7)
「こ、こわかった……」
元宮君が、そう言いながら助手席から転がるように降りた。
別に、麻由に報復されたわけじゃない。
ただ彼は、車に乗っていただけだ。
「む。失礼な。とっても安全運転だったじゃないか」
私もそれに続いて、運転席から降り立つ。
私達の間には、私のかわいいかわいい黄色い愛車が止まっている。
今、この愛車に乗って、元宮君の暮らしていたアパートへやってきたところだった。
事の起こりは、元宮君に夕方かかってきた一本の電話だった。
仕事を終えて帰ってきて、私が元宮君に約束どおり料理を教えてあげつつ、2人で夕飯を作っていた。そこへ、元宮君が暮らしていたアパートの元住人から電話がかかってきたのだ。
ダイニングで電話に出た元宮君の話をなんとなく聞いていると、どうやら相手は彼の隣の住人で、あの焼けてしまった2階で暮らしていた人らしい。つまり、自分は悪くないのに、一番被害を被ってしまった人なわけだ。
「――ああ、うん。それはかまわないけどさ。俺、今度の日曜にでも片付けに行くつもりだったし?車も借りなきゃいけないしな。ああ、そっか、う〜ん……うん……うん……」
割と仲が良かった友人らしく、くだけた調子で話す元宮君が新鮮だった。
ところで……。
「車が必要なら貸そうか?」
彼の口から出た車の一言に、思わず反応してしまった。
元宮君が『え?』と言って振り向く。
「あ、ちょっと待って。……先生、車、持ってるんですか?」
携帯を押さえて、元宮君が驚いた顔で聞き返す。
「うん。ほとんど乗ることもないけど、下の駐車場に置いてある。小型車だから、たいして荷物は乗らないとは思うけれど、必要なら……」
車種名を言うと、元宮君がうなずく。
「たぶん、十分です。荷物も、衣類はある程度持ってきてるし、生き残った家電とか食器とかくらいですから」
それくらいなら私の車でも乗りそうだ。
もし一度で乗らなければ、何往復かすればいい。その方が私にとっても好都合……。
「こいつ、俺の隣に住んでた奴なんですけど、ほとんどの物が駄目になっちゃって。俺のところに置きっぱなしになってるもので、いらない物があったら欲しいって言うんですよ。俺もこいつには結構世話になってるし、あの部屋のいらないもので役に立つならと思うんですけど、明日引越しするんで、できれば、今日のうちに選別して欲しいらしくて……」
なるほど。
元宮君は、日曜日にでもどこかで車を借りて、残りの荷物を片付けに行く予定だったから、それだと友人の予定に合わない、ということらしい。
そんなの、お安い御用だ。
「荷物もそんなにないなら、引越し先が決まるまでここへ置いてもらってかまわないし。私の車でよかったら、夕飯が済んでからでも貸してあげるよ」
「ありがとうございます!助かります!じゃあ……」
「ただし、運転手つきでね」
ニンマリと笑って自分を指差した私に、元宮君が一瞬首を傾げたけど、しばらく考えて、
「よろしくお願いします」
と言って、電話の友人にそのことを報告している。
きっと自分の運転が心配なんだろう、とか、勝手に解釈したらしい。
……でも、それは違う。
実は私、車の運転が大好きなのだ。というより、あの車が好きといった方がいいかもしれないけれど。
昔から、街やテレビで見かけるビー○ルという車のかわいさに惚れこんでいて、お金をためて、やっと去年念願の愛車を手に入れた。けれど、この辺りは交通の便もよくて、どこへ行くにも車で移動するより、電車で移動した方が早かったりするもんだから、せっかくの愛車に乗る機会が少なくて、残念に思っていたのだ。
だから、たった歩いて5分の距離でも、愛車に乗れるのならば、いくらでも貸してあげるというもの。
「じゃあ、先生。よろしくお願いします」
「うん。任せとけ」
夕飯を食べて、地下の駐車場で私の愛車に乗り込んだ元宮君に力強くうなずいて、エンジンをかけた。
歩いて5分でも、その道は狭いから、車で行くには一度少し大きな通りへ出る必要がある。そのコースを通ると、車でも5分かかる。私はウキウキしながら、短いドライブへと駐車場を出発した。
……しかし。
「あ、安全運転って!確かに、ノロノロ運転をそう呼ぶのなら、そうかもしれませんけど。……たった5分の間に、自転車とはぶつかりかける、人をよけたら対向車にぶつかりかける。しまいには、止めてあった車にさえぶつかりかけてたじゃないですか!」
む〜……。
よっぽどこわかったのか、元宮君の顔が少し青ざめている。
「う〜ん。もしかして、私は運転が下手なんだろうか?」
「……………………………………自覚なし?」
「確かに、そんなに上手い方ではないとは思っていたけれど、今まで事故にあったこともないし、そう悪くもないと思っていた」
「…………俺の他に、誰か乗せたことは?」
「兄達と麻由」
「……みんなの感想は?」
「兄達には途中で運転を変わられた。麻由には、『これからは電車がいいな』と言われた」
兄さん達はただ単にビート○が運転してみたかったんだろうと、麻由は車に酔ったのかと思ったんだけど。
車、大好きなのになぁ……。運転、やめた方がいいのかなぁ……。
ズ〜ンと落ち込んで、愛車をなでる。
「あ……。い、いや!先生は下手なわけじゃなくて、あんまり運転しないから、慣れてないだけですよ、きっと!練習すれば大丈夫だと思うし、ある意味(あの運転で)事故にあわないっていうのも、才能かも!」
なんか、少し慌てた様子の元宮君が、落ち込んでいた私に元気をくれる。
……そっか。あんまり運転してないもんなぁ。そのせいか。
目の前がパァッと明るくなった気がした。
じゃあ、練習がてらもっと車に乗ればいいということだな!
