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水火  作者: 遊木愉生
2/2

水火 [下]




急に寒くなった気がした。


「──妹の─復讐」


その言葉しか出てこなかった。


「佐藤清恵さんの事件を知る直前に手紙が届いた。差出人はM・G。『佐藤清恵を覚えているか?』というだけの内容だった。覚えているに決まっている。深端五谷の事を忘れるはずがない。その手紙を見た翌日、新聞に記事が載っていた。正直、怖かったよ」


─M・G。イニシャルだと思っていたけど、そうじゃない。竹井桜と合わないもの。


「次の柳川明正さん、その次の亀谷利美さんの時も直前に手紙が届いた。彼女は─私を追い詰めようとしているのだと思った」


「追い詰める?何故です?深端五谷を離れた事も、開発の事も播馬様には関係ない」


「開発を持ち出したのは私の祖父だ」


「身内だからって事?そんなの──違う。だって──播馬様はまだ子供だった!竹井桜だって。子供だった」


「子供だからこそ、大人の事情が上手く飲み込めないんだ。子供にとって大人の世界は理解できない」


「─でも、今は違う。もう、大人でしょ?あの時どんな事情で深端五谷を離れなければならなかったか分かるはず。やむを得ないって。播馬様を追い詰める理由はないって!」


「その事情を知らずに生きてきたとしたら?」


─どういう事?


「深端五谷を離れてすぐに彼女の両親は亡くなった。我々が深端五谷を去らなければならない時、既に彼女の両親は精神が不安定だった。それが影響して一家で心中を謀ろうとしたそうだ。結果、彼女だけが一人残された。私はその事を両親から聞かされた。その後の彼女の生活は知らない。そんな状況で彼女の両親が娘に話をしているとは思えない」


「正せばいいのです!竹井桜に話をすれば!」


「彼女はきっと分かっている」


「じゃあ、何故──」


「復讐という理由に変わりはないだろうさ」


「誰に復讐するの?」


もう、訳が分からない。

何故、竹井桜は人を殺すのか。

香坂播馬はそれを知っているのに何故、彼女の標的になるのを待つのか。


「私──そして、白藤に」


─白藤。何故ここで白藤親子が出てくるの。


「私は香坂家の人間だ。彼女にはそれだけの理由があれば十分なのだよ。それと同様、白藤は長年の間、香坂家に仕えてくれている。私が幼い頃から今もずっと揺るぐ事なく。彼女が私たちを苦しめる理由はそれだけだ」


─分からない。全然。分からない!


「彼女は播馬様と隆之介さんに裏切られたと思っているのですか?何故あの時、開発を止めてくれなかったのか。一緒に妹の帰りを待ってほしかったのにって」


「どうだろうか。分からないよ。ただ、私の両親が亡くなってから佐藤清恵さんが亡くなるまでの期間が開きすぎている。彼女の中に何かしらの迷いとか葛藤があったのかもしれない」


