第1話 目覚め良い夢、悪い夢 二
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嘉邦はユリを手招きする。小さな足が羽の様に駆け、僕の手から嘉邦の許へと帰る。
「全く、ご客人に迷惑を掛けては駄目だろう。……私の娘がご迷惑をお掛けした様で申し訳ありません。ほらユリ、謝りなさい」
嘉邦は小さな体を受け止めると武臣に向き直させて静かに促した。成る程、この父にしてこの子ありだ。
「いやいや、良いですよ。こっちこそ食べるのに夢中で娘さんに気付かなかったのですし……気にしないでね」
大事ない事で子供に謝らせるのは忍びない。そもそも僕は謝るのも謝られるのもあまり好きではない。千早にだけは例外としてどんな罵詈雑言に遭おうと謝り倒す事が出来るが、それだけだ。
しゅんとして申し訳なさげに此方を伺うユリになるべく優しく見える様に笑いかけて(僕の大の不得意はこの笑顔というやつだ)、何とか肩の力を抜かせてあげる。
「すみません。そう言って頂けると助かります。あの、ええと、確か、長月様の……?」
「来栖武臣です」
「これは大変失礼しました。先程挨拶させて頂いたのに、無礼をお許し下さい来栖様」
「いやいや、その、実は私は千早様の新しい執事でして、そんなに畏まられては恐縮です。此方こそ先程は忙しい所によってしまって、きちんとした挨拶も出来ずに申し訳なく思っていた所です。この様な会にお招き頂いて、誠に有難く、主共々嬉しく思っています」
「それはそれは、此方こそ有難い事です。長月様がこの様な席にお越しくださるとは、招待を出した側と言え大変驚いているのです。父が大変に恩があるから是非とも見知っておきなさいと言うので無理を承知で出したのですが、普段はこの様な若造の催す些事にお越しくださる様な暇もありませんでしょう?それなのに、会場を巡られてゲストの皆さんにお声掛けまでされて、私だけでなく此処に居る皆が喜んでいるのです。迚も素晴らしい方ですね」
簡単な社交辞令として用意していた言葉にもきちんと言葉を尽くしてくる。この男の慇懃な態度はパーティの前に軽く挨拶した時と一向変わらない。あの時は少し事務的に来客者の確認をする程度での会話だったが、今は宴も酣、客人の持て成しにと一層社交的で丁寧な物腰だ。落ち着いた微笑みが如何にも彼の好漢ぶりを現している。
ロッシーニ風に関して安易に酷評を下してしまったけれど、どうも人柄に関しては僕や千早とは雲泥の差があるらしい。
「あの……いやまぁ、そうですね。はははっ…………」
千早などあの高慢ちきの悪性が祟って屋敷のメイドは直ぐに辞めてしまうし(たったひと月で3人!)、方々で恨み辛みが重なって、呪詛の手紙が引っ切り無しだ。尤も、大概はこっ酷く切って捨てられた男の未練、妄執が怨念になったものなので、相手に同情する気にはならない。千早に引っ掛かったのが運の尽きなのだ。
と、どうも後ろ暗い気持ちになって会話が進まない。話題を変えよう。
「……可愛らしい娘さんでいらっしゃいますね」
やっぱり話の種はこれ位だろう。大人の長ったらしい話に付き合わされて手持ち無沙汰なユリを見る。
「はは、そうでしょう。私に似ず、良い器量に恵まれましてね。将来を期待された子ですよ」
嘉邦は娘の頭をゆっくり撫でながら頬を緩める。だらしない位だ。殊、娘に対しては溺愛らしいと端から見ても瞭然だ。
確かに似ていない様にも思うが、こうして睦まじくいるのであれば、親娘としては満点ではないだろうか。そのうち反抗期になって憎たらしい事の一つや二つ出てくるものですよ、お父様。そんなにべた惚れしていられるのも今のうちですよお父様。とは言えない。
「余程可愛いと見えますね。お父様としては将来が寂しいでしょう?」
「それは言わない約束ですよ」
「ははははっ、これは失礼しましたーー……」
「所でーー……」
「ーー」
…………………………。
