表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/92

第一章 春霙哀歌(三)

「……にうえ……」

 ひとりになると、いつも聞こえる。

 遠く、遠くから響いてくる声。

「兄上……」

 背中に投げかけられる、声。

 振り向いては、ならぬ。

 振り向けば、捕まってしまう。

「兄上……」

「兄上……」

 こだまのように重なりあう。ねっとりと背にまとわりつく、闇。

 闇……

 わしを、呑み込みにくる。

 不意に。

 別の声が、また背後で聞こえた。

「許しておくれ……」

 老婆の声だ。泣いている。

「許してやって、おくれ……」

 あれは……

「哀れな子じゃ……」

 あれは……


          ☆


「……母上……」

「―――え……」

 呟きに、乙牟漏は身体を起こした。傍らに横たわる夫を見る。

 夜である。

 閉じていた桓武の眼がふ、と開いた。乙牟漏を見とめ、焦点を合わせようとするように軽く眉根を寄せる。

「――――ああ……」

 吐息に近い声が、その唇から洩れる。

「夢でもごらんになりましたか」

 乙牟漏は優しく言った。

「夢……そうだな、夢を見ていた」

 桓武は半身を起こし、妻を見やる。

「わしは、何か言うたか」

「「母上」―――と……」

 桓武は息を吐き出す。

「そうか……」

 室内は暗いが、闇ではない。ゆっくりと、目が慣れてくる。彼は手を伸ばし、妻の華奢な肩に触れた。その温かさを確かめ、少し安堵する。

「お酒を召し上がりますか」

「そうだな、頼む」

 乙牟漏は上着を羽織って立ち上がると、棚から酒と杯を取り出した。早良が死んでから時々望むようになった夫のため、乙牟漏は部屋に備えておくようにしていた。そして衝立向こうに控えている女官に指示し、灯りを持ってこさせる。

「どうぞ」

「ん……」

 桓武は勧められるままに一口ぐい、と呑み、再び深く息を吐き出す。

「もう、三月になるな……」

「ええ。年の暮れ、寒い頃でございました」

「雪がずいぶん降っていた。静かな晩だったな」

 桓武の生母、高野新笠(にいがさ)は、昨年の暮れに没している。早良の死以来、めっきり身体を弱くしてしまった老母は、寝たり起きたりを繰り返しながら五年を生き、ひっそりとこの世を去ったのである。


          ☆


「この、鬼め!」

 早良が乙訓寺に移され、淡路に流されたと聞いた新笠は、皺だらけの顔を涙でぐしょぐしょにして、桓武をののしった。

「あの子が謀反を企てるような子かどうか、そなた判らないはずはないじゃろうがっ!」

「わたくしとて信じたくはございません。しかし、確かな証拠が出ました以上は、放っておくことはできません」

「何が証拠じゃ! そんなにまでして子供を東宮にしたいのかっ!」

 老母は激怒した。手当たり次第に桓武に物を投げつける。紙、筆、硯箱―――硯箱は桓武の足元で弾け、中身が飛び散った。

「こ……皇太后さま、お心をお鎮め下さい」

「主上! お怪我はございませんかっ」

 周囲の者たちはおろおろする。何を言っても今は無駄と判り、桓武は黙っていた。

「仮にも父母を同じくする弟に罪を着せて島流しにするなぞ、お前は鬼じゃ、顔も見とうない!―――ああ、早良、なんと可哀想な子……」

 ぼろぼろと涙を流し、そのまま床についてしまったのである。

 しばらくして早良の訃報が届いた。新笠はまたおびただしく涙をこぼし、遺品となった経文をもらい受けた。

 渡来人の家系である新笠は書をよくする。少し体調のよいときには机に向かってそれを広げ、一心に写経をするようになった。

「顔も見とうない」

 そうは言ったものの、桓武も早良も、新笠にとっては愛しい息子だ。早良の落ち着きと優しさも愛おしいが、彼は十一歳で出家してしまっている。手元に残った桓武、やんちゃで、「いかにも男の子」といった風貌の桓武には、ひときわ愛情を注いできた新笠である。

