10)
目を輝かせて、祖父の机に頬擦りしそうな幸紀君を止めて、リビングへ移動した。
ゆったりとしたソファに腰掛けた彼に、アップルティーのカップを渡して、その隣に並んで座る。
「ありがと。それで、さっき暁さんが聞かせてくれた話は、おじいさんの話なんだよね?じゃあ、少女が生きてたっていうのは……?」
「あぁ、うん。祖父達の話というよりは、私の昔話のようになるけど……。いいかな?」
「もっちろん!っていうか、一石二鳥?俺、暁さんのこともっと知りたいし」
「…………」
ニコッと笑って即答した幸紀君に、いちいち火照ってしまう頬を、ごまかすようにアップルティーを口に含んだ。
ただ、横で小さく笑い声が聞こえたところをみると、全然ごまかせてなかったようだけど……。
「え、えぇと、どこから話そう……」
やっぱり、うちの事情からかな?
「うちは医者一家で、両親も、年の離れた2人の兄達も今は医者として働いているんだけれど……。だから、というか、小さい頃は、両親はあまり家にいなかったし、出来のいい兄達は、学校に塾にクラブにと忙しくて、私はいつも家にいた祖父に育てられたようなものだったんだ。祖父の話し方が移ってしまうくらい、私はいつも祖父と一緒だった」
思い出すと笑ってしまうけれど、私がこういう言葉使いをするようになっていることに気づいた両親と兄達が、少しでも女の子らしくしようとして、やたらとかわいいものに囲まれて暮らすようになったのだ。
……まぁ、その結果、言葉使いは直らないうえに、かわいいもの大好き人間になってしまったんだけれど。
「祖父は厳しい人だったけれど、とても優しい人で。よく絵本を買ってくれて、祖父が仕事をしている間、私はその後ろでその本を読んで過ごした。そして、いつも同じ時間が来ると、散歩へ行く。それが日課で、連れて行かれるところはいつも同じ場所だった」
幸紀君がピンときたようで顔を輝かせた。
「それって、もしかして?」
「うん。本で言うところの野花の丘。昔、祖父が彼女と出会った思い出の丘だった。‘月の光に咲く花’……‘月光花’と呼ばれているけれど、あの話を書いている間も書いた後も、ほぼ毎日、祖父はその丘へ決まった時間に出かけていたらしい。父が小さかった頃は父の手を引いて、父が大きくなってからは一人で、兄達や私が生まれてからは、私達を連れて……」
さすがに台風の時やひどい雪の日は出かけられなかったけれど、それ以外の日は毎日、私は祖父に手を引かれて散歩に出た。
「すごいだろう?‘月光花’の主人公みたいに、会えると信じて待っていたわけじゃない。だって、祖父は自分から彼女を送り出してしまっていたんだから……。でも、それでもいつか、彼女が自分の出した本を読んで、懐かしんでくれたら、それで、もしかして会いに来てくれたら……。そんな気持ちだったんだと思う。祖父が通ううちに、丘からは花が消えて、私が連れて行かれる頃には小さな公園になっていたけれど、それでも毎日祖父は通ったんだ」
「…………」
毎日連れて行ってもらう公園での祖父は、どこか遠い目をしていて、私が遊んでいる間もただ黙ってベンチに座っていた。
そう、あの日まで……。
「あれは、私が6歳になる頃だったと思う。祖父は、その頃既に60歳を迎えていて、それでも毎日の日課は欠かさずにいた。でも、あの日の公園は、いつもと違っていて……。祖父がいつも座るベンチに、きれいな着物を着た、かわいいおばあさんが座っていたんだ」
「その人が……?」
「うん。祖父の待ち人、艶子さんだった。何度も読んだらしい‘月光花’の本を手にして、艶子さんは『ごぶさたしています』と、涙を浮かべて祖父に頭を下げた。それに対して祖父は、『ああ』としか言わなかった。でも、それだけで十分だったんだと思う……」
‘月光花’の二人と違って、祖父達は生きて会えた。祖父が‘月光花’に託した願いは届いたのだから……。
隣に座る幸紀君から、ほぉ〜っというため息が聞こえた。
「すごい、純愛だよね……。すごいなぁ……」
幸紀君がすごいを連発する。
あの時、まだ小さかった私には、何が起きているのかわからなかった。
ただ、見上げた祖父の顔が、泣きそうに歪んでいて、驚いて……。
結局、いつもと違う祖父と、目の前で泣いているおばあさんの間で、私まで泣きだしてしまって、二人の感動の再会を、たった数分でぶち壊してしまったんだけれど。
大きくなって、二人の昔話を聞いた時に、どれだけあの日の自分を呪いたくなったか……。
……せっかく感動してくれている幸紀君には、話さないけれど。
ソファに沈み込んで、この、一人暮らしをするには贅沢すぎるほど広い部屋を見回した。
「元々、この部屋は、祖父が艶子さんと暮らすために買ったんだ」
「え!そうなんだ?」
今、私達が座るソファも目の前のテーブルも、祖父たちが使っていた時のままだ。
「うん。祖父に会いにきた時、艶子さんは、ご主人も亡くされていたし、お子さんも独立して家を出た後で、一人暮らしをしていたんだ。それなら残りの余生を二人で暮らそうと、祖父はあっさりここを買った。家を買うよりもマンションの方が気軽だし、ここからは野花の丘だった公園も、小さく見えるから……」
