14)
「で?暁さん。意識してくれるのはとってもうれしいけど」
「な、なんだ?」
「……このびっみょうな距離、なに?」
朝の通勤列車の中、私達が乗るこの時間は比較的空いているため、いつものように座席に腰掛けた後、大きなため息と共にそう言って、幸紀君が近づいてきた。
どうも昨日の夜のことが頭から離れず、今朝からうまく幸紀君の顔を見られなくて、電車に乗った後も、つい一人分くらい空けて腰掛けてしまったのだ。
「いや、あの……なんというか……わっ!」
しっかりいつも通り隣に腰掛けた幸紀君からすい〜っと視線を逸らすと、いきなり幸紀君の手が伸びてきて、グイッと顔が引っ張り戻される。
あ、メガネの奥の目が、少し怒っている。
「あんまり避けられると、ここでキスしちゃうけど、いい?」
「は!?ばっ……ダメに決まっているだろう!?」
人が少ないとはいえ、他にも数人の乗客はいる。
思わず叫んで、浴びそうになった視線に顔が熱くなる。
人の気も知らないで、横からは笑い声が聞こえるし……。
「俺は別に気にしないけどね」
「…………」
……気にしてください。お願いだから。
「それより、暁さん。昨日のこと気にしてくれるのは、ほんとにうれしいんだけど、そんな態度じゃ皆に怪しまれるよ?」
だ、誰のせいだ、誰のっ!
「…………わかっている。ちゃんと、する」
努力はする。努力は……。
「なら、いいけどさ」
そう言って背もたれにもたれかかった幸紀君から、ふと、小さなため息が聞こえてきた。
「……どうした?」
「うん……。今日で最後かぁって思って。なんかあっという間だったなぁ……」
幸紀君が、少し淋しそうにつぶやく。
そうだ。今日で最後。
こうやって一緒に学校へ行くのも、幸紀君の授業をする姿を見るのも……。
「……今日の授業参観、楽しみにしているからな」
胸に迫ってくる淋しさをごまかすように、あえてニヤリと笑って言う。
「意地悪」
顔をしかめた幸紀君に、クスリと笑った。
これくらいの仕返し、いいじゃないか。
「頑張れ、元宮先生」
本当に楽しみにしているんだから。
「はい」
幸紀君が、しっかりとうなずいた。
結果。
幸紀君の授業参観での評判は、悪くなかった。
自分の担当実習生という欲目を抜いても、10点中8点というところだろう。緊張は見えたものの、何を言っているのかわからないということもなかったし、私としては、満足な授業だった。
「なかなか、いい授業でしたねぇ」
時間の許す限り実習生達の授業を見て回っている教頭が、準備室に戻ろうとしていた私の隣に並んで言った。
それじゃなくても細い目をさらに細めて笑う教頭に、こっちもつられて口元を緩める。
「はい。そう思います」
「担当教師が良かったのかな?」
「はは……個性的ですけど?」
おどけて言う教頭に言い返すと、彼が自分の広くなった額をペチッと叩く。
「おやおや……。これは、一本とられましたねぇ」
……やっぱり、私のことだったんですか。
休み時間に入って教室移動している生徒が、私達に挨拶をして通り過ぎていく。そんな彼らに教頭は一つ一つ笑顔で答えていった。
彼は生徒からも慕われているのだ。
生徒達が通り過ぎた後、再び教頭が、彼より少し背の高い私を見上げる。
「元宮先生は、どうやら本気で教師を目指しているようですね」
「はい!あ……そう、言っています」
幸紀君の意気込みが伝わっていたのがわかって、つい嬉しくなって大きな声になってしまった私に、教頭はニッコリと微笑んだ。
「どうやら先生も、実習生を育てることが楽しかったようですね?」
「はい。とても、勉強になりました」
幸紀君を指導してきて、自分が今までやってきたことは間違っていなかったと、そう感じた。
そして、まだまだ未熟だということも。
「そうですね。……自分が誇りを持っている仕事だからこそ、それを目指している若者を指導できることは、幸せなことだと、そう思いませんか?」
「はい」
「その上に、彼らを見ていると、初心に帰らせて貰える。教師っていいなと再認識させられる。だから、私は教育実習というのものが好きなんですよ」
ふんわりと優しく笑う教頭に、やっぱりこんな風になりたいな、と思う。
なんだか、胸の奥が暖かくなって、後で幸紀君にも教えてあげようと思った。
「あぁ、そうそう」
「?」
職員室と図書準備室への分かれ道で、会釈をして別れようとした私に、教頭が突然立ち止まった。
「私の妻は、実は、私が昔担当した教育実習生でしてね」
「え?そうなんですか!」
それは初耳だ。おしどり夫婦だとは聞いたことがあったけれども。
「ええ、今でも他校で教師をしていますよ」
教頭がそう言って、チラッと後ろを振り向く。その視線につられるように振り返ると、幸紀君が早足でこちらへ向ってきているところだった。
そして、教頭が再び私を見上げてニッコリと笑う。
「……なかなか、いいものですよ?」
…………。
…………はい?
