第三章 行春散華(十六)
神野の出仕が休みの日を見はからって、安世は神野の部屋に向かった。
ふと足を止め、安世は耳を澄ます。春の空気の中に、やわらかな筝の音が流れている。弾き手は、すぐに判った。
神野である。
間違うはずはない。
大気にとけてゆく、澄みきった音色。
高い空にどこまでも吸い込まれてゆくような、そんな音だ。
安世の出現を神野に知らせようとする従者や侍女を、安世は唇に指を当てて制した。彼がひとりでやってくるなど珍しいことではないので、彼らも心得ている。
安世は部屋の外から中を覗き込んだ。神野は眼を半ば閉じて、耳を澄ませるようにして弾いている。絃を爪弾く指が、身にまとっている袍の白と同じぐらい白い。安世に気づく様子はなかった。
安世は胸元からそっと龍笛を取り出した。そっと唇を当てる。
龍笛の音は、高く、細い。しかし安世の息によるその音は柔らかく、春の夕暮れの大気の中に緩やかに広がっていった。
一瞬、神野はわずかに眼を見開く。だが、すぐに彼は落ち着きを取り戻した。二つの音が、ゆっくりと絡みあい、融けあい、そして呼びあう。笛の音が音階を昇ってゆくと、筝は昇降を繰り返す。あるいは筝が奏でる短いフレーズに、笛の音が重なってゆく―――
ふっと、筝の音がやんだ。安世も笛から唇を離す。そしてにっこりと笑顔を見せた。
「久しぶり」
神野は表情を緩めた。
「そうだな」
「あがってもいいかな」
「もちろん、構わないよ」
では、と安世は沓を脱ぎ、部屋に上がりこんだ。神野は筝を離れ、安世と向きあう。安世は笛を布で拭って、胸元にしまった。
「来てよかったな。神野の筝が聴けるとは思わなかったよ」
神野は微笑する。
「わたしも、君の龍笛が聴けるとは思っていなかった。―――何か飲むかい?」
「いや、夕餉を済ませたところだから」
「そう」
「うん。それよりもこれ、手土産」
安世は袖下を探って、何やら白い布の包みを取り出す。渡された神野が開いてみると、中から山形とも草型とも形容しがたいような唐菓子が六つ出てきた。桂心という菓子で、餅に肉桂の皮をまぶしたものである。
「どうしたんだ、これ」
「壬生門を通ってきたら冬嗣がいて、くれた。二つは三守にやるけど、残りは食べていいよ」
冬嗣は現在三十一歳で、衛士少尉を務めている。衛士府は大内裏の入口の門を守護する役所である。
「じゃあ、やっぱり飲み物がいるじゃないか」
神野は立ち上がり、部屋の外に指示を出した。まもなく白湯の入った器を二つ持った女官が現れた。
「ありがとう。ここはいいよ」
神野は女官を下がらせ、杯を安世に手渡す。円やかな曲線を描く、白磁の杯だった。
「きれいな形だ」
安世が感想を言うと、神野は口元を緩める。
「頂きものだけど。白磁は好きだな」
しばらく白湯を口にしながら、二人の間に沈黙が下りた。ふと思いついたように、神野が口を開く。
「三守は、どうしてる?」
「勉強してるみたいだったから、声はかけなかったよ」
神野は微笑した。
「いつも熱心だな」
「君も冬嗣も仕事が忙しいし。みんな遊んでくれないからつまらないよ」
拗ねたように安世が言うと、神野は可笑しそうに言った。
「冬嗣はもう二児の父親だよ、そうそう君と遊んでいられるわけがない。自分の子供と遊ぶ暇もないんじゃないのかい」
「らしいね。で、美都子どの、この間も、
寒閨に独り臥して夫聲なし
妨げず 簫郎が馬蹄を枉げむことを
(和漢より、無名)
って書いて三守に届けさせたらしいよ」
わたしは寂しい閨にただひとり臥しております。
別に夫と定める者もおりません。
愛しいあなたが馬蹄を巡らせて来て下さるなら、誰も妨げる者はおりますまい―――
今度は声を立てて、神野は笑った。白い頬にうっすらと赤みがさした。安世もくすくすと笑う。
「情熱的だろ。冬嗣も参ったなあ、って言って、その夜にはすっ飛んでいったそうだよ」
美都子は、三守の六歳年長の姉である。安世も三守の家で何度か会っているが、とても華やかで美しい女性だ。三守の話では、自分が冬嗣を尊敬して、常々、
「冬嗣どのが」
「冬嗣どのは」
と言っていたせいなのか、いつの間にか二人はまとまってしまっていた、とのことである。夫婦仲の方は極めて良好であるらしい。安世は冬嗣の異父弟なので、美都子は義姉に、そして三守とは義兄弟の関係になったことになる。
南家の美都子と北家の冬嗣の結びつきは、ただの恋物語であろうはずはないが、それでも仲がよいのは結構なことだ。
「君は、まだ出仕を考えてはいないのか?」
神野が不意に尋ねてきた。安世は笑う。
「うーん、今の方が気楽だな」
答えてから桂心をひとつ摘み上げ、口に放り込んだ。
「やりたいことは色々あるんだけどさ。どっちかというと身体を使う方が性に合ってるかな。馬とか弓とか―――そうじゃなきゃ、楽とか舞とか。そういう筋の仕事を目指すつもりではいるんだけど」
「武官の方?」
「うん。少なくとも君みたいに中務卿とか、伊予どのみたいに式部卿とかって柄じゃない。―――ほら、冬嗣みたいに、衛門とか近衛とか」
「ふうん……」
「君には、何かやりたいことってないのかい?」
問い返すと、神野は戸惑った様子でちょっと黙り込んだ。
「今は、それを考える時期じゃないな」
苦笑して答える。
「……悪かった」
「別に、謝ることはないよ」
淡々と神野は言った。しかし、すぐにそれでは不十分だと思ったのか、
「ごめん、こっちこそ何だか変な答え方をして。出仕のことを尋ねたのはわたしのほうだよ」
と少し慌てたように付け加えた。そんなとき、神野は安世よりもはるかに年かさに見える。実際には、安世の方が一歳年長なのだが。大体、東宮指名という事態に、神野はやや神経質になっているはずだ。様子を見に来て気遣われていたのでは世話はない。
「君、いい奴だよなあ」
しみじみと安世が呟くと、神野は苦笑する。
「……相変わらず唐突だな。嵯峨でもそうだったけど」
笑みを交わしたところで、使者が飛び込んできた。
「中務卿さま!」
神野はすっと居ずまいを正す。
「どうした」
「すぐに正殿へお渡り下さい」
神野の顔に緊張が走った。
「主上のご容態が、急変なさいました」
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