「播馬様」


気掛かりだった事を聞いてみようと思った。

返事を聞くことが恐ろしかったが、聞かずにいる方が怖い。


「播馬様は─竹井桜に身を捧げるおつもりなのでしょうか?」


「どういう意味だ?」


「竹井桜に─殺されても構わないと、そう思っていらっしゃるのでしょうか?」


白藤親子も息を飲んで返事を待った。

驚いた事に、彩子の中にある香坂播馬の存在はとても大切なものになっていた。

初めの頃は給料を払ってくれる人としか考えていなかった。

時が経ち、彼の柔らかな物腰と心の暗闇に触れ、白藤親子の言動を肌に感じていると何とも言い表せないくらいに愛しい─護らなければいけないと思うようになった。


香坂播馬はスクラップブックを引き出しにしまうと椅子に座り直した。


「彼女に私は殺せない」


殺されてたまるかという事なのだろうか。


「彼女の目的は私たちを苦しめる事だ。殺してしまえば、苦しまない」


香坂播馬を苦しめるためだけに殺人を犯すのか。

何とも腹立たしい。


「苦しむのは私だけでいいのだ。白藤まで─お前たちまで苦しむ事はないのに──本当にすまない。申し訳ない」


香坂播馬は声を震わせて白藤親子に頭を下げた。


白藤親子はそれを見ていた。


頭を上げてほしいとか謝るなと言わず、それを見ているだけだった。

まるで、香坂播馬の謝罪が当たり前かのように。


何だか不思議な光景だった。


漸く、白藤隆之介が口を開いた。


「─それを言うために、私たちを呼んだのですか?」


いつもの白藤隆之介ではない。

少し恐ろしいと思った。


「今夜」と香坂播馬が言った所で白藤隆之介が勢いよく立ち上がった。


「私は聞きたくありません」


「親父、いい加減にしろよ」と白藤鈴士が冷静に言う。


「親父だって分かってるじゃないか。播馬様は被害者だ。俺達と同じ──いや、それ以上に苦しんでいるんだ。俺達が忠実になるほど、播馬様を苦しめる。それを分かっていながら俺達も播馬様に仕えているんじゃないか。俺達の存在は播馬様を苦しめるだけなんだ。──だけど、俺達は播馬様を護らなければならない」


「あぁ、そうだ。私たちは播馬様を護らなければならない。それだけだ。─彩子さん、私たちの関係は可笑しいだろう?」


白藤隆之介はそう言って自嘲気味に笑った。


「母さんが亡くなってから一度も話をしていない。俺達は認めなければならないんだ。母さんが亡くなった原因を」


「麻子は事故で亡くなった!それだけだ!不運な事故だ!それ以上の何を認めろと言うのだ!」


白藤鈴士は立ち上がると父親の腕を掴んだ。


「親父!卑怯だ。知っているのに知らん顔なんて意味ない!俺は認める。母さんは殺された!竹井桜という女に。理由は」


「黙れ鈴士!それ以上言うとお前の頬を叩いてやる!」


「理由は播馬様だ!」


白藤隆之介は息子の頬を殴ろうと拳を振り上げた。


「─母さんは播馬様を苦しめるためだけに」


「言うな。お願いだから止めてくれ」


「認めなければならないんだ。──母さんは、播馬様を苦しめるためだけに竹井桜に殺された」


白藤隆之介は喉の奥で声を押し殺して膝から崩れ落ちた。

泣いているのだ。


「母さんが殺された事によって、播馬様は俺たちの苦しみと自分の苦しみ、そして深端五谷の苦しみを一気に背負ったんだよ。せめて俺たちだけでも播馬様の負担にならないように─そう思って香坂家に仕えてきたんだろ?」


白藤隆之介には言い返す気力がないようだった。


「だけど、播馬様!誤解しないでほしい。俺たちはあなたを苦しめようとしているんじゃない。あなたを放っておけばどうなるか分からない。心配だったのです。あなたに仕えるのは─護りたいと思うからなのです」


「──桜は─あいつは君たちの気持ちを弄ぶようにして私を苦しめる。君たちが私に忠実になるほど彼女は喜んだろう」


「なんて──なんて人なの!私、許せない!竹井桜を許せない!」


怒りという感情は何とも恐ろしい。

自分には何が出来る訳でもないのに、一度会い少し話をしただけの相手を憎めるのだ。


「恐ろしい事を言うが、次の標的は─きみかもしれない」


香坂播馬のその言葉が彩子に向けられていると自覚するまで少し時間がかかった。


「わ、私?でも、私。深端五谷の出身じゃないし──」


「言ったろう?私を苦しめるなら何でもやる」


─そんな。


「きみはもう外出してはいけない。庭やバルコニーへも出ない方がいい。もし、息苦しくて堪らなくなっても一人で外へは出ないで。必ず白藤に付いてもらうこと」


「そんなの無理です」


「辛いのは分かるが、彩子。きみまで巻き込んでしまった。これ以外に方法はない。私の推測が外れる事を祈るだけだ。きみの存在を彼女には知られないよう注意を払っていたのだが─無理だった」