「早良や、山部(桓武の諱)を赦してやっておくれ……。哀れな子じゃ、お前も、山部も……。仏さま、哀れな子らを、どうぞお救いくださいませ……」

 写経をしながら、ただただ、そう繰り返し続けたのである。

 お世辞にも信心深いとはいえない桓武は、その話を聞いたときには苦笑したが、止めることもできずに放っておいた。

 その母が、死んだ。

「お前のこと、よくよく謝っておくからな……」

 誰に、とは言わなかった。早良にか、仏にか、それともほかの誰かにか、桓武には判らない。その言葉を最後に、新笠は眠るように息を引きとった。


          ☆


 母上は、謝っているのだろうか。あの世とやらで。

『早良、赦してやっておくれ……』

 そう言ってくれる者は、もういない。

 そう思うと、背筋を冷たいものが走った。

 辛抱強く自分を支えてくれる乙牟漏は、安殿の母。しかもあの事件では早良を死に追いやった我々の側、式家藤原氏の女だ。彼女は事件のことを語らない。関わったとも、そうでなかったとも。知らなかったはずはない。あの一件のおかげで、東宮の母となった女だ。

 ただ、こう言った。

「わたくしは、どこまでも主上と共に参ります」

と―――

 どこまでも。

 どこまでも、進んでゆく以外に、ない。

 わしが、帝なのだ。


          ☆


「神野は、母上に似たのであろうかな」

 ふと昼間のことを思い出し、ぽつりと桓武は呟いた。乙牟漏もすぐに思い当たったらしく、微笑する。

「書も、楽も、詩も、文事のことには一通り興味を示すようですのよ」

「賢い子だ。安殿をよく慕っておるし。―――仲良うやってくれるだろう。なあ、乙牟漏」

 半ば、祈るような気持ちだった。

「あの二人を、頼むぞ」

「お任せください」

「うむ」

 ようやく、桓武は表情を和らげる。乙牟漏の膝枕で、ごろりと横になる。

「心安うなされませ。大丈夫ですわ」

 そんな乙牟漏の声を子守唄に、酒のかいもあって、彼はそのまま二度目の眠りに落ちていったのである。


          ☆


 乙牟漏は、夜明けに自室に下がった。

 桓武は正殿で政務を見ていたが、日が高くなってから、その下に後宮からの使者が参上した。

 桓武は、蒼白になった。

「馬鹿な、わしは信じないぞ!」

 乙牟漏が、急死したのである。


          ☆


 後宮は、騒然としていた。

「乙牟漏!」

 桓武はわずかな伴を連れて駆けつけたが、既にその身体は冷たくなっていた。彼は遺体をかき抱き、叫んだ。

「乙牟漏、何故だ!? ―――何があったのだっ!」

 心安うせよと言ったのは、そなたではないかっ!

 乙牟漏に仕えていた女官が震える声で言った。

「わたくしどもにも全く判らないのです。先ほど突然苦しまれて……あっという間に……」

「心の臓の発作ではないかと思われまするが……」

 先に駆けつけていた医師はそう言って困惑する。

「あまりお強い方ではなかったが、それでもこれほど突然に……」

 そこへ、知らせを聞いた安殿が飛び込んできた。

「母上っ!」

 現場を見て、報告が事実であると否応なしに思い知らされた安殿は、その場にへたりこむ。その眼から、涙がぼろぼろとこぼれた。

 そのままずるずると、桓武が抱いている遺体にいざりよる。

「どうして……母上……!」

 まだ三十一歳の若さで、皇后乙牟漏は亡くなった。そして、三人の子供が遺された。安殿東宮十六歳、神野親王四歳、そしてその妹高志内親王はまだ二歳の幼さである。

 暗い影が、桓武とその周辺を脅かしつつあった。乙牟漏の死が、その先触れとなったのである。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