香の身の安全は保障してあげる」
「――! ――!」
ついにスズメは息が出なくなる。か弱い手で喉を持ち、暗転しそうな視界の中で女を見た。
「ねえ、君はこの脅迫を断れないよね? だって京香の事が大好きなんだから。分かるよ、京香はとっても良い人だもんねぇ」
女は懐から白い封筒を取り出し、スズメへと投げた。
「中をちゃんと読んでね。で、従ってね。そうじゃないと京香がどうなっちゃうのか分からないから。じゃあね、また会えたら会おうねぇ」
女はキョンシーを連れて歩き出し、スズメの視界から消えていく。
――待て。
そうスズメは言おうとした。だが、声は出ない。そして、眼前の女を捉える力もここに無い。
ヨダカがもしもこの場に居れば何かが変わっただろう。だが、葉隠スズメの懐刀は今、京香の為に外に出している。
大人の女がスズメの視界から消え去り、近くから居なくなったと子供メイドのキョンシーに確認させるまでスズメは動く事も出来なかった。
三分程度の時間が経ち、スズメは這う様に動き、女が投げた封筒を取った。
そして、中身を開けると、そこには便箋と写真が入っていた。
「きょうか」
写真は愛しい京香の物だ。ソファで何者かに、いや、これはクロガネだった、クロガネに膝枕され眠っている姿が写っている。両手両足を結ばれているが、その体には手当をされた形跡があった。
死んでいなかったという僅かな安堵の元、スズメは便箋を読んだ。
「………………っ」
そこには脅迫内容が書かれていた。
単純な要求が二つ。
一つは、桃島の隠れ場所を後で来る使いの者に教える事。
もう一つは、第六課の最強キョンシー霊幻をできる限り桃島から引き離す事。
「…………きょうか」
便箋がくしゃりと握られた。