「そうじゃない。そんなの解決にならないって事です。これからもこうやって竹井桜からの攻撃を受け続けるつもりですか?そんなのおかしい。間違ってます」


「では、どうしろと言うのだ?彼女に直接会いに行くのか?何処に居るのかも分からないのに!」


香坂播馬は香坂播馬らしからぬ態度で笑った。


「─あの人は、竹井桜は散らばった深端五谷の住人を捜しだした。この屋敷だってあの人の手中にあるも同然です。私の存在を知られないようにするなんて端から無理な話なのですよ。私は誰にも話していないし、皆さんも同じなはず。それなのに、私が食事を作っているのを知っているのは何故か。この会話が筒抜けなんですよ!」


男三人は顔を見合わせた。


─それしか考えられない。


誰にも気がつかれずに敷地内に侵入して手紙を置いたのだ。

知らない間に屋敷に侵入されているかもしれないし、個人の持ち物に盗聴機を忍ばす事も可能だろう。

セキュリティなんて無駄なのだ。


彩子は此処には居ない人物に向かって話しかけた。


「─もし、あなたがこの会話を愉快な気持ちで聞いているのなら、今から丁度24時間後。深端五谷のあった場所に来てください。勿論、警察は呼びません。あなたが殺ったという証拠はないようですので。あなたのやり方はとても卑怯です。このまま、卑怯なやり方を通して行くのですか?播馬様は強い人です。あなたが与える苦しみも必ず乗り越える。それを支える人たちもいる。そうなるとあなた、どうするの?──私たちはあなたの思いが聞きたい。だから、必ず来てください」


