9)
再び幸紀君の運転でマンションへ帰ってきた私達は、それほど多くない彼の荷物を、2往復ほどで部屋へ運び入れた。
「使わない家電や食器類は、とりあえずこの部屋へ入れておけばいいから」
そう言って、普段使っていない部屋を開けて灯りをつけると、隣から『わぁ〜』という歓声が聞こえてきた。
振り返ると、幸紀君が目を輝かせて部屋の中を見つめている。
「すごい……!この部屋って暁さんの書斎?」
部屋に足を踏み入れた彼が、左右両壁に作りつけられた書棚に埋まった本達を見上げて聞く。
書棚の奥にある古びた木製の机を見て、そう思ったらしいけど……。
「違うよ。今は使ってない。私の祖父の書斎だったんだ。ここは元々祖父から譲り受けたマンションだから」
「へぇ、おじいさんの……。それにしてもすごい数の本だね。いいなぁ……」
衣類と本があればいいと言っていただけあって、幸紀君はかなり本好きらしい。ヨダレを垂らしかねない勢いで書棚を上から下まで眺めている姿に、思わず笑いがもれてしまう。
「読みたかったら勝手に読んでいいぞ」
「え!?ほんとに!?」
「うん」
すごくうれしそうに振り返った幸紀君にうなずくと、彼は文字通り飛び上がって喜んだ。
「どれにしよう…………ん?あぁっ!すごいっ!竹波才造が全作揃ってる!」
「!」
たくさんある本の中から出てきたその名前に、少し驚く。
「幸紀君は、竹波才造が好きなのか?」
「うん、そう!さすがに手に入りにくい物もあって全部は読んでないけど、見つけたら買うようにしてるんだ。今日持ってきた本もほとんどがこの人の本だし。もう、すっごく好きで……特に、これ!」
幸紀君が書棚から一冊を抜き出す。
あぁ、それは……。
「「月の光に咲く花」」
私と幸紀君の声がだぶって、顔を見合わせて笑う。
私は、幸紀君に近づいてその本を受け取った。そしてペラペラと何気なくページをたぐる。
「代表作だな。私も、これが一番好きだ」
白い野花の咲き乱れる丘で出会い、恋に落ちた優しい青年と美しい少女の、悲しい恋物語だ。
運命に導かれるように出会った二人。徐々に育まれていく恋心……。
しかし、名家の令嬢である少女には許婚がいて、何の肩書きも持たない貧しい青年との恋は、誰からも認めてもらえなかった。
そして、二人はついに駆け落ちを決意する、のだけれど……。
「約束の日に、少女は来なかったんだよな。でも、青年は、裏切られたなんて一つも思わずに、ただひたすらに彼女を待ち続けて……。元々体の弱かった彼は、その丘で命を落としてしまう」
結局、少女は少女で、駆け落ちがばれて追いかけられている途中で、誤って川に落ちてしまっていた、という……。
「そうそう。すっごく切なくて痛いんだけど……。最後に、青年が少女の姿を見るっていうシーンがあるでしょ?」
幸紀君にうなずく。
真っ白な花が月明かりに照らされる中、それに囲まれて横たわる青年の元に、まるで野花の妖精のように美しく輝く少女が現れるのだ。
幻なのか、それとも少女が迎えに来たのか……。ただ、青年は幸せそうに微笑んで、目を閉じる……。
「あのシーンが、すごくきれいだなぁって思うんだ。評価でも言われてるみたいに、ストーリーは、確かにありがちな話かもしれない。でも、竹波才造の魅力はそこじゃないんだ。彼の書く世界は鮮やかで、繊細で、優しい色に満ちてる。読んでて、その情景が、まるで映像のようにきれいに浮かんできて、その浮かんできた情景に泣けてしまう……。そんな経験をさせてもらったのは、俺にはこの人しかいない」
幸紀君が目を輝かせて、興奮気味に語るのを聞いて、私は本の最後に載った写真をそっと触ってから、パタンとその本を閉じた。
今、私の顔はきっと笑っている。
……うれしすぎて。
「竹波才造ファンの幸紀君に、ひとつ、いい話を教えてあげよう」
「え?なに?」
「実は……この話に出てくる少女は生きていたんだ」
私の言葉に、幸紀君が眉根を寄せて首を傾げる。
私はそのかわいい顔に思わずクスリと笑ってしまってから、古びた机をそっと撫でた。
「この話はね、本当にあった話のアレンジなんだ。実際の青年は、妻に先立たれて子供を一人抱えた30男だったし、少女も結婚を控えた24歳の美しい女性だった。あと、2人が出会ったのはベンチがぽつんと一つだけある小さな丘で、その当時は本当に白い野花が咲いていたらしい」
「え……?」
幸紀君が驚いてポカンと口を開けて、満面に笑みを浮かべているだろう私を見つめている。
「細々と小説を書きながら工場に勤めて子供を育てていた男は、よくその丘へ子供と出かけていて、そこでよく出会う若い女性と仲良くなったんだ。二人は、そのベンチに腰掛けて話をするうちに、次第に惹かれあっていったものの、良家の子女である彼女には許婚がいて、その相手との結婚が間近に迫っていた。この辺は、小説に似ているな」
「…………」
「でも、金もない上にこぶつきの男には、小説のように駆け落ちなんて思い切ったことはできなかった。結局、彼女の結婚を止めることもせずに、自分の気持ちを隠して祝福するしかなくて。そして、彼女はよく晴れた大安の日、許婚のもとへ嫁いでいった……」
彼女も男が好きだったのに、それを告げずに、だ。
「ち、ちょっ……暁さん!?それ、その話……?」
「男は彼女の白無垢姿を、ひっそりと見送りながら、自分の気持ちを小説にすることを決めた。それでできたのが‘月の光に咲く花’……」
「暁さんってば!」
少し強い口調で呼ばれて、我に返る。
「それ、一体どういう……?なんで暁さんがそんな話を……」
「あぁ、ごめんごめん。幸紀君が言ってくれたことがあまりにうれしくて、ちょっと語ってしまった」
「うれしくて……??」
首を傾げた幸紀君に、古びた机をコンコンッと叩く。
「筑茂才蔵、それが竹波才造の本名なんだ」
そして、筑茂才蔵は、私の祖父だった。
少し間が空いてしまいました。すみません。
できるだけ早く更新できるように頑張ります。