第二章 夏日逍遙(七)
そして、一年後―――
永継の喪が明けるのにともない、安世は大学寮で寄宿生活を始めることになった。そして彼に仕えていた冬嗣が、神野の下で仕えることに決まった。
この話を持ち出したのは、安世である。
正確には、内麿の意を汲んで、安世の方が自ら内麿に申し出た、というところである。
「ぼくには、政治での野心というほどのものもない。いずれ姓でも賜るだろうし、そこそこの官職を得られればそれでいいんだ。そんなぼくに仕えるのは、君のためにもならないし、多分、内麿どのの意図ともそぐわないだろう」
喪に服している中納言内麿邸で、彼は珍しく真面目な顔をして冬嗣に語った。一カ月前のことである。
冬嗣は黙っていた。
「でも、神野はそうはいかない―――」
皇后の息子で、東宮の弟。しかも、父帝の期待は非常に高いときている。桓武が既に六十四歳の高齢になり、いつ安殿に譲位してもおかしくはない。そして、その後はいまだ未知数なのである。
今のところ、安殿には有力な後ろ盾をもつ子がいない。早良親王のときがそうだったように、神野立太子も十分にありうる。
早良親王のように―――
ひどく、不気味な響きを持つたとえである。
東宮に立っても立たなくても、神野の存在は大きい。仮に安殿の子が立太子したとしても、彼の位置は極めて微妙なものになる。
彼は、闘わざるをえないのだ。
闘い。
あの物静かな神野には、いささか不釣合いな言葉であるようにも思える。
だが、神野は常に闘っているのだ。ただひとり、その研ぎ澄まされた感覚を駆使して。
「……ぼくは、恵まれているな」
「安世どの……」
「逃げていると思うかい?」
冬嗣は首を振った。
「いいえ」
「ぼくは、周りの思惑に否応なしに流されるのはたくさんだ。そんなものを見たくもないし、自分もそうなりたくない」
反応は、あくまでも静かだった。
「ええ。よく判っております」
「ぼくは、神野の眸が、母上と同じ彩をしていると思った。憧れるようにどこか遠くを見る、そんな眸をしている」
どこか、遠く。
どことも知れぬ場所。
ここではない、どこかを―――
冬嗣はいい。彼はやはり貴族として、そして内麿の息子として、それなりの野心が、そしてなすべきことがある。そのために、いずれ出仕して、自らの意志で政治のただ中に身を投じるのだろう。―――いや、ある意味では既に投じているといってもいい。
しかし、その生まれのゆえに政治的であらざるを得ない神野が、安世にはときに痛ましくさえ思える。そんな風に考えるのは、ひょっとすると傲慢なのかもしれない。だが、実際、神野はときおりひどく辛そうなのだ。限界まで張りつめられた糸のように。
それを知りながら、安世はやはり神野と共に政治のただ中に飛び込んで闘う気には、どうしてもなれないのだった。神野がどれほどかけがえのない友であっても―――
自己嫌悪に近いような思いを、安世は抱いていた。
「友だち甲斐のない奴だよな、ぼくも……」
「安世どの」
冬嗣が、静かに言った。
「政治の中で共に闘う者だけが、友ではございませんよ」
安世はしばらく冬嗣を見つめ、ふと相好を崩す。
「亀の甲より年の功、かあ」
がっくりと、冬嗣の肩が落ちた。
「……安世どの」
「はは、ごめんごめん」
「あなたと話していると、深刻になるだけ馬鹿を見ますね」
「ごめんって。―――そうだね。君の言うとおりだ」
神野。
ぼくには、ぼくの道がある。
そして、君は、君の道を行くんだろう。
たとえ、道は違っても。
願わくば、ずっと友だちでいられるといいんだけどな―――