「な、何を勝手な事を!播馬様は」と白藤隆之介が言ったが香坂播馬はそれを止めた。


「いいんだ、白藤。──私からも頼む。必ず来てくれ」


聞こえているだろうか。


「播馬様まで!危険です!何をされるか分からないのですよ!播馬様自身も彩子さんも!危険です」


白藤隆之介の言葉は虚しく暗い部屋へ消えた。

ああは言ったものの、彼も分かっているのだ。

会わなければならないと。


四人の気持ちは同じだった。




その後、各々の部屋へと戻ったが、誰もゆっくりと眠ることができなかった。


朝、顔を合わせても挨拶以上のやり取りはない。

香坂播馬の顔色は良かった。

表情は変わらないが、何だかすっきりとしたように見える。


深端五谷へは車で4時間だ。


香坂播馬と白藤隆之介は深端五谷を離れてから一度も戻っていないらしい。

彩子はもちろん、白藤鈴士も初めてだ。


深端五谷の現在を誰も知らない。


午後9時になり、4人は車に乗った。

運転席には白藤隆之介、助手席に白藤鈴士。

運転席の後ろには香坂播馬、その隣に彩子が座る。


夜のドライブは好きだ。

しかし、これは。


─嫌だなぁ。


何が待ち構えているのか、これからどうなるのか。

自分は香坂播馬と白藤隆之介に余計な事をしたのではないか、と後悔もしたが、あのまま放っておくべきではないのだと何度も思った。


そもそも竹井桜は来るのだろうか。


一度見ただけの竹井桜の姿が暗闇の向こう側で漂っている。

何処かから吹く風に長い髪を踊らせ、怒ったような表情でこちらを見て

そらさない。

彼女が走ってきた。


しかし、距離は縮まる事がない。

それでも必死に駆けてくる。


─泣いている。


必死に走る彼女の姿はいつの間にか小さな女の子になっていた。

竹井紅葉だろうか。

遠くの少女はのっぺらぼう──否、身体は小さいが頭は竹井桜だ。

そして少女との距離が縮まる。


何だかとても寂しくなった。





「彩子」と身体を軽く揺すられる。


優しい車の運転と心地好い振動でいつの間にか眠っていたようだ。


「あ、すみません。寝ちゃった」


「構わない。もうすぐ到着する。昨晩は眠れなかったのだろう」


街灯もない道はうねうねと曲がり、暗く陰鬱だった。

落葉や枯れ枝が散乱していたり、拳ほどの大きさの石が転がっている。

不気味に揺れている木々が恐ろしい。


暖かいなぁと思ったら香坂播馬のコートが掛けられていた。

慌ててそれを畳んで返す。


「あ、ありがとうございます」


「窓に近いと少し冷えるからね。外に出るともっと冷える。着ておきなさい。私は大丈夫だから」


そう言って彩子にコートを渡した。





もうすぐ春だというのに本当に外は寒かった。

香坂播馬から借りたコートは暖かかった。

彩子の持っている安物のコートとは比べ物にならない。


─あぁ、やっぱりお金持ちなのね。


その様な人物と暮らしていた事をすっかり忘れてしまっていた。


車のライトを頼りに白藤隆之介と鈴士は門扉の状態を確認している。

見た限りでは施設全体が古びている。


足元は枯れ葉と枯れ枝で埋めつくされている。

もう何年もこの状態なのだろう。


「これは─いけないですね。鍵が掛けられていて扉が開かない。鍵も扉ももう錆びてしまっています。敷地内も荒れています」


白藤隆之介は手を払いながらそう言った。


「酷い状態だ」と香坂播馬がぽつりと言った時、大きな音が聞こえてきた。


白藤鈴士が掌ほどの石を鍵にぶつけていたのだ。

驚いた事にそれは一撃で壊れた。


「もう閉鎖されてるみたいだし。いいでしょ」と言いながら鍵を外して扉を横にスライドさせた。


錆なのか元からなのか分からないが、とても重そうで鈍い耳障りな音が響いた。


一同は再度車に乗り込み、敷地内を静かに進んだ。

どこまで夜が広がっているのか。

先が見えない。

月も星も厚い雲の上にある。

なんだか見放された気がした。

車のライトがあってもこの静かで圧力のある闇に押し潰されてしまいそうだ。


とても不安だった。


「大丈夫?」と香坂播馬。


彼は落ち着いていた。


「─寂しい」


「─うん。そうだね」


辺りを注意深く見ているが竹井桜の姿は見当たらない。


─来ていないのか。


「白藤。あの山まで行けるか?」


「あの─山。播馬様たちの秘密の場所で御座いますか?」


「そう。今となっては正確な場所は分からないかもしれないが。来ているなら、あの辺りに居るはずだ」


ただ、ひたすらゆっくりと車が進むだけで時間が経っていないかのような錯覚を起こしてしまう。


深端五谷はゴルフ場やテニスコートなどにされたはずなのに、芝生は跡形もなく、建物やコートは廃れている。


香坂播馬たちの思い出の場所。


「祖父の失敗は深端五谷に目をつけた所だ。私は祖父の仕事や友人関係の事など全く分からない。なぜ、祖父が深端五谷を友人に勧めたのかも謎だ。まぁ、周りには何もないから静かだし、空気も綺麗だ。夏は涼しい。夜になれば一段と美しい夜空を眺める事もできる。それを売りにしようとしたのだろう。確かに当時は人が入ったようだ。会員制の高級スポーツ施設にし、紹介でなければ入会できないという制約だった。会費も馬鹿げた値段だったようだ。一気に金を巻き上げたかったのだろう。──しかし、それも、長くは続かなかった。少し離れた場所に同じような施設が出来た。手頃な会費で気軽に楽しめる。同じような場所にあり、環境も同じ。交通は多少不便でも安い方に客は流れる。結果、潰れたのはこちらだった」