「……えぇ!?ちょ、教頭!?」
どういう意味ですかっ!?
私の叫びむなしく、教頭はフフッと笑っただけで職員室へと去っていった。
「どうかしたんですか?顔、赤いですけど……?」
追いついてきた幸紀君に私はただ首を振った。
…………教頭、恐るべし。
その日の晩、教育実習の全ての行程を終えた実習生達と一緒に、学校近くの居酒屋を貸し切って、盛大な打ち上げが行われることになった。
打ち上げが始まる前、幸紀君に、
「俺がいるし、またあの状態になってもちゃんと我慢するから、飲んでもいいよ?」
などと小声で言われた。
……そんなことを言われて、本当に酔っ払ったら、私は大馬鹿者だと思うぞ?
チビチビと、正体を失わない程度にビールを飲んで、隣に座る幸紀君の窺うような視線を時々受けるのが気にならないでもなかったけれども(私の境界線を見極めようとしているらしい)、それでもごくごく一般的な打ち上げは盛り上がっていた……のだけど。
初めは、皆、自分の担当教師に酒を注いで、実習中の礼など言いつつ、和やかに談笑していた。
しかし、いつの間にやら、気づくと隣のテーブルだけに、異様に黒山の(スーツの集団だから特に)人だかりが出来上がっていた。
その中心にいるのは……麻由。
「各務先生、次、何飲まれます?」
「ん〜、じゃあ〜、ライチ」
「ライチお願いします!……やっぱり飲むものもかわいいっすよねぇ〜」
違うぞ?麻由が一番好きなのは梅干の入った焼酎だぞ?しかも親父のような飲み方するんだぞ?
「先生の趣味ってなんですか?」
「趣味って言うほどでもないけどぉ、映画見るのは好き」
「映画ですかっ!いいですね!こ、今度俺とっ……」
……我も我もと名乗りをあげている実習生達よ、君達に『どうしよっかなぁ〜』なんてかわいく笑っている彼女が見る映画は、ホラーだけだぞ?しかもかなりグロテスクなのがお好みだったりするんだぞ?
……う〜ん。知らぬが仏。
「どうかしたんですか?むずかしい顔して」
「ん?あぁ、ちょっと隣のテーブルがな……」
あまりにあわれで。実習生達が。
「あ〜、すごいですよね、あのテーブル……」
私の答えをどうとったのかは知らないけれど、幸紀君が隣のテーブルへチラッと視線を送って、恐れとも呆れとも取れるような声で言う。
それに対して、私の向かい側に腰掛けて春巻きをぱくついていた香田さんがうなずいた。
「まぁねぇ〜。みんな大学帰らないといけない奴ばっかだし、必死なんでしょ。……それにしても、なんっで気づかないかね?まったく相手にされてないじゃんね?」
体育会系の香田さんが、麻由に群がる実習生たちをバッサリと切る。
さすが同性、わかるらしい。
「え?そうか?なんか、瀬古とか余裕ぶっこいた顔してねぇ?」
麻由のところから追いやられてきていた井上君が、香田さんの隣で不思議そうな顔をする。
その言葉に隣のテーブルを見ると、例の校内ランキング1位と3位と5位がいる。まぁ、ここには2位と4位がいるけど……。
そういえばこのメンバー、麻由と阿部さんが入ればあの日の飲み会メンバーだな。
「なになに?何の話?」
噂をすれば、阿部さん登場……。
お酒を持って移動してきた阿部さんに、香田さんが話の流れを説明した。
「あぁ、それは井上くん、わかってないね!そんなこともわからない人には、各務先生は手に負えないよ、絶対。早めに振られて正解だね!」
「うっ……お前な……」
あ〜、阿部さん、容赦ないな……。井上君、痛そうだぞ?
