冬虫夏草
あの人が動かなくなってしまってから、もうどれくらい経ったのだろう。突然に頭を抱え、うずくまったまま、あの人はこの狭い部屋の中央に横たわり、動かなくなってしまった。
何度か目覚めると、あの人の体全体にうっすらと埃のような白い粉が浮いているのに気がついた。それから何度か目覚めると、粉はとても細い繊維の綿と成りつつあり、体を包むように日増しに厚みを増していった。綿の量が増えるにつれて、皮膚は年寄りのように皺が目立ち始める。
さらに何度が目覚めると、綿のあちらこちらから細い木の枝のようなものが生え始めていることに気がついた。それらは、見つめている間にもはっきりと分かる速度でぐんぐんと大きくなっていき、私はそれが茸であることを理解する。
茸の柄の中央あたりから、ふたつの小さな突起が生まれ、それは次第に長さを増していき、最終的には先端が細かく分かれ手のような形を作った。それが腕であることを理解する。同時に傘の部分が大きく膨らみながら丸みを増していき、その中央部分には目や鼻や口が、そして両脇には耳が出来て、それは顔となった。その顔はあの人にそっくりで、私は茸があの人になったのだと理解した。新生児ほどの大きさに育ったあの人たちは、倒れ込むようにぼとりぼとりと、かつてあの人だった苗床からその身を落とすと、その末端のつぼの部分から突然生えてきた両足で床を踏みしめるように立ち上がる。あの人たちは、おぎゃあおぎゃあと産声をあげながら、ふたつの脚でよちよちと歩き回り、そして私を取り囲んだ。
あの人たちの空腹が私にも伝播したのだろう、私は耐え切れぬ飢えを覚えた。部屋の真ん中でその身を横たえる、かつてあの人だった苗床を調理することを思いつく。
大きなブルーシートを引きずるように持ってくると、部屋に広げ、その上に苗床を転がして移動させた。あの人たちも小柄な体でよちよちと動き回りながら、私を手伝って苗床を押す。
まずは苗床の首筋に包丁の歯を当てた。力を入れると、歯はいとも簡単に沈んでいき、サクサクとしたパイを切り分けるような感触が手に伝わってくる。血液が噴き出してくるのを覚悟していたが、意外なことにそこからは何も染み出てくることさえもなかった。すると、歯が硬いものに当たりそこで止まる。頚椎だ。刃先を探るように動かして継ぎ目を見つけると、全体重を包丁にかけた。すると、切り離された苗床の頭部は部屋の隅まで転がっていき、そこで横向きに止まった。うっすらと開いている目がこちらを見つめていて、目が合った私はあの人が動いていた頃を懐かしむ。
要領を得た私は、同様に、まずは両腕を、次は両脚を根元から切り離し、苗床の解体を進めた。そこで私は大きな間違いをしでかしていたことに気がつく。家にある鍋には切り分けた部位は大きすぎるし、かといってさらに切り分けるには労力を使いすぎるのだ。なにより、それぞれの部位はパサパサとしていて、見るからに不味そうで、出汁もろくにとれそうもない。そこで私は内臓に取りかかることにした。
鎖骨の間に包丁を突き立てると、刃先は音もなくスッと入った。私は、内臓を傷つけることが無いように、慎重な動きで皮膚だけを切った。刃先を動かしていくと、乾燥して縮んだ皮膚が引っ張られて自然に開き、まっ白な肋骨とその下に瑞々しい内臓が露わになった。内臓はどれも潤いをもってテカテカと光を反射して、ぷりぷりとした質感は私の食欲を促進させた。私が内臓の間に手を突っ込むと、どこからともなく血液が溢れてきて、内臓を浸した。指先を動かすたびに、内臓の弾力が伝わってきて、血液のぬるぬるした感触と共に私の手を包んだ。肝臓を探り当てた私は、それをしっかりと掴むと、ひと息に引きちぎった。その瞬間、血液が噴水のようにはじけ飛び、私の全身は真っ赤な液体でぬるぬるとなってしまった。
手の中で肝臓は生き物のように身をくねらせながら、必死に逃げようとしていた。それを手の内から落としてしまわぬように、かといって握りつぶしてしまわないように力加減に気をつけながら、あの人たちがすでに用意をしてくれていた湯気を放ちながら煮えたぎる鍋の中央にそっと置いた。
あの人たちと私は、茹であがるのを待ち遠しそうに鍋を囲む。鮮血色だった肝臓は次第に色を薄めていった。すると、部屋がどんどんと広くなっていく感覚に襲われた。家具もあの人たちも、どんどんと巨大になっていく。そこで私は、自分が小さくなりつつあるのだと気がつく。とても小さくなってしまった私を、あの人たちは取り囲み、細かく、とても細かく刻んでしまった。粉末状になってしまった私を、あの人たちは猛烈な息で吹き飛ばした。私は夜空に広がり、街中に拡散された。
私はあちらこちらで茸になった。茸となった私の欠片のひとつは、ある家庭の鍋の中で、ぐつぐつと煮え立つ湯に浸かり、覗き込むように見つめるその家族の顔を、不思議な気持ちで見つめ返していた。