─競争相手がいれば互いに成長するものだと思っていたんだけど。


「高級スポーツ施設だと高を括っていたのだろう。最後まで経営方針を見直す事はなかった」


車は止まった。

遠くをヘッドライトが照らしている。


「到着しました。─誰も居ません」


外に出てヘッドライトが当たる場所へ移動する。

暗い所にいると奈落の底に落ちてしまわないかと怖くなるのだ。


すると、白藤鈴士が何かを見つけた。


「あ、あれ──小さな明かり。懐中電灯かな」


彼が指さす方を見る。

確かに明かりがちらちらしている。

それはこちらに近付いてくるようだ。


「竹井桜かしら?」


「どうかな」と白藤鈴士。


香坂播馬と白藤隆之介は何も言わずに近付いて来る明かりを見つめている。

枯れ枝や石などを踏む音がすぐそこに聞こえてくるようになった。

昼間なら顔が認識できるような距離まで近付いた所で明かりが止まる。


緊張感が四人を取り囲む。


明かりを持った人物はヘッドライトの範疇に入った。


見覚えのある顔。

蒼白く痩せこけた女。

その姿は優しく吹く風に飛ばされてしまいそうなほど弱々しい。

この身体に人を殺せる程のエネルギーが潜んでいるのだ。


彩子は冷静に

─あぁ、やっぱり盗聴器があったんだ。

などと考えていた。


その瞬間、相手の細い目が彩子を捕らえた。

心の芯を冷たい手で鷲掴みされたように感じて一瞬息が止まった。


白藤鈴士が彩子の前に手をやる。


竹井桜があははと笑った。

馬鹿にしたような笑いだった。


「心強いわね、彩子さん」と冷たい声で言う。


「桜」


その呼び掛けに香坂播馬の方を見る竹井桜。


「もう止めてくれ」


落ち着いた声だった。


「あなたの部屋に盗聴器を仕込んだ事かしら?それとも、彩子さんに話しかけること?」


「違う。もう誰も殺すな」


「それは─あなたが苦しむから?自分が苦しみたくないからそう言うのね」


「違う。私が苦しむのは構わない」


「他の人が苦しむのを見たくないのね。心優しいこと。でも、もうやってしまった事は変えられないわ」


「罪を償え」


「人を殺すのは悪い事。でも私はそれを償うつもりはないわ。そんな人間には何を言っても無駄よ。だって私の目的は殺人じゃなくて、あなたを苦しめる事だもの」


竹井桜の声には感情がなかった。

一人だけ暗闇に寂しく溶けてしまいそうだ。


「あなたが苦しむのなら何だってよかったのよ」


その言葉に香坂播馬は震えた。

怒りか哀しみか。

自分を苦しめるためだけに深端五谷の住民たちは殺された。

竹井桜はあろうことか手段は何でもよかったと言う。

憤慨するのは当たり前だ。


しかし、それではいけない。


「播馬様。あの人の言う事を真に受けては駄目。駄目です。あの言葉も播馬様を苦しめる呪いです!あの人の思う壷だわ」


困ったように哀しみを堪える香坂播馬。

竹井桜の笑い声が耳障りに夜空を貫く。


「播馬!あなたは昔から変わらないわね。心優しくておとなしい香坂播馬。クラスメイトや住民たちにも好かれていた、優等生でお金持ちの播馬御坊っちゃま!誰もがあなたを大切にしていた。なのにあなたはそんな事には気が付いていない。無神経だったのかしらねぇ」


「播馬様を侮辱するのは私が許しません!」


白藤隆之介の大きな声を初めて聞いたので驚いた。


「そうね、白藤。あなたは播馬の忠実な執事。昔っからそう。播馬の側には必ずいる。そうやって播馬の盾となる。─でも、白藤。その忠誠心が揺らいだ事もあるんじゃないの?─例えば、ほら──白藤麻子さん」


