第1話 目覚め良い夢、悪い夢 三
「……すみませんでした。深く反省致します。僕が悪うございます。悪い序でにもう一つ質問があります千早様。志賀の現当主、志賀太一郎とは……どう言った御関係にあって、何故に、その、怨みを買って、居られるのでしょうか?」
モサモサの前髪の間から盗み見る様に千早の方を伺う。
普段なら屋敷の事を一つ質問するだけでもヨシ、と言われなければ出来ない。そう躾られてきたので、二度もそれを破っては千早の機嫌が損なわれるだろう。ただ、正直な所、僕はまだ納得出来ていないし少し腹が立っている事もあって今はほんのちょっとだけ反抗的なのだ。
ーー、一体何の怨みがあったら主人の咎で執事の自分がさっと首チョンパされる羽目になると言うのだ。憤懣やる方なさ過ぎる。
かと言ってあまり調子こいて触れてはならない話に触れてしまうと、漸く止んだ折檻が再開しないとも限らない。僕としては千早との触れ合いは吝かではないのだが、如何せん屋敷にただ一人の執事としては仕事が出来なくなってしまうと大変なのでこの辺が限界。だから体を小さく丸めて嵐が来はしないかと怯えている。
そんな僕に千早はこれと言った感情は見えない瞳を此方に向けると躊躇いもなく口にする。淡々と、軽やかで透き通った声で、
「私はあの男にとっては仇ね。昔、あの男と懇ろだった女を一人、目の前で殺したわ。それだけよ。だから息子から招待が来た時は何の冗談かと思ったけれど、逃げるのは私の性に合わないから乗ってあげたのよ。程度の低い相手だもの、心配する事もないし、ちょっと遊んであげようと思って」
ーーーー。それは、ちょっと聞きたくなかった。幾ら何でも買うには大きくて高すぎる怨みじゃないだろうか。そして何でまたそれを誤魔化しもせずに臆面なく言ってしまうのだろうか、「それだけよ」などと。
言い切って僕を見る眼は僕を試しているだとか、反応を伺っているだとかではなく、例えば殺人鬼が何の感慨も無い侭に犯した数々の罪の内の一つを開陳した時のそれだった。それは人間性が感じられないものだ。
僕は腹の底から冷えた恐怖が湧くのを自覚して、酷く後悔する。折檻された方がマシだったかも知れない。二の句も継げないとはこの事だ。瞬間の沈黙が流れる。
「あら、何を怖気付いているのかしらね、質問したのは武臣よ」
「……ちょっと予想の斜め上を音速飛行して行きましたので。と言うかそれならいよいよ、僕を連れて行ったのは……」
「遊ぶには玩具が必要じゃないの。まあ、詰まらない上に後始末が面倒だったのだけれど」
ですよねぇ。
千早は溜息を喉の奥に押し込んで黙る僕の前につかつかと歩いてきて、膝で僕の顎を押し上げて、色の無い眼と少し吊り上げた口角で面妖な表情を作って話し掛ける。咄嗟に冗談めかした笑顔を返しても、僕の唇は少し震えている。
「貴方は初仕事で全く無様に負けを喫した訳だけれど、そんな事は心の広い私にとっては如何って事ないのよ。許してあげるわ。
玩具の癖に興味本位で遊びの内容まで聞いてくる図々しさとか厚かましさとかも、まあ許してあげるわ。勝手気儘な生き物だもの、不躾者に躾は必要だけれど後々ね。
でも、そうやって怖気付いて今にも漏らしそうな位怯えてる癖に、一丁前に私に噛みつきそうな位に不服の目を向けるっていうのは、気に入らないわ。如何言う神経しているのかしら?何様のつもり?」
如何やら僕は思ったよりも顔に出易いらしい。確かに僕の胸中は怖気と嫌悪と不満ではち切れそうだ。千早の見せた一面に心底恐怖しながら、同時に怒りとも憎しみとも取れる苛立ちが同居している。つまり僕は遣る瀬無いのだ。
千早の瞳が物語る様に、彼女の生業の世界というのは余りにも僕が見てきた、過ごしてきた物とは違っているようだ。無情で冷徹で、余りにも心が無さ過ぎる。