「そうだな。じゃ、帰りに少しドライブでも……」
「ああああの、帰りは俺が運転したいな〜なんて。俺もビ○トルって運転してみたかったんですよね〜」
あははははっと元宮君が笑う。
本当は私が運転したいけど、この車を運転してみたい気持ちはわかるから、帰りの運転は彼に任せることにした。
うなずいた私に、元宮君は、やけにホッとした顔をした。
車で待っていてくれればいいという元宮君に、手伝った方が早いだろうと押し切ってアパートの彼の暮らしていた部屋へと足を運んだ。
近くの外灯に照らされたアパートは、確かにかなり古く、火事の跡も、思っていたよりもひどかった。その中に迷わず入っていく彼の後ろを追う。
「友達は?来てないのか?」
鍵を開けて入る元宮君の隣の部屋は、大分黒くなっていて、そこに住んでいたという彼の友人に同情する。
あれじゃあ、確かにほとんどのものが駄目になってしまっただろうな……。
「はい。今日必要なものだけ持っていけば、明日勝手に選んでいくそうです。使えなくなった家電品とかは大家さんが処分してくれるって言ってますし、俺は必要な物だけ持って出ればオッケー、というわけです。あ、まだ濡れてるところもあるかもしれないし、汚れますから……」
そう言って電気をつけた元宮君が、被害を被ってないスリッパを出してくれる。それをありがたく履かせてもらって、彼の暮らしていた部屋へと上がる。
6畳程度の畳の部屋に青いカーペットが敷いてある。風呂とトイレは共同らしいから、本当に古いアパートのようだ。
それにしても……。
「元宮君がズボラというのは、本当らしいな……」
狭い部屋を見回す限りでは、決して片付いていると呼べる状態ではない。
「もう〜、だから車で待ってて下さいって言ったのに……」
押入れをあけた元宮君の顔が、恥ずかしいのか赤くなった。それを見てクスクスと笑ってしまう。
押入れから衣類を取り出す元宮君を横目に、私は小さなキッチンへと入った。そこはあまり使った形跡がなかったけれど、それでも小さな食器棚に数枚の皿と茶碗などが収められている。
元宮君に聞きながら、それらを出して、持ってきた新聞紙にくるんでからダンボールへと詰めていく。
……なんか、変な気分だ。
元宮君と知り合ったのが約1週間前。その時には、まさかこうやって彼の暮らしていた部屋へ足を踏み入れることになるなんて思いもしなかったな……。
変な気分。
……でも、悪くない、かも。
そんなことを考えながら、しばらく食器詰め作業をもくもくとこなしていた時だった。
近くで、カサカサカサッという音が聞こえた気がして…………その瞬間、条件反射のように体が固まった。
い、今の音は……?
背筋がゾォッと冷える。
もしかして……もしかして……アレじゃ……?
おそるおそる音のした方へ視線を動かして、その視線の端に黒っぽいものが移った瞬間……。
「ぎ、ぎゃーっ!!!」
「うわっ!なに!?……えぇっ!?ちょ……センセッ!?」
キッチンから飛んできた私にいきなり飛びつかれた元宮君が、よろけそうになった体を慌てて堪える。
でも、今はそれどころじゃない。
「ごっ、ゴゴゴゴキ……!いたっ!」
力いっぱい元宮君に抱きついたまま、キッチンを指差す。
「は……?あ、ほんとだ。ちっちゃいやつだけど……」
抱きついた私越しにソレを発見したらしい元宮君は、離れようとしない私を引きずりながら、殺虫剤を手にした。それを確認して、次に何が行われるのかわかった私は、ササッと彼の背中に移動する。
シュウ〜ッという音がして、しばらくアレが暴れているだろう間も、私は元宮君の背中に隠れて、それが見えないようにしていた。
クスクスという笑い声が背中越しに伝わってくるけど、手を離さずに、元宮君があちこち移動してアレを片付け終わるまで、目をつむって彼の背中に張り付いていた。
「はい、おしまい。先生、もういませんよ?」
笑いを含んだままの声に言われて、おそるおそる目を開ける。
「ほ、ほんと?」
「もう、大丈夫ですって。……まぁ、他にもいるかもしれませんけど」
「えぇ!?やだっ!」
再びぎゅう〜……。
その様子に、元宮君の笑い声が大きくなる。
「嘘です。冗談ですよ。この部屋、確かにあんまり片付いてないけど、今まで出たことなかったんですから。……まぁ、俺的には、ラッキーだったけど」
「ん?……あ。あぁっ!こ、これは、あのっ!」
元宮君の言葉に顔を上げて、ようやく我に返った。
ななななな、何をやっているんだ、私!
ガバッと元宮君の背中から離れる。
「あらら、残念」
元宮君がつぶやく。
「ごめんっ!あのっ、あ、アレだけは、とても苦手で、つい……」
どうしてもダメなんだ、あの黒いのだけは。
でもでも、抱きつくなんて!思わずとはいえ、抱きつくなんて〜っ!
抱きしめた彼の、思いがけずたくましい感触が腕に残っていて、カァッと体中の血が顔に集まってくる気がする。
「先生、かわいすぎ……」
私の真っ赤になっているだろう顔を覗き込んだ元宮君が、笑いながらそう言った。
言われなれてない言葉に、さらに熱くなった……。