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第二章 夏日逍遙(一)

〇前章までの流れ


 延暦八年(七九〇年)、六年前に都と定められた長岡京で、四歳の神野親王は、十二歳年長の兄で皇太子の安殿親王、二歳年少の妹高志内親王と共に、父桓武帝と皇后乙牟漏の慈しみの許で日々を送っている。父も兄も自分を愛してくれていると信じつつも、父が過去に弟を殺害したことを知る神野は、心の奥では恐怖に怯えていた。

 そんな中、母乙牟漏が急死する。更には桓武の妻坂上又子が死に、そしてついに安殿が病の床につく。相次ぐ不吉な出来事に、桓武帝は次第に自分が死に至らしめた弟が祟りを為しているのではと疑い始める。

 延暦十三年(七九四年)。

 桓武は造営して十年しか経たない長岡京を、結局捨てた。

 長岡京に移ってからというもの、種継の死に始まり、桓武の身辺には相次いで不幸が起こった。また天然痘の流行や集中豪雨といった自然災害も頻発している。

「ここにおっては駄目だ」

 強くそう思った。

「この地は、呪われている。清浄な地に移ってやり直す以外に、活路はない」

 そこに、活路がある―――

 桓武はそう信じた。信じようとしたのである。「そこに活路がある」と。長岡京造営のために注がれた労力と資金。民はきっと不満の声を上げるであろう。だが、呪われているのはこの地なのだ。事態を打開するためには、清浄の地を求めることが必要不可欠なのだ。―――そしてそれが出来るのは、天皇であるわししかおらぬ。

 桓武は政治に明け暮れ、あまり趣味らしい趣味というものを持っていないが、ただ遊猟だけは閑を見つけて楽しんでいた。それを口実として、延暦十一年(七九二年)中にかれは自ら候補地を視察して回り、翌年一月には遷都の(みことのり)を発した。ただちに工事が開始され、それとほぼ同時に、これまで住まいとしていた皇居から別院に移り、皇居の解体に取りかかるというすばやい行動だった。かれがよくやる、不満の声が上がる前に既成事実化してしまうという手法である。

 そして、遷都が決行された。遷都先は、葛野郡宇多村。

 新京の名は、祈りを込めてこう名づけられた。

「平安京」―――と。


          ☆


 それから五年―――

「おう、化けた化けた、いい男だなあ」

 歓声を上げたのは、二十五歳になった安殿である。萌黄色の袍を着て、神野を前にごろりと寝そべっている。

 神野は延暦十八年(七九九年)仲夏五月、元服した。十三歳である。

 元服の式が終わった翌日、昼過ぎに安殿は神野の部屋に押しかけてきた。元服によって与えられた部屋には、さわやかな空気が流れ込んできている。

 元服とは子供のときの垂れ髪を切り、(もとどり)を結って帽子をかぶる、成人の儀式のことである。

「よく似合うじゃないか。おれが元服したときにはどうも板につかないって父上にも母上にも笑われたもんだったがなあ。お前は素材がいいから、どんな格好もよく似合うよ」

 反応に困って、神野はただ微笑する。笑うと切れ長の眼がわずかに細くなる。ほっそりと華奢で、繊細な感じのする少年に、彼は育っていた。

「わたしには、垂れ髪の東宮など想像もつきませんよ」

「そりゃあそうだろう。おれが元服したとき、お前はまだ生まれて二年も経っていなかったんだ。いくらお前が頭がよくても、覚えてたら化け物だ」

 安殿は出された白湯をごくりと飲む。それからにやりと笑って神野を見た。あまり上品とはいえない笑みだ。―――もっとも、安殿はもともと「上品」という形容が似合う男ではないが。

