奈落 ーto fall into the bottomless pitー 1
むせ返るような腐敗臭で目が覚めた。あまりの腐臭に吐きそうになり咳き込んだ。
暗闇で何も見えない。
匂いを嗅がないように口で息をしても腐敗臭独特の酸味がいくら拒否しても脳へと信号を発する。
人が絶対に慣れない類の匂いは、この世界と自身の状況に似ていて反吐が出る。
体を動かすと痛みが走った。
兵士に槍で殴られた場所を痛みで反射的に見ようとした時に感触で気づいた。家から出た時に着ていた服ではなく、代わりに布一枚で作られたボロの服に変わっていた。ついでに言えば下着すら無かった。
ふざけやがってと悪態を付いたところで状況は変わらない。
口の中の苦々しい酸味は広がるばかりで、口をすすごうにも暗闇で目と鼻の先は何も見えない。
かろうじて見えるのは顔まで近づけた手までで、それでもぼやけて浮かび上がる感じだった。
見えない周囲を見渡す…どこか建物の中に居る気がする、憤る気持ちを落ち着かせ、耳を済ませると雨音が近くの壁や屋根を叩いている音が聞こえてくる。
とにかく、光になりそうなものを探して、手探りで這うように移動した。
少し進むと壁にぶつかる。暗く何も見えない手元の感触を頼りに進んでいたせいで頭をそのまま壁にぶつけた。痛みで苛立たしさが更に増した。腹立たしさから壁を拳で殴ると薄いものを叩いた時に出るドンッと大きな音を出した。
材質は石ではなく木で出来ていたらしく、それほど強く殴っていないのに数センチの穴があいた。薄っすらと外の光の筋が手元を照らす。雨音と水滴が開いた穴から流れ込んでくる。
中から外を覗き込むように見ると、地面がすぐ下に見えた。雨とは言え、月が出ているのか薄っすらと濡れた地面を照らしていた。
この壁を壊せば逃げられそうだと思った。
今いる場所がどんな場所かもわからない。ただ、こんな臭いところからはすぐにでも逃げ出したいと思う。
素手で壁を壊すのは無謀だ。何か道具は無いのかと開いた穴から差し込む光で見える範囲を探す。
見つけた。
ただそれは、目当ての道具ではなく、人だった。しかも二人いる。
どっちが北でどっちが南かも分からない室内で俺だけだと思っていた。
人がいるという気配は全くしなかった。それなのにそれはそこに居た。
立ち上がってもう一度だけ、今度は高い位置で壁を叩く、光を取り込むために。
右手で壁を叩いて壊す時に感じるその痛みよりも、今は確認するほうが良いと思った。
薄っすらと見える人影の片方は、既に人ではなかった。もう片方は大きさから子供だと判断した。
部屋に充満する死臭の主は、人でなくなった人の形をしたもので、目のあたりは空洞で手や顎は朽ち落ちていた。
本来の精神だったら見ただけで吐いていただろう。
それでも冷静に見られるのは、すでに狂気にも似た感情が俺を支配しているかと思った。
隣の子供は目はどこか遠くを見ていて、光が入ったのにそれを見ようとはしない。
両肩が上下に微かに動いているのを見て、まだ生きてると判断した。
「おい、聞こえるか?」
問いかけに子供は反応しなかった。近づいて見てみる。
子供は布を着ているというより巻いているだけの服とも言えない格好だった。
朽ちた死体の横で寄り添うように座っている子供には生気がなく、素人目にも死にかけだと分かった。
ボロボロの布を身体に巻いているだけの布から、はみ出すように出ていた左腕に右手で触れてみる。
感触は骨と皮しか無いとしか言いようがなく、肌は乾燥しきっていてカサカサとしていた。
ヒューヒューと喘鳴混じりの呼吸が長くない命を証明している。
左腕から右手を離して、うつむき加減の顔を右手で額を押して上げさせると、口から涎が滴り落ちた。
生きることを否定しているのか、それとも生きたくても生きられないのか察することの出来ない目を見る。
目があうことはなく、額から手を離すと壁に寄りかかっていたバランスが崩れたのか左の死体とは反対側の右に倒れかけた。
瞬時に右手で支えると重さらしい重さを少しも感じられなかった。