白藤隆之介は言葉か悔しさかを飲み込むようにグッと喉を鳴らした。


「彼女、あなたに似てとても優しい奥様だったわ。私が彼女を初めて見掛けたのは──播馬の両親が亡くなった時ね。そう─笑顔が素敵な方だった。その後、播馬の両親に変わって生活の世話をするようになるのよね?」


「何故あんな事をするのだ!く、苦しめるのは─わ、私だけに」


「馬鹿ねぇ、播馬。私は白藤にも苦しんでほしかったのよ。播馬を護る忠実な僕にも苦しみを味わってもらった。──大成功よ!苦しむ白藤を見て更に苦しむ播馬!でもね、播馬。あなたの両親。あれは事故だったのよ。何度も断ったのに─私の両親の墓にさえ来なければ─あの忌々しい階段から落ちる事はなかったのにね。私がもう少し早く救急車を呼んでいればどうにか助かったかもしれない」


「あの階段から落ちただけではあんな無惨な事にはならない」


「──そうね、そう。転落した後、少しだけ手を加えたわ」


そう言って竹井桜は少しだけ


─笑った。



「凄く厭だったの。あの二人が一緒に転げ落ちた事が。私の両親は娘と離れなきゃならなかったのに。母が死んで──半年後に父が死んだ。別々にこの世から居なくなったのに、こいつらは一緒なんだって。その事が厭だった。──それがあなたを苦しめようと思った切っ掛けよ。私も馬鹿じゃないから子供に何もできない事ぐらいは分かってる。だからじっくりと計画を練ったの。散らばった深端五谷の住民を調べあげ、どうすればあいつらも苦しむか考えた。その為には全員を手にかけるわけにはいかない。苦しみ哀しみながら生きて行かなければいけないのよ。私はあなたの為に私の人生を捧げたのよ。あいつらの苦しみであなたがそこにいるのよ」


竹井桜は懐中電灯の先を自分の背後へ向けた。


「さっきまであの辺りに居たの。私達がよく遊んだ所。覚えてる?」


「あぁ。覚えているから此所へ来た」


「あの子が最後に形跡を残した場所よ」


そこは雑草が伸び放題になっていた。

此所はかつて木が育ち水が流れていたのだ。


「勝手に開発して、勝手に閉鎖して。荒れ放題じゃない。人の家族を滅茶苦茶にして─苦しめるだけ苦しめて──失敗してるじゃない、馬鹿馬鹿しい。開発さえなければ、誰も苦しまなかったのにねぇ!」


「播馬様には関係ない!あなたと同じ何も知らない子供だったのよ!」


竹井桜は大声で笑った。


「播馬の事情なんてどうでもいいわ!深端五谷に住んでいた住民にも苦しみを与えた。私たち家族を見放した罪による当然の罰よ」


「法律によって下された時だけ人は人を罰せられる。あなた個人の感情でどうなるものではないわ」


「今さら教えられなくても分かっているわ」


「あなた何様よ!」


彩子の怒鳴り声に全員が驚いてこちらを見た。

しかし竹井桜だけは冷静に目だけを動かして彩子を睨む。


「人を殺して誰かを苦しめる?あなたの考えてる事もやってる事も理解できない。理解したくもないけどね。誰かを殺す権利はあなたにもないし誰にもない!苦しめるんだったらもっと他の方法を考えなさいよ!私だったらもっと精神を破壊するようにあちらこちらからネチネチ攻めるわ。あ、そうだ!人を殺そう。そうすれば播馬が苦しむわ!なんて間違っても考えない」


「あ、彩子さん」と白藤鈴士が肩を触るがそれを払い除ける。


「そもそも、あんた播馬を苦しめたいとか言ってるけど、それって自分に振り向いてほしいだけなんじゃない?昔から播馬が好きだったけど、こっちを見てくれないから苛めちゃう。そんなの子供がする事よね。人が死んでる時点でやり過ぎだけど。いくら自分が苦しんだからって何をやっても許されるわけじゃないんだから。人を呪うなら穴を二つ掘れって言うけど、あなたの場合は疲れて腕が動かなくなるくらい掘らなきゃだめね。歩いたら穴しかないから地上に出るのも一苦労よ。あなたが歩けば穴に当たる、よ。水に溺れ、火に焼かれる苦しみ──人を呪うならそれ相当、いや、それ以上の覚悟が必要なのよ!」


