第四章 新帝即位(八)
そして、仲冬十一月九日、事は起こった。
いつもにまして寒い夜だった。
その寒さをも吹き飛ばすような激しさで、安殿の怒号が後殿(仁寿殿)に轟いた。
「伊予が、謀反だとっ!」
奏上してきたのは、内麿である。傍らには真夏が控えている。その他の人間は、全て部屋の外に退けられていた。
「どういうことだ、子細を申せっ」
「桓武帝の治世の頃より伊予親王に仕える古くからの臣が計画を漏れ聞き、大変なことだと遠縁の雄友どのに訴えたのです。ですが、雄友どのはその訴えに耳を貸そうとはなさらず、たまたまその場を目撃した者が、悩んだ末、ツテをたどって息子に縋ってきたのでございます」
「誰だ、その古くからの臣とは」
「式家の藤原宗成という、真面目がとりえの男です」
「真面目がとりえの旧臣か。だろうな。全く、その宗成も気が回らん男だ。雄友は伊予の伯父だぞ。そんな訴えを認めるものか。握りつぶすに決まっている」
安殿は苛々と言った。
内麿が再び口を開く。
「宗成が申しますには、伊予さまは、自らの方が帝に相応しい器だと言われたのだということです。先日にも、世が世なら、自分が帝にでも東宮にでも、なっていたっておかしくない、同じ先帝の血をひき、しかも神野さまよりも年上ではないか、と言われるのを、真夏が耳にしており………」
「無礼者めっ! 先の皇后である母上をなんだと思っておるのだっ!」
カッと、頭に血が昇った。
「あいつは、大体にしてこのおれを馬鹿にしている。父上の遺言だからこそ、気を遣ってやっておるんだぞ」
少し考えればうさん臭い話であることは判ったはずである。だが、安殿はそんな判断を巡らせようとはしなかった。以前直属の部下として信頼していた真夏の存在も、安殿の判断力を鈍らせている。そして何よりも、事の真偽を確かめるよりも、伊予に対する感情的な反感の方が先に立った。
「野足、野足はおるかっ!」
安殿は内麿の願いを容れて部屋から出していた侍従巨勢野足を呼びつけた。カツカツと沓音が響いたと思うと、野足はすぐに姿を表し、安殿の前に出て姿勢を正す。
「伊予が謀反を企んでいることが判った。ただちに左兵衛督と共に兵を集めて伊予邸へ向かい、逮捕せよ」
「謀反!? ―――中務卿さまがでございますか?」
思いがけない話に唖然として目を見はる野足に、安殿は早口に言い放った。
「そうだ。あの男、ついに本性を現しおった。ぐずぐずするな。ただちに捕えるのだ」
いずれにせよ、命令が下されれば実行するより他ない。野足は、
「かしこまりました」
と一礼すると、部屋を出て行った。
☆
伊予とその母吉子は、即刻拘禁され、大和の川原寺に幽閉された。
全く見に覚えのない「謀反」の訴え。それが自邸の部下、宗成の密告と聞かされ、伊予は蒼白になった。どんな顔をしているかさえ記憶にない、取るに足らぬ小者だ。
「これは、何者かが仕組んだ罠だ!」
吉子も色を失った。
「伊予どの、主上に奏上なさい。何かの間違いです。行き違いがあるのですよ。釈明すれば―――」
「そのような甘いものではありません。これが陰謀であるのは明白ですが、主上はわたしの言うことになど耳を傾けはしますまい」
「では、東宮に訴えなさい」
最後の希望に、吉子は縋ろうとした。何といっても、元服までの約十年間、彼の世話をしたのである。
「東宮の仰ることなら、主上も―――」
伊予は苛々と手を振った。
「母上は、お判りでない。あれがそのぐらいの縁で動く男だとお思いなのですか。あの男は、いざとなれば親兄弟といっても容赦なく切り捨てかねない男ですよ。おそらく、眉ひとつ動かさずに、あの涼しげな顔のまま」
「まさか―――あの、お優しそうな」
「上辺だけです」
伊予は吐き捨てる。
「終わりです。もう何もかも」
☆
この事件の波紋は大きかった。
伊予と吉子の幽閉に続いて、藤原南家のトップ大納言雄友が、吉子の兄であることを理由に官位を剥奪され、伊予国に流された。台閣中今ひとりの南家出身者である乙叡も、
「態度不遜である」
と、これをきっかけに解官の憂き目を見た。四十八歳の若さであった。
東宮御所も、無関係ではいられなかった。
東宮大夫秋篠安人が、造西寺長官に左遷され、他の一切の任を解かれたのである。
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