「え!本当?」
立ち上がった幸紀君を、苦笑して止める。
今はもう夜で、外の景色なんて見えないのに。
「明日、教えてあげるから。……祖父も艶子さんもよく二人で眺めていたっけ」
「暁さんもよくここへ来てた?」
「もう、しょっちゅう。家に帰っても誰もいないけど、ここへ来れば二人がいたから……。書斎へ行けば、読む本には困らなかったし、艶子さんには料理を教えてもらえたし。何よりも幸せそうな二人を見るのが、大好きだったから……。私が中学2年の時、艶子さんが亡くなって、その後を追うように翌年に祖父が亡くなるまで、私にとっては実家よりもここの方が、居心地が良かったし、思い出もたくさんあるよ……」
両親は、祖父がここを買った時、『愛人を囲うような真似』なんて言って、いい顔しなかったけれど、それは違う。
“愛人”じゃない。二人は、“恋人”だった。
「懐かしいな……」
本当に、このマンションを譲り受けることができてよかったと思う。
ここに、あまり人を入れたくないのは、私にとって、今でもここは、祖父と艶子さんのもの、という気持ちがあるからだ。
今でも、書斎に入れば祖父が机に向かう姿が目に浮かぶし、キッチンで料理をすれば、艶子さんの優しい笑顔がちらつく。
窓辺から小さく見える公園を眺めれば、二人が微笑みあう姿を思い出す。
数々のシーンが残像のように浮かぶたび、背中を押されているような気持ちになって、また頑張ろうと思える。
幸せを、感じる……。
「……暁さん……」
「……ん?あぁ、ごめん。ちょっと昔に飛んでいたらしい」
ぼぉっと二人のことを考えていたら、いつのまにか幸紀君に顔を覗き込まれていた。
「…………」
「なに?」
人の顔をジィッと見つめて黙っている幸紀君の頬が、なぜか赤い。
なんだ……?
「幸紀く……」
「あぁぁぁ……どうしよう!すっごい抱きしめたいんだけどっ!」
「……は!?」
はいっ!?
突然私から離れた幸紀君が、両手をグッパ、グッパと閉じたり開いたりしている。
「ゆ、幸紀君!?」
な、なんなんだ、突然!?
「だって暁さん、すっごくきれいな顔してたんだ、今!……ね?抱きしめたら、ダメ?」
「えぇっ!?」
きれいな顔??
一体どういうことかわからないんだけれど……!?
幸紀君の顔が再びグッと近づいて、慌てて体を引く。
「ぎゅう〜って、ダメ?ダメ?」
さらに上目遣いで言われて、その愛くるしさにクラッとめまいを感じる。
わぁ〜っ、だから、その子犬の顔はダメなんだって〜……!
「ね、ダメ?」
「わ、わかった、わかったから……」
あ、しまっ……!
「暁さん!」
「うわぁっ!」
勢いよく飛びついてきた幸紀君の体重を受け止めきれずに、そのままソファに倒れこむ。
…………あぁ〜っ、これ、違うから!抱きしめるじゃなくて、押し倒してるからっ!
「ゆ、ゆ……」
どどどどうしよう!?
え!?まさかっ、こ、このままっ!?
……襲わないって、襲わないって誓ったじゃないかぁ〜!!
「…………」
「…………」
しかし、この後の展開に内心焦りまくる私をよそに、なぜか、幸紀君は人の上に乗っかったまま、本当に抱きしめた(抱きついた?)だけで、動く気配がなく……。
…………あれ?
「……暁さん」
「は、はい?」
幸紀君が少し体を離して、息がかかるくらいの至近距離で見つめてくる。
え?何!?時間差攻撃かっ!?
思わず身構えて体が固まってしまう。
……しかし。
「……明日の小テスト、まだ作ってないって言ってなかったっけ?」
………………………………。
……………………………はい?
小テスト?
小テスト……小テス……って。
「……あぁっ!!今、何時!?」
ガバッと起き上がった私の上から、サッと幸紀君が横へどいた。
真後ろにあった壁掛け時計を振り返って見上げて、サァッと血の気が引いていく。
「い、1時……」
そういえばまだ風呂にも入っていない……。
うちの学校では、帰りのHRに小テストを行う。それは英単語であり、漢字であり……。
そして、その小テストの作成が順番で回ってくるのだけど、明日は私の担当で……。
あぁぁ〜……これから風呂に入って、それから苦手なパソコンと格闘するとなると徹夜決定じゃないか……。
あっ!
「じゃあ、俺はお風呂の準備を……」
ガシッ!
逃げるように立ち上がった幸紀君の腕をしっかりと捕まえて、下から見上げる。
……できるだけ好意的に見えるように、笑みを浮かべて。
「う」
「幸紀君メインで小テスト作ろうか。これも勉強だし、うん。……手伝うから、な?」
「あ、卑怯〜!勉強とか言われたら断れないし……!俺も、指導案の仕上げがあるのにっ……」
「よし。そっちもみっちり手伝うから!……幸紀君、パソコンうまいし。頼む。協力しよう?」
顔の前で手を合わせて幸紀君を拝む。
完徹なんて無理。幸紀君に手伝ってもらえれば、きっと2時間くらいは眠れるはず……。
しばらくその状態でいると、幸紀君の長いため息が聞こえてきた。
「こんなに遅くなったのも、俺のせいだもんね……」