僕は自分の感情が何の価値もない事に怒っている。目の前で思い人を殺されたという志賀太一郎の怒りが、千早にとっては単に暇潰しの興でしかない事を嫌悪している。憐れんでいる。
腹の中でぐるぐると渦巻く物を堰き止める事に腐心していると、終に釈明の言葉は出て来なかった。
「だんまりかしら……」
千早はまあいいわ、と呟くとヒールの爪先で僕の心臓の上の胸骨を軽く撫で上げ、絡んだ視線を切って、もと入ってきた扉へと歩く。
扉の前で止まると、今日最後の通告が発せられる。
「武臣、今回の仕事に貴方を使うのは私が自分で判断した事よ。だから従った貴方に及ぶ結果は私の責任。
でもね、今此処での話は貴方が興味本位に質問した事で、貴方の責任なのよ。聞いてしまった以上は私の言葉の事実を全て受け容れなければならないのよ。
つまり、私の本当の仕事がそう言うものだという事も、そして明かされた今、貴方は是非もなくこの仕事の共犯として私が求める限り、つまりは一生、この屋敷の中でも外でも、私の奴隷として命の擦り切れるまで使い潰されるという事もね。覚悟なさい」
千早は言い切って颯爽と部屋を出る。廊下に響く硬く冷たいヒールの音が遠退いて行く。
「千早様…………」
行くなら縄を解いてからでお願いしたかったかな。
ーーーーーーーーーー
1,6
状況を整理するとこうだ。
一ヶ月程前から長月千早の執事に従事している僕は、犬同然の扱いを受け乍ら、躾と称したいびりや嫌がらせとも思える無理な要求に応え続けた結果、何故か千早のお眼鏡に敵うと判定された様で、晴れて奴隷として本採用されました。ぱちぱち。
今後は屋敷の執事の他、彼女が普段社会的に表の顔としている長月の財閥の営みとは別の彼女自身の本業にも手伝いとして励めと仰せつかりました。ぱちぱち。
因みにその本業は鉄火場になりやすい事は僕自身も確認済で、その為に人殺しもしなければならないかも知れません。勿論死ぬ危険だってあるでしょう。
はあ。やってられるか。やってられませんよ。
「かと言って千早には逆らえない身だしな。で、だよ。千早は僕が縄抜けスキル持ちだとでも思ってるのかなっ。くっ」
そしてこの程、ただの使用人の枠を超えて主人の生業を補佐する役(玩具)として、敵陣真っ只中に放り込まれた訳だ。甘美で名誉ある奴隷としての任務は惜しくも完遂ならなかった訳だが、千早には言わなかった幾つかの点で、僕には僕なりの推察からこのゲームの攻め方を導き出している。千早は侮っているが、先ず攻めるべきは嘉邦だ。
「ったく、猿轡は外してくれたのに縄は解いてくれないなんてドジっ子なんだからっ」
「独り言は気持ち悪いから止してちょうだいな」
「ってうわあっ……びっくりした」
這いずって辿り着いた厨房。包丁でちまちまと縄を削っていたのだけれど、背後から突然声を掛けられた。
「マリーさん、居たんですか」
「私の神聖なる仕事場に不埒で穢らわしい気配を感じたから確認しに来たのよ」
如何にも不満げな棘のある口調。西洋人のナリで流暢な日本語は、いつも毒含みが良くて中々に陰惨だ。
「人聞きの悪い……ってか見てないで助けて貰えません?」
「しょうがない男ね。その位さっさと出来ないものかしら。喋ってる暇があったら一刻も早くこの厨房から出て行って欲しいわ。厨房の空気が悪くなるもの」
そう言って助けるでもなく僕の前を素通りし換気扇を回し始めるあたり、本当にいけ好かない女である。
「まあそう言わずに……手伝ってくれないなら話し相手位にはなって下さいよ。なにぶん今日は僕の初仕事で、色々と話したい事が「私にはないわよ」」
心底面倒臭いという顔が換気扇を眺めている。
「はあ、僕にはあるんですよ。古参のマリーさんに聞かなきゃならない事がね。それに、分かってるでしょう?僕の立場ってものを考えて下さい」
少し声のトーンを落として含みある言い方をする。これがこの女に対して一番に効く方法だ。
「…………、本当に最低な男だわ。本当に……さっさとして頂戴な」