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「と、こんな感じで会話が進んでですね、その後一頻り話したら彼方が閉会の挨拶に向かって、それで僕は千早様の許に戻った訳ですーーっがあっ」
燭台の灯りが揺らめいて薄暗い部屋を申し訳程度に暖めている。此処は千早の仕事部屋だ。普段日のある内にしか使われず、部屋の主人は滅多に入り浸る事がないので、春先のこの時期は夜になるとしんとして肌寒い。
僕は後ろ手に縛られて上半身を剥かれて、裸足にさせられ大理石の床に正座させられている。千早にこう言う趣味が有ったとは驚きだが、そんな事はどうでも良い。
後頭部の天パを鷲掴みにされて背骨をハイヒールでごりごりと踏み躙られ、鈍痛が体中に染み込んでくる。
何も抵抗出来ずに為すが侭に踏み付けられる屈辱で頭の中が真っ白だ。
「貴方が言い付けられた簡単な仕事すらまともに出来ないしょうもない男なのはこの際置いておくとしても、このザマじゃあ情けなくて情けなくて憎らしいくらいだわ」
千早はお怒りだ。と言うのも僕が間抜けなせいなのだが、この間抜けと言うのも半分は千早の失点だと思うのだがそれは言えない。
「何を如何したらそう簡単に意識操作の術式に認識阻害の術式重ね付けされて志賀嘉邦と呑気に世間話って事になるのかしら。相手もきっと武臣の阿呆さに面食らった事でしょうね?痕跡どころか術式を剥がしもしないで私に寄越すくらいだわ、今頃私の事を虚仮にして笑い転げているでしょうね?長月千早三百年の恥だわ!」
「ふぐぅっううっ!ぐっ」
肩の間辺りを責めていたヒールが腰まで思い切り引き下ろされる。背骨の一つ一つが打ちのめされ、皮膚は擦りむいて、多分血が滲んでいる。ジンジンと体の中心から痺れに似た痛みが広がり、四肢が力んで臓腑が震える。
千早はその侭、僕の頚椎目掛けてどかっと腰を降ろす。
「ユリとかいう娘は式神か何かね。どうせ特徴を捉えられない様に認識阻害されているし、武臣の脳髄掻き回して抽出した所で大した情報にならないでしょうから、まあ良いわ。武臣には大して情報を持たせていないから彼方も空振りだろうし、そもそも此方としては魚が餌に掛かっただけか。彼方も武臣を戦力外と見ただろうし、現状認識は双方変わりなし。武臣が撮った写真にも目ぼしいのは居なかったし……やっぱり志賀嘉邦はまだ出て来ないか。あれにしては随分と息子を甘やかしてる様ね。それとも志賀嘉邦はこっち向きじゃないのか……」
僕の肩で長い思案をする千早の、布越しの尻の柔らかくて温かい感触が傷を伝って体の中心を燃え上がらせて心臓が激しく動悸して頭に血が昇って目がチカチカして毛穴という毛穴がぶわりと開いて唾液が止め処なく溢れて全身の筋肉が収縮して口が閉まらなくて舌が弛緩して!
「あっ……」
「……何よ?」
裏返った嬌声が漏れてしまった。思考を邪魔された千早がさっと立ち上がり怪訝な様子で、いや少し蔑んだ様子で声を掛けてくる。
温もりが急に奪われて軽くなった肩は直ぐに冷え、僕は戻ってきた正気を必死で手繰り寄せる。
「千早様、その、僕に与えられなかったと言う情報について聞いても良いですか?彼は、父が長月に大きな恩がある、と言っていました」
「聞いて良いと許可した覚えはないけれど?まあ良いわ、何でもない事よ。武臣、それは恩じゃなくて怨よ。怨念の怨。全く嫌味な言い回しだわ」
「怨念、ですか?怨みがあると。あの、失礼ですが、千早様は怨まれている自覚のある人相手に何も知らない僕を餌にしたんですかね?幾らなんでもそれはちょっと……」
「そこまでよ。武臣の生殺与奪は私の権利なの。結果的に言えば貴方は何も知らなくて良かったのだし文句は言わせないわ」
「そんな事はないでしょう?知っていたら……」
「知っていたら何だと言うのよ?貴方が間抜けなのは変わりないのだから警戒しようが何しようが簡単に術掛けられて彼方に洗いざらい喋ってさっと首切られて裏庭に埋められるだけだわ。役立たずな方が命拾い出来たという事よ。自覚なさい」
成る程、千早には半分どころか微塵も失点はないようだった。