主人を呼び捨てしている事に気がついていない。


香坂播馬の開いた口が塞がらないし、白藤隆之介は悲しいのか困ったのかよくわからないような表情でこちらを見ている。


竹井桜は冷たい視線を外さない。


「あなたにそんな覚悟があるの?」


「あなた、私の事を知らないくせに」


「私、その言葉嫌いなの。知らないくせにって。何よそれ。私はあなたの事は知らない。昨日聞いたばかりよ。だから何?あなたの人生を知らなければあなたの罪について─考え方について口出ししちゃいけないわけ?私の大切な人たちが苦しむのを見ているだけにしろって?自分の事を知ってほしけりゃ、自分から歩み寄って話し合えばいいじゃない!何も言わないで心が通じ合えるなんて事は今さらラブストーリーの題材にすらならないお笑い草よ!私はこの人たちを護れるならあなたを責める。そもそも、この人たちを責める理由はないんだから!」


「─あなたは何を勘違いしているのかしら。私が播馬を好いている?振り向いてもらおうと人を殺してる?確かに、播馬の事を好いている人物、播馬の嫁になりたいと願っていた人物はいるわ。それは私の妹よ。あの子が私から離れないのは、播馬がいるからだったのよ。それなのに播馬?あなたは紅葉を見捨てた。あなたが開発中止を投げ掛けていれば変わったかもしれないのにね。子供の意見でどうなる事でもない大人の世界だけど、そんな素振りを一瞬でも見せたかしら?」


「そ、それこそ!紅葉さんが好いていらした事は播馬様には関係の無いことです!播馬様は紅葉さんが行方不明になられた晩、御両親には内緒でこの場所まで捜しに来ました」


「それは知っているわ。白藤も一緒だったのでしょう?結局、あの子は見付からなかった。今も行方知れずのままなのにあの子が消えた場所を崩したのよ。御曹司が親に黙って捜したってだけで罪滅ぼしになるとでも?」


「私たちは罪滅ぼしなど考えていないのです!播馬様を苦しめるのは止めてください!そもそも、私たちは罪を犯していない!冷たい言い方かもしれませんが、私たちは─深端五谷の者たちはやれる事はやりました。夜通し紅葉さんを捜し、隣の村や町まで捜しに出た。この山の中も捜した!私たちに償わなければならない罪はない!」


白藤隆之介の言葉に竹井桜は初めて動揺を見せた。


「白藤なんて大嫌いよ!」


「私を嫌い苦しめるのは構わない。その矛先を播馬様に向けるのは止めてくれ!」


「あぁ──あなたも変わらないのね白藤。とても優しくて紳士的。麻子さんも幸せだったのでしょうね。あなた─麻子さんが亡くなって哀しい?」


「とても」


白藤隆之介は声を震わせた。


「あなたたちにとって深端五谷から離れるのは哀しい事だった?」


「当たり前だ」と香坂播馬。


「白藤は?深端五谷から離れ、私たちと離れ離れになって哀しかった?」


「もちろん」


「嘘ね!あなたにとって深端五谷も私たちの事もどうでも良かったに違いないわ!あなたにとって大切なのは昔からずっと播馬なのよ。麻子さんと一緒になってもそう。二人で播馬を可愛がったのね。──あなたにとって私はただの播馬の幼馴染み。播馬のオマケなのよ」


「桜。やはりきみは白藤を好いていたんだな」


「そうね。好きだったわ。幼い私は本気で白藤と結婚するつもりだった。そうなればあなