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第二章 夏日逍遙(三)

 そのまま真っ直ぐに自分の局に戻ろうとした神野だったが、またもや異母兄と出くわすことになった。

 先ほど話題になった安世である。背後にひとり、落ち着いた雰囲気の青年―――二十七、八歳ぐらいだろうか―――を連れている。

 異母兄といっても、ほとんど話したこともない相手だ。

 桓武には妻子の数が多い。娶った妻の数は三十人近くに達し、もうけた子供も四十人近いという状態だから、中には互いに顔も知らない兄弟関係も少なくない。伊予や大伴とは乙牟漏の死後のごたごたで交流もあったが、安世はそうではない。普段なら会釈して行き過ぎるだけの間柄だ。

 だが、今日は違った。神野を見とめると、安世はにこりと笑みを浮かべ、とことこと近寄ってきたのである。

「やあ、えーと―――神野」

 明るい声だった。大伴同様、神野よりも少し背が高い。人懐っこい眸をして、覗き込むようにして人を見る。手には紙の束を抱えていた。

「昨日はどうも」

「こちらこそ」

 神野は微笑して見せた。相手は、ひたすらにこにことしている。

「一緒に楽をやれて、楽しかったよ。あんなに楽しかったのは初めてだな」

 楽しい、と繰り返すその想いが、表情にそのまま出ている。素直な性分なのだろう。つられて神野の表情も少し和む。

「そんな風に言ってもらえると嬉しいよ。わたしも楽しかった」

「御書所へ行ってきたのかい?」

「うん。君も?」

「はは。ぼくは君みたいに本の虫じゃないよ」

 安世は言って、紙を一枚、ひょい、と差し出した。

 筝の譜だ。

「雅楽寮へ行ってきたのか」

「笛師に友だちがいるんだよ」

「ふうん……」

 その言葉に、神野は少し戸惑いを覚えた。

 仮にも帝の血を引く親王が、笛師を「友だち」とは―――

 それに、安世の境遇は少々複雑だと聞いている。

 彼の母である百済永継(くだらのながつぐ)は、もともと中納言藤原内麿の妻だった。彼との間に二男をもうけてから、朝廷に女官として出仕し、桓武の目にとまったのである。それも、恐らくは桓武とのつながりを強めるための、内麿の計算だったのだろう。

 そして生まれたのが、安世だ。

 だがこの少年の曇りのない明るさからは、そんな背景は微塵も見えてこない。悟っているのかそれとも単に感じていないのか、神野は判じかねた。

 礼を言って、神野は譜を返した。安世がそれを束ねると、背後の青年が声をかける。

「よかったら、お持ちいたします」

 安世は微笑した。

「頼もうかな。何だかバラバラにしそうだ。冬嗣が持ってた方が安心だよね」

冬嗣(ふゆつぐ)どの?」

 神野は聞きとがめた。

「内麿どのの御次男の?」

 だとすると、安世の異父兄にあたる。

「はい。藤原冬嗣と申します」

 紙の束を受け取ってから、ものやわらかに青年は言って、丁寧に頭を下げる。よく透る張りのある声だ。

「兄君の真夏どのにはお会いしたことがあるけれど―――」

 確か、安殿に仕えていたはずだ。宴で内麿の傍にいるのも見かけたことがある。はっきりした物言いの、少しきつい印象を受ける男だ。確か年は二十四、五のはず―――

 だとすると、この青年は見かけよりも若いのかもしれない。

 冬嗣は笑った。

「あまり似ておりませんでしょう?」

「そうだな、見た感じは、あまり」

「よく言われます。兄は父親似、わたしはどちらかというと母親似らしいですので」

「だから真夏よりはむしろぼくと似てるんじゃないかな」

 安世が口を挟む。

「ぼくも主上よりはどちらかというと母上に似てるって言われるから」

「そうだな、真夏どのよりは、安世の方が近いかな」

 神野ほどではないが、冬嗣も安世も色が白く、やわらかな雰囲気である。安世の母君は、そのような方なのだろうか。

「あ、そうだ。神野」

「何?」

「よかったらこの譜、一緒に見ないか? 是非君とまた一緒に楽をやりたいんだけど」

 唐突な申し出に、神野はためらった。

「ごめん、今日はあと半刻ほどで博士が講義に来るから―――」

「そうか、大変だね」

 にこりと笑う。

「別に今日でなくたって構わないよ。都合のいいときに知らせてくれたら」

「じゃ、また今度、使いを遣るよ」

「うん。楽しみに待ってる。それじゃあ、途中まで一緒に帰ろう」


          *


       清晨 古寺に入れば

       初日 高林を照らす

       曲径 幽処に通じ

       禅坊 花木深し


 夜、神野は部屋で文机の上に借りてきたばかりの文巻を広げていた。


       山光は鳥性悦ばしめ

       潭影は人心を空しうす

       万籟 此に倶に寂まり

       惟だ鐘磬の音を聞くのみ


    山のにじみ出るような光が小鳥を喜ばせ、

    山の端を彩る光が、わたしの心を空っぽにしてくれる。

    すべてがここでは静寂に満ち、

    鐘の音だけが遠く聞こえてくる



 万籟、此に倶に寂まり、惟だ鐘磬の音を聞くのみ―――


 神野は呟いて、文机の上に腕枕で頭を乗せた。つい二日前までは、こうすると頬に垂れ髪がかかって煩わしかったが、今は結い上げられているので落ちてはこない。

 静かな夜だった。


    ここではすべてが静寂に満ち、

    鐘の音だけが遠く聞こえてくる―――


 そのような光景が、あるのだろうか。

 海を隔てた、唐の地には―――?

 いっそ親王などに生まれなければ、皇后の息子などでなければ、遣唐使としてでも彼の地に渡ることも不可能ではなかったかもしれない。

 ふとそんなことを考える自分に気づいて苦笑する。

 神野の内には、どこか遠く―――ここではない、どことも知れぬ場所への強い憧れがある。その憧憬が、神野の楽の音や詩に、不思議な冴えを与えていることに、もちろん神野本人は気づいていない。

 そもそも、一体何処へゆくことができるというのか―――

 寒い笑いを、神野は微かに洩らした。

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