飛んで雨に入る哀のムシ
なぜだろうか。
虫よりもゲテモノよりも、何と比べても比にならないほどキライだった雨。
その雨が傘に打ち付けられる音が、今日は妙に落ち着く。
スーパーで安く買った紫色の傘だけを持ち立ち尽くす私を、すれ違いざまに見る人たちの目は、少なくとも優しくはない。
「可哀想に──」
「心配だ──」
そんな表情を浮かべていても、目だけを見れば、嘲られているように見え、あるいは邪魔なムシを追い払う時の目をしている人もいる。
そうだ、私はムシなんだ。ムシ同然なんだ。
だが今日の私は、それくらいがちょうどいい。このまま雨に打たれて、溶け込んでしまうくらいが心地いい。いや、今日に限らず、そうして生きていくのが、このご時世を快適に暮らしていく最善の術なのかもしれない。
そんな、今までの私なら考えつきもしないようなことを、あの男に、あんなセリフを投げつけられてから悟った──。
星占いは11位。『人付き合いがうまくいかない日。初対面の人とは会わない方がいいかも』、らしい。
今では普通に見ているが、数年前は星占いなんて信じて見ていなかった。仮にその占いが当たっているとするなら、日ごとによって人類の行動は12パターンに分けられてしまう。そんなことがあってたまるか、と、標的も無しにムキになっていた。
──彼の家に泊まったことがあった。思いの外綺麗な部屋だったことが、彼を更に好きになった要因である。
朝の情報番組が終わりを迎える頃にある星占いが始まった途端、彼の目は輝いた。
「星占い好きなの?」
朝食のベーコンエッグが載っていた皿を片付けながらそれを見ていた私は、反射的に訊いた。
「ああ。これ見なきゃ、一日はじまらねぇよ……あー、3位かー」
楽しそうだった。その様を見て、何だか自分が損をしているような気持ちがした。この人がここまで楽しめる星占いを、なぜ私は小馬鹿にして見もしなかったんだ、と──。
そんなことがあってから、半信半疑な気持ちで、せめて彼と話を合わせるために、と星占いを見ている。
星占いが終わり、次の番組に切り替わる。それと同時に、私の朝食タイムも終わる。
今日はバイトのシフトもない。講義もない。確か彼もそのはずだ。支度が済んだら、買い物に付き合ってもらえるか訊いてみよう。
そう思っていたら、彼の方から連絡があった。『OXモールに来て』と端的に書かれてあった。
以心伝心というか、神秘的な何かを感じ、余計に嬉しくなった私は、嫌な予感など全くないまま、軽い足取りで向かった──。
OXモールは、繁華街から少し離れたこの街を代表する、大型ショッピングモールである。雨雲が出ていたからなのか、いつもに比べて人が少なかった。
そんなことは気にせず、ルンルン気分の私は、
『到着したよ』
というメッセージを、ハートを添えて送った。
いつもなら、
『どこ?迎えに行く』
ってメッセージがすぐに届く。
だが今日は、
『いつものコーヒー屋に来て』
と、向こうが場所を指定して来た。
鈍感な私はようやく異変に気付いた。
そして、その結末を予想してしまった。
だが彼に限ってそんなことはない、と勝手に解釈を書き換え、素直に向かった。
2分ほどでたどり着いたその店で、彼は無表情のままスマホをいじっていた。指の動きからして、彼の好きなゲームでもしていたんだろう。
私は彼が座っている座席まで一目散に向かい、
「やっほ」
と上機嫌に挨拶した。だが彼は、私を一瞥したあと、無言のままケータイの世界に戻った。
『なぜ何も言ってくれないのだ』という怒りと『何か悪いことしたかな』という不安と
『今日は機嫌が悪いだけなんだわ』という根拠の無い確信が混在していた。
混ざることのない水と油と別の何かのように。
注文しておいたカフェオレを一口飲んだ時、それまで何一つ喋らなかった彼が、不意に口を開いた。
「別れよう」
と。
コーヒーとミルクが混ざり合ったカフェオレのように、私の感情も統一された。驚きという感情に集約された。だがそれと同時に、そのセリフを認めまいとする私が現れる。
「なんで……!?なんで別れなきゃ……」
「察しろよ」
いつにも増して強い語気で、私の言葉を遮る彼。
「出来たんだよ、別に」
この時ほど、いま目の前で起こっていることが嘘であってほしいと思ったことはなかった。
唖然とする私など気にせず、彼は締めくくりに入る。
「楽しかったよ、今まで。じゃあそういうことだ。金は払っとくから」
言って、当たり前のように立ち上がった彼。
「待って!」
その彼の腕を、短い私の腕が必死で掴んだ。
「なんで私じゃダメなの!?私のこと好きだって言ってくれてたじゃん!私以外に好きになったその人と、何が……」
「お前……バカだな」
その目に、私は恐怖した。蔑まれていることへの恐怖。自身が否定されていることへの恐怖。そのことに対する恐怖。恐怖が連鎖する。
「まあいいや、バカなお前の為だ。言っといてやるよ」
立ったまま、彼は三本の指を立てて言った。
「かまってちゃんがウザかったこと。買い物がちんたら遅ぇこと。んで、お前なんか最初から好きじゃなかったこと。これが理由だ。覚えとけ」
他に客も店員もいなかったことをいいことに、それ以上ないくらい蔑む言い様だった。
後になれば、いくらでも反論出来るようなくだらない理由だが、未だにことを飲み込めていなかった私にはそんな気力もなく、へなへなと力を失い、彼の腕を放してしまった。気がついた時には、彼の姿は店の外にもなかった。
そして今、私は、ジャマなガイチュウの如く、歩道の真ん中で立ち尽くしている。
ここからたった十分歩いて家に帰るのも、三千里歩こうとしているみたいな気分だ。
他に何かを考えることもできない。立ち寄る場所もない。このままいっそ──。
「邪魔なんだよ!」
彼のような声が聞こえた。
しかしそれは、全くの別人が私に向かって浴びせた至極真っ当なの、ただの罵声であった。
その声の主は、言葉だけでなく行動でもその意思を表明してきた。
私にぶつかる、という方法で。
その拍子に、腕にかけていたバッグが、雨で濡れた地面に打ち付けられた。彼に買ってもらった、ラメ入りのブランド物である。
私はそれを拾わんとしてしゃがみながら、自分でも何を言ったか判らないくらいの小さな声で謝罪の意を見せた。
主は、バッグから飛び出た中身に一切見向きもしなかった。
他に人もいたが、降りしきる雨のように、皆、冷たかった。
仕方なく、私はそれらを拾った。ネコのキーホルダー、赤の目立つ財布、化粧具を入れたポーチ──。
「あっ……」
声が漏れた。
その時、私が手に取ろうとしていたのは、親指ほどの大きさの、鍵である。
その瞬間、私の思考は自立し、先刻何もできなかったのを挽回するように、必死に動いた。そして、一つの結論に至った。さっきの罵声男がまだ何か言っていたが、全く気にならなかった──。
もうそろそろだろうか。
支度もできた。あとは待つだけだ。
ガチャリ。
声が、二つ。
あの人と、“もうひとり”。
さあ、美味しい手料理を、
ふるってあげなきゃ──。