「あたし、さっき通りがかりに各務先生の言うこと聞いてたけど、ケータイの番号聞かれた先生ね、『今日、持ってきてないの〜』って言ってた。さらに、『自分の番号、覚えられなくって……ごめんね?』って。わかる?この意味」
阿部さんが麻由の真似をして可愛らしく小首を傾げて謝ってみせる。
それを見て、思わず笑った。結構、似ている。
「わかる?って言われても……。そのまんまの意味……」
「なわけないでしょ!あ〜もう、これだから男はっ」
まったくわかっていない様子の井上君に阿部さんがビシッと言う。
「こら、ひとくくりにすんなよ、阿部。そこは、『これだから井上は』だろ?……各務先生、ケータイ持って来てましたよね?」
幸紀君まで井上君にひどいことを言って、私に同意を求めてくる。
「まぁね。ああ言っている手前、礼儀としてきちんと音は切ってあると思うけど。彼らは、どうやらまったく相手にされていないらしいな」
「ということよ、わかった?井上くん」
「うん。各務先生はやっぱり優しいなぁって……」
……あぁ、全然わかってないな。恋は盲目。
井上君がぽ〜っと男達に囲まれた麻由を見つめるのを見て、阿部さんがやれやれと首を振った。あきらめたらしい。
「まぁ、モテる女は大変だ、ということでいいんじゃない?」
今までひたすら食べることに熱中していた香田さんが何杯目になるかわからないビールを注文して、満足げにそう言った。
それを受けて、井上君が何かを思い出したように幸紀君へ向き直った。
「あぁ、そういえば、元宮も今日は大変だったって?」
「……何が?」
「まぁた、とぼけちゃって。あたしも聞いたよぉ?かなりプレゼント攻撃にあったんだって?元宮センセ」
井上君と阿部さんのニヤニヤ笑いに、幸紀君が苦笑いする。
「へぇ、じゃあもしかして、そのピンクの、えらくかわいらし〜いネクタイもプレゼントの一つ?」
そう言って香田さんが指差したのは、幸紀君が締めているネクタイで……。
それを見た瞬間、私は堪えきれずに噴き出してしまった。
「……せ〜ん〜せ〜?」
「あははっ…いや、だってっ……」
笑いを止められない私を、幸紀君がジトッと睨む。
幸紀君が今締めているピンクの小花柄ネクタイは、例の、うちのクラスからのプレゼントなのだ。このネクタイの他に、ピンクの花束と、ピンクのネコ耳を彼はもらっている。
そう、ピンクづくし。
まぁ、うちのクラスのことだから、普通のプレゼントなんて用意していないだろうとは思っていたけど……。なぜに、ネコ耳?
それにしても、他の男性ならそんなものをもらったら、似合わなくておかしいと思うのに、幸紀君の場合、あまりに似合いすぎて、おかしくて……。クラスの皆の前で、もらったネクタイを締めて、しぶしぶながらもネコ耳をつけた瞬間、クラス中が一瞬し〜んと静まり返ってしまった。
まぁ、その後『似合う』と『かわいい』の大合唱と大爆笑になったのだけれど。
いや、もう、あまりのかわいさに、鼻血ふきそうだったし。
……幸紀君、写真撮らせてくれないかなぁ?
幸紀君からその事情を聞いた3人も、そろって噴き出した。
「ネ、ネコ耳って……!」
「絶対似合う〜!あたしも見たかった!!」
井上君と阿部さんが、テーブルをバンバン叩きながら爆笑している。
「あ〜、おかし……!で?何?結局、元宮はそのプレゼントしかもらわなかったわけ?」
ひとしきり笑った後、ムッスリとビールをあおっている幸紀君に、香田さんが聞いた。
そういえば、あれだけ高校生達から呼び出されたりしていたけど、一度も何かを持って帰ってくることはなかったな……。
そう思って、横の幸紀君を見ると、なぜかばっちり目があってしまった。
「?」
そして、幸紀君が何を思ったかニヤッと笑う。
……嫌な予感が。
「まぁね。そういうの、受け取るわけにいかないし。それに……俺が欲しいプレゼントは、明日、もらえるかもしれないし?」
「!!」
はわぁっ!?
な、何を言い出すんだっ!突然!
「え?え?それって何?彼女とかから……」
「あ、あのっ!メニュー、そう、メニュー、どこかなっ!?」
興味津々で乗り出した阿部さんが聞き返そうとしたのを、思わずさえぎってしまう。
……ああっ、しまった!すっごく不自然だったか、今の!みんな、びっくりした顔でこっち見てるし!
「え、えぇと……」
「はい、どうぞ?」
ごまかすように何か言おうとした私にメニューを差し出したのは、にこやかな笑顔を浮かべた幸紀君だった。
……なんだか、その笑みが怖いのですが。もしかして、さっきの発言は、ネコ耳のことを大笑いした報復……?
「……ど、どうも」
おそるおそるメニューを受け取ろうとしたとき……。
「ああ、そうだ、先生。ついでに……俺の欲しいものも、一緒に頼んでもらえます?」
ニッコリと微笑んだ小悪魔に、私はメニュー表を取り落とした。
ごめんなさい、もう、笑いません……。