奈落 ーto fall into the bottomless pitー 2
操り糸の切れた人形のように、力の抜けた身体を再びその場に座らせることは出来なかった。
仕方がないので、死体から少し離れた場所に、子供をゆっくりと持ち上げた。
…ひたすらに軽い。
左腕を背中に、右腕を膝裏に滑り込ませて、横抱きで持ち上げている。
子供は全身の力が抜けていて、右腕は腹の上に、あごが上に向き、左腕と頭が下に垂れ下がった状態になった。
子供の息が頭の重さで辛そうな吐息が聞こえた。仕方なく腕で頭を支えるように左腕を広くしてやる。
横抱きは俗称ではお姫様抱っこ、と言うが、そんな綺麗なものでもない。
こんな場所でそんな考えが浮かぶはずもなく、感情すら浮かばずに、淡々と運んだ。
ボサボサの髪に薄汚れたボロの服、風呂に入っていない独特の臭いがしたが、腐敗臭よりはマシだった。
壊した壁の近く、光の差し込む辺りで入ってくる雨に濡れないように、寝かせてから死体の方へと歩いて行く。
近づけば近づくほど臭いがキツくなる。
それでも近づくのは何故かといえば、使えそうなものがないか見るためだ。
髪は抜け落ちて頭蓋骨と残った地肌が見える。
両手で服を剥がそうとした時に、死体の胸辺りに膨らみがあるのに気づいた。
元の大きさなんて死体にはもう関係がないと思ったが、それでも服を剥がすのは止めた。
右から左へと上半身を動かして死体の裏側を覗いてみる。死体の右足に足枷が付いているのに気づいて、これだと思った。
本来、生きていたら意味がある足枷も、繋ぎ止めるところがなくなれば意味をなさない。
足首に固定されていた金具を強引に取ろうとした時に、木を折る様な音がした。
「悪く思わないでくれ、呪うならここに閉じ込めた奴らにしてくれよ」
生易しい音ならどれだけ良かったかと思いながら、乾燥しきっていない骨の折れる音は、ゴムのようにしなった弾力と相まってとても不快な音が耳の奥へと響いていく。
聞きたくなくても、両手で死体の右足から金具を外しているせいで、耳を塞ぐことも出来ずに、嫌でも聞かざる負えなかった。
「うぅ…はぁはぁ、げっほ…げほげほ、うげぇ」
何とか足枷を外して、金具の先にある鉄球を両手で持ち上げた。
鉄球の大きさはバレーボールほどで、重さは二十キロぐらいだろうか?子供よりも重いと感じた。
腐った肉を両手で掴んだ手のひらは、ぬるっとした不快な感触に加えて、滑りやすくなった鉄球を落とさな
いよう、慎重に両手で壁に持って行く。
「くっそ、なんで、なんで俺がこんな目にッ!」
壁を壊すために近くまで持っていくと一度、下に置いてから運ぶまでに持ちにくいと感じた手の平を見てみる。
ドス黒く変色した柔らかい何かが、手の平にこびり付いていた。
「ウッ…」
腐った皮なのか肉なのか分からない。それを目の前の壁に、手の平を何度も繰り返し擦り付けるが、それでも取りきれず、仕方なく着ていたボロ服の腰の辺りで拭った。
取れたかどうかを確認するために、カメムシを不注意で触ってしまった時の様に、手のひらの臭いを嗅いで、確かめるような気は起きなかった。
「東西南北…どっちがどっちか分からないな。壁の反対側は…」
持ってきた足枷で壁を壊す前に、壁伝いに内部構造を確認する。
壁側に立っている位置が仮に北とするなら、南に薄暗い中を慎重に歩いていくとドアが見えた。鉄で作られたドアには鍵がかかっているのか、ドアノブを捻って押したり引いたりしても開くことは無かった。
「は、はは…だよな」
もちろんそれで開くなら苦労はしないだろう。
それでもなんだか無性に悲しかった。悲しすぎて笑いが出た。
半泣きで霞む目をボロ服の袖で拭い、耳を鉄のドアに密着させて向こう側の様子を聞いてみる。だれか居れば、壁を壊す音で見つかると思ったからだ。
だがすぐに、それは意味が無いと分かった。
「雨音?こっちも外なのか?」
鉄のドアにも雨が当たる音が聞こえた。そもそも鉄のドアに雨音が当たる構造に錆びたらどうするのかと、意味がわからなかったが、ドアの向こうも外なら好都合だと思い。
「それなら、なんとかなるか?」
すぐに壊した壁に向かっていく。
いざ脱出しようと決めた時に、壁の前で額に大量の汗が流れてきた。
見つかったらどするとか、一瞬、頭をよぎった。
「いや、そんなこと考えてる暇はないな」
落とさないように慎重に鉄球を持ち上げて、鉄球で壁との間に手を挟まないように地面から目測で計算した、脱出しやすそうな、腰の高さ辺りに、鉄球を強く壁に打ち付けた。
ドスンッと鈍い音が思ったよりも大きく響いてしまった。
「ッ!ヤバイか…?」
額から流れた汗が顎まで流れてそこから一滴、二滴と落ちていく。
気づくと息も脈の鼓動も聞こえるぐらいに集中していた。
荒くなった息を押さえて、壁を打ち付けた大きな音を誰かに気づかれていないかと、外の様子を確かめる。
「……いけそうだな」
一度、二度、三度―――。
何度も叩いては外を確認する。
壁も外側へとめくれ出し、あと数回ほど叩けばいけると思った矢先に、鉄球が急に軽くなった。
「しまっ!」
慎重に壁に打ち付けていたつもりが、極度の緊張で疲労を考えていなかった。
疲労から握力がなくなっていた。打った勢いそのままに、壊れた壁の一部と、鉄球が外に飛んでいく。
瞬時にやってしまったと思った。
軽くパニックになり、壊れていない壁に張り付いて目を閉じる。
神に祈るように、どうか…どうか、だれも気づかないでくれと、激しく鼓動する心臓を押さえるように右手で胸を押した。
押さえるために開いていた右手をボロの服を掴みながら拳を作る。
「くそ、頼む、頼む、頼む!気づかないでくれ…!!」
数分、数十分、数時間。
目をゆっくりと開けた。
外からの月明かりで部屋が照らされている。
実際には数十秒しか経っていないのに、途方にもなく長く感じた。
壁をゆっくりと恐る恐る見る。
人ひとり通れそうな穴がそこにはあいていた。