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第一章 春霙哀歌(六)

「主上」

 自室にこもっていた桓武を、侍従の乙叡―――前に権少納言で出てきた男である―――が呼んだ。

「後にしてくれ。今は、何も聞きとうない」

 彼は頭を抱え込んでいた。

 早良。

 真実、そなたなのか?

「はあ……それが」

「聞きとうないと言うのに」

「東宮さまと神野さまが、おいでです」

「何?」

 桓武はかぶりを振った。

「ならばよい、通せ」

「は」

 ほどなく入ってきた安殿を見て、桓武は思わず吹き出した。

「お前、何て格好だ」

 安殿は、神野を抱いたままだった。猿が子供を抱いているようである。泣き疲れて、神野は眠っている。

「失礼ですが」

 一応断ってから、安殿はあぐらをかいた。神野を抱いたままでは、それ以外の座り方は少々辛い。

「はがれないんです、こいつ」

 気鬱も忘れて、思わず桓武は大笑いする。

「父上、起きるじゃないですかっ」

「いや、すまん」

 手を振り、桓武は目頭を押さえた。それからようやく、少しきっちりと座りなおす。

「しかしいくらなんでもいかんな、その格好は。仮にもお前は東宮だぞ。それに、又子の部屋での騒ぎは聞いておる。場所柄をわきまえてもらわねば困る」

「そんなことより、父上。お願いがあるのですが」

 そんなこと、にされてしまった。

「何だ」

「こいつ、おれの手許に置けませんか」

 桓武は顎を反らせる。きっぱりと言った。

「無理だな」

「何故です」

「お前は元服を済ませた東宮、神野は元服前の子供だ。立場が違う」

「そんなもの」

 激昂しかけた安殿を、桓武は手でとどめる。

「それにな、まず何よりも、神野は子供だ。まだ母親がいる。まさかお前が代わりをするわけにもゆくまい」

「……」

「神野はしっかりした子だ。心配するな」

 安殿は口をつぐんだ。

 しっかりした子―――確かに、この年とは思えない落ち着いた弟だ。

 だが……

 神野が先刻見せた激情が、安殿には少し引っかかっていた。すがりついて泣きながら、それでも悲しいとも辛いとも一言も言わぬ不思議な拒絶。その正体は、安殿には全く理解できなかった。

 守ってやらねばと思う。しかし、その一方で、自分と異質なものを見るような違和感を、安殿は感じずにはいられなかった。

 そんな息子の気持ちを知ってか知らずか、桓武は満足げに微笑する。

「それにしても、仲のよいことだ。―――おや。目が覚めているのか」

「え?」

 安殿は腕の中を見た。神野は身を竦ませる。

「なんだ、いつから聞いてた」

「おいで、神野」

 桓武が言ったので、安殿はひょいと神野を降ろす。神野は一瞬安殿を見、それから桓武の下に走った。今度は桓武が神野を抱き上げる。

「よしよし」

 桓武は言った。

「兄上は好きか」

「はい」

 澄んだ声で、神野は応える。

「兄上はお前を心配して、手元に置きたいとまで言うておる。そんな兄は、めったにあるものではないぞ」

「はい」

「神野。お前には可哀想だが、高志と共に、また部屋を移らねばならないよ」

 神野は桓武を見上げる。

「藤原吉子夫人のところだ」

「吉子!?」

 素っ頓狂な声を上げたのは、安殿だった。

「伊予の母親でしょう!?」

「そうだな。伊予は確か―――今十四か」

「おれは反対です!あいつは、虫が好かない」

「別に伊予が母親になるわけではないぞ。それにあれは既に元服して、一室を与えてある」

「しかし!」

「控えなさい、安殿。もう決まったことだ」

 ピシリと、桓武は言った。安殿は口をつぐむ。

 兄弟の中では最も近い伊予親王だが、安殿は彼が嫌いだった。

 神野と安殿もあまり似てはいないが、伊予もまた、安殿とは全く違うタイプの人間である。安殿の印象では、「妙に皮肉っぽい言いようが鼻につく、気障で嫌な奴」であった。ある意味では口は達者で頭の回転は早いので、うまさえ合えば会話は弾む。桓武などはむしろ合う方なので、安殿が伊予を嫌う理由がよく判らない。

「その代わり、お前の妃の帯子に、大伴を任せることにしてある」

「大伴を」

「帯子にすれば、姉の子だろう。二年前に旅子が死んだときにはまだ年も十五と若すぎたし、入内したばかりだったゆえ見合わせたが、今度はぜひ養育したい、と望んでいる」

「帯子の奴、おれに無断で……」

 渋い顔をする安殿を、桓武はたしなめる。

「確かに大伴は母親は違うが、お前の弟だぞ。そう狭量なことを言うものではない」

「はあ……。でも、どうして大伴ならよくて、神野は駄目なんですか」

 あまり気は進まない。彼にとって、同母の神野や高志は愛しい存在だったが、それ以外の異母の弟妹については、「無関心」か「虫が好かない」かのどちらかである場合が多かった。

 だが、桓武にしてみれば、十七歳の帯子に大伴、神野、そして妹の高志を任せるという事はさすがに考えられなかったし、仮に帯子にそれだけの器量があったとしても、同母兄弟を偏愛する安殿の元にその三人を置くのは、いくらなんでも大伴が哀れである。

「だから、母親代わりをするのは誰だと思っておるのだ?少しは他の弟妹のことも、自分の妻のことも思いやってやれ」

「おれは十六歳で四歳の子持ちですか」

「弟だというのに。まあ、妻が養育するとなると、子と似たようなものかな」

「高津は、どうするのですか」

 神野が初めて問う。

「あれは田村麻呂が望んでおるので、一旦里に返す。―――三、四年もすれば裳着だし、少々考えもある」

「考え?」

 眉をひそめる安殿に、

「まあ、少し待て」

と桓武は言った。

 自分が関与できる余地など全くないことが判った安殿は、一息ついてから言った。

「判りました、父上」

「主上と呼べと、いつも言っておるのだがね。それに、『おれ』と言うのもそろそろやめておけ。自覚を持て」

「はい、主上」

 一応神妙に、安殿は頭を下げる。神野は再び、兄の下へ走った。安殿は弟の頭をくしゃりと撫でる。

「では、これで失礼致します」

「ん」


          ☆


 そして二ヶ月がすぎ、涼風が吹き始める頃、ついに桓武が最も恐れていたことが起こった。

 安殿が、病の床についたのである。


          ☆


 報告を受けた桓武は、半狂乱になった。

「まさか痘ではないだろうなっ!」

「いえ。しかし、食事を召し上がらず、少し召し上がってもすぐに下してしまわれ……」

「すぐに祈祷師を呼べ!」

 ただちに数十人の祈祷師が集められ、治癒のための祈祷が開始された。しかし病状は一進一退を繰り返し、一向に回復しなかった。

 だが。

 安殿の病は、季節の変わり目によくある身体の変調、一種の風邪のようなものだった。単なる食欲減退と、消化不良に過ぎない。

 しかし、桓武はそうは考えられなくなっていた。桓武ばかりではない。宮中、いや、都中の人間が、口々に「早良親王の祟り」だと噂した。祈祷が行われていることが、それに拍車をかけた。そして、それが皮肉なことに、安殿にとって、最も大きな打撃となったのである。

 考えてみれば、容易に判ることであろう。

 自分が病の床に臥したときに、祟りが噂され、急遽祈祷が行われれば、誰とて気分がよいはずはない。

「自分は、呪われているのか!」

と考えるであろう。桓武同様に、いやひょっとするとそれ以上に、安殿は怯え、何度も顔を見たことがある穏やかな表情の叔父の顔が悪鬼に変わっていくさまを夢に見た。それが、桓武を一層の祈祷に走らせる。安殿は追いつめられ、その精神の不安定さが、今度は肉体にはね返り―――という、悪循環が形成されたのである。

 もともと安殿はやんちゃだが、決して豪胆ではなく、むしろ神経質で癇が強い。その気質がさらに増幅された。かれは始終苛々し、ひっきりなしに頭痛と吐き気とを訴えるようになった。

 帝と東宮と。国家の中心たるべき二人が傍目にも分かるほどの動揺ぶりを衆目にさらすのとまるで歩調を合わせるようにして、都の治安は乱れ、痘の流行も重なって、長岡京は極度に不安な空気に包まれていったのである。

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