「で、どうだった? 昨夜」

「はい?」

 神野は首を傾げる。

「どうだった、高津は」

 神野は元服と同時に。高津内親王を娶った。高津は神野よりも四つ年長の十七歳。神野にとっては異母姉にあたる。

 神野は困ったような表情を浮かべたが、とりあえず、

「まあ、それなりに」

と答えた。安殿はにやにやと笑って、さらに問いを重ねる。

「それなりに、首尾よくいったのか」

「……」

 神野は苦笑する。それを見て、安殿は愉快そうに声を上げて笑った。答えを知りたいわけではない。困らせようと思って言っているのである。どこか年よりも大人びたこの弟の内面に、困らせることで安殿は触れようとした。答えにくい問をわざとぶつけ、神野が返答に詰まると、安殿は何となく安心するのである。

「それにしても、お前、上手くなったなあ、和琴(わごん)

 儀式の後に行われた宴を思い出したらしく、頬杖をついたまま安殿は感心したように呟いた。これは純粋に褒めたのであって、何も神野を困らせようという意図はまったくないのだが、面と向かって褒められた神野はやはり苦笑する。

「お耳汚しですよ。主上も東宮も、お人が悪い」

「悪いって、何が」

「初めから弾かせるおつもりでいらしたなら、一言おっしゃっておいて頂ければ、少しは練習も出来ましたのに」

「何を言う。ああいうのは何の備えもなくその場で、ってのがいいんじゃないか。それに、お前ほどの腕は、宮中にもいないさ」

 ごろりと仰向けになり、安殿はうん、と伸びをした。

「和琴でも、琵琶でも、筝でも龍笛でも、何でも来いだそうじゃないか。なのに弾き惜しみして、なかなかおれにも聴かせやしない」

 神野は少し眉を上げ、澄まして言う。

「わたしも、東宮がお弾きになるのを聴かせて頂いたことはほとんどありませんからね」

「おれ? おれは駄目だよ。人に聴かせるようなものじゃない」

 安殿は好奇心が強く、楽にせよなんにせよ、とにかく一応手を出してみる、というところがある。それに、もともと決して感性的に鈍いというわけではない。ただ練習嫌いで大抵自己流で押し通すため、モノにならないだけである。

「お前にせよ、安世にせよ、真面目に練習してるからなのかな。よくあんな音が出せるものだ」

「安世―――」

 神野は、ぽつりとその名を呟いた。

 安世は神野よりも一歳年長の異母兄である。ただし、今までほとんど交流というほどの交流はない。

「……素晴らしかったですね」

 吐息混じりに言う。

「まあな。お前の方は、龍笛(りゅうてき)はどうなんだ? 演るんだろう?」

「あの音に比べれば、子供のお遊びですよ」

「あいつは舞も騎射(うまゆみ)もなかなかこなすらしいな。―――そうだ、お前教えてもらえ。文巻を読むのもいいが、そんな細くて白くて―――もっと鍛えなきゃ、女も口説けんぞ」

「……」

 話が元の地点に戻ったところで、部屋の外から声をかけた者がいた。

「東宮さま」

 安殿は声のする方を見た。東宮大夫(東宮御所の長官)藤原葛野麿(かどのまろ)だ。

「どうした」

「急ぎお戻りください。ただいま、東宮御所に使者が参りました。御次男ご誕生にございます」

 安殿は飛び上がった。

「男か! でかしたっ! ―――よーし、こうしちゃおれん」

 いそいそと立ち上がる。母は伊勢継子(つぐこ)。葛井藤子の生んだ阿保親王に続いて、二人目の男子になる。

「おめでとうございます、東宮」

 深く頭を下げる神野を振り返り、

「お前も、一年もすれば父親だぞ。まあ、せいぜい高津を可愛がってやれ。じゃあなっ」

と言い置いて、安殿はばたばたと出て行った。


          ☆


 安殿が去った後、神野はほう、と息を吐き出した。目の前の文机には文巻が一巻置かれている。安殿が突然やってきたので、読むのを中断して巻き戻したのだ。

 続きを読むには、どこか気が失せてしまっている。博士が講義に来るまでには、まだ一刻(二時間)もあった。

 御書所(ごしょどころ)(図書室)まで、何か借りにいこうか―――

 そう思った神野は、従者をひとり連れて部屋を出た。

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