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第一章 春霙哀歌(五)

「神野、高志!」

 又子の死を聞き、すぐに駆けつけたのは安殿だった。遺体の傍にいた神野は顔を上げ、安殿を見る。

「あ、東宮さま」

 周囲の者が驚くのを無視して、つかつかと神野に歩み寄る。もともと白いその顔が、さらに青ざめている。

 神野は平伏しようとした。

「馬鹿、いい。大変だったな。高志は」

「向こうで眠っています」

「そうか。あいつはまだ二つだからな。判らんだろう」

 そう言って膝をつくと、神野の小さな身体をぎゅっと抱いた。まだすっぽりと、腕の中に収まってしまう。

「大丈夫か」

「……はい……」

「震えてるな。可哀想に」

 背をぽんぽんと叩く。

 腕の中で、弟の身体が硬くなったのが判った。くぐもった声を発する。

「神野?」

 何事かと安殿は身を離す。神野は顔をそむけ、激しく嘔吐した。

「うわっ」

「神野さま!」

「東宮さま!」

 二通りの声があがった。神野を気遣う声と、安殿を気遣う声。室内がさらにざわめく。大伴や、実母を亡くした高津内親王がいる中での大騒ぎに眉を顰める者もいたが、そこは東宮のなすことである。注意する者はいない。遅れてついてきた安殿の従者たちが慌てて動き出す。

「誰か、神野さまをあちらへおつれして」

「東宮さま、どうぞこちらへ」

 まとわりつく手を、安殿はうるさげに払いのける。

「構わん。おれが連れてく。―――どこだ」

「お任せください。汚れます」

 その言葉に、安殿はカッとなった。

「うるさいっ! 汚れるだと!? おれの弟だ!」

 怒鳴りつけて立ち上がる。

「もういい、おれの室にゆく」

「東宮さま! なりません!」

 制止もきかず、神野を抱き上げると、安殿はばたばたと部屋を出て行った。


          ☆


「ほら、水」

 安殿は高足の杯を差し出す。神野は受け取り、少しずつ飲んだ。

 ふたりは着替えを済ませている。安殿が命じて服を持ってこさせ、自分たちで着替えたのである。

「汚れる、だと? 何て薄情な奴らだ。たったひとりの弟が、死にかけてるっていうのに!」

 怒りのあまり、ついつい表現が大袈裟になる。安殿はしばらくカンカンに怒っていた。

 室内には、誰もいない。

「おれが呼ぶまで、誰も入ってくるな。近づくな。いいか、来たらクビだっ」

と安殿は息巻き、全員退がらせてしまったのである。

「大丈夫か。背をさすってやろうか」

 神野は首を振る。その顔色は紙のようだ。

「大変だったな。本当に」

 もう一度、神野は首を振った。空になった自分の杯を、安殿は傍らに置く。

「無理もない。ここんとこ、ひどい目に遭いすぎたよ」

 部屋は蒸し暑い。庭からは蝉の声が聞こえてきていた。

 杯を口に当てながら、神野の眼はじっと安殿に向けられていた。

 口をきくことができないままに。

 言えるわけがない。

 自分が嘔吐した原因が、この兄そのひとにあるなどと。


          ☆


「おばあさまは、どうしていつも、そうやって書いているのですか」

 祖母高野新笠が存命のとき、神野はときおり、その房を訪れた。寝込むことが多くなった新笠の部屋はいつもしんとしている。

 神野はこの祖母が好きだった。

「そうだねえ」

 手を止めて、新笠は皺だらけの顔を神野に向ける。

「どうしてだろうねえ」

「わからないの?」

「そうだねえ」

 新笠は神野を膝に抱き上げた。神野ははしゃいで、老婆の細い腕に手を絡める。成り立っているようないないような、禅問答のような会話だ。

「ばばにはな、ほかにどうしようもないんだよ」

 新笠が初めてそんなことを言ったのは、亡くなる前の日のことだった。

 雪が降っている。

 年の暮れ。日ごとに増してくる寒さが堪えて、彼女は床についていた。

「山部がな―――お前の父さまがな、自分の弟にひどいことをしたんだよ」

 死への予感が、彼女にそんなことを言わせたのかもしれない。あるいは、ひとりごとのつもりだったのかもしれない。いずれにせよ、早良の事件の後に生まれ、現在三歳の神野は、事件については何も知らない。昔話を語るように、彼女はゆっくりと言った。

「ひどいこと?」

「……そう。それであの子は、死んでしまった……」

 吐息のように。

 耳を澄ませなければ聞き逃してしまいそうな、小さな声だった。

「だからばばが、早良に謝っているんだよ。山部を許してやっておくれ、ってね……」

「謝る……?」

「……許してやっておくれね……」

 神野はもっと尋ねようとした。しかし、神野の声は既に新笠には届いていなかった。程なく彼女は昏睡状態に陥り、翌日の夜に息を引きとった。

 神野の胸に、大きな謎を残したまま。


          ☆


 神野は、周囲に評判になるほど、聡明な子供だった。

 祖母の言葉を、彼はゆっくりと理解していった。

 父親が、実の弟を、殺したと。

 詳しい事情などは勿論判らない。

 だが少なくとも神野には、兄安殿や母乙牟漏、そして父桓武といった身近な肉親が、何か得体の知れぬ、不気味なものに思えてきた。

 弟を殺した父。

 東宮である兄。

 そしてその母……

 そんなことを、論理的に考えたわけでは勿論ない。ただ、だからこそ、神野はひたすら怯えた。

 逆らうことが、できなくなった。甘えることが、できなくなった。

 父や母が嬉しそうに、安殿を「東宮」と呼ぶのが怖かった。

 父や母に、安殿と比較して褒められるのが怖かった。

 しかしとるに足らない、いらない人間だと思われるのはもっと怖かった。

 怖がっていると知られるのも、怖かった。

 だが……

 それと同時に、やはり彼らは幼い神野にとって、かけがえのない大切な人たちだった。

 優しくされれば、褒められれば、心配されれば、嬉しかった。愛されたかった。

 でも優しくされるのも、怖かった。

『うるさいっ! 汚れるだと、おれの弟だ!』

 安殿に優しく気遣われながら。

 得体の知れない恐怖と、兄への本能的な愛との間で、神野は立ちすくんだ。

 その二律背反の重みに、身体が悲鳴をあげたのである。


          ☆


 蝉の声が、聞こえる。

 神野は身体を横たえていた。安殿はその背をさすったりしながら、横に座っている。

 身体に、じっとりと湿った空気がまとわりつく。その重さが息苦しい。

「菓子でも、持ってこさせようか」

 安殿が、不意に言った。

 もともと黙っているのは得手ではない。沈黙が続くと、何か喋りだす。

 神野は首を振った。

「そうか? 遠慮するなよ」

「……はい」

 消え入りそうな声で、やっと神野は言った。それでも、安殿はホッとしたようだ。

「ん、よしよし。―――じゃ、水でも持ってこさせようかな」

 空になった杯を持って、ひょいと立ち上がる。その袴の裾を、とっさに神野は掴んでいた。

「あ?」

 安殿は再び神野を見る。

「どうした?」

 神野は首を振った。何度も、何度も振った。頭がずきずきして、たまらなかった。

 不意に、涙があふれた。

「お……おい、神野」

 安殿はうろたえ、慌ててしゃがみこむと、又子の部屋でしたようにその身体を抱き寄せる。神野はすがりついた。

 声を上げて、神野は泣いた。―――何かを叩きつけるように。

 言葉には、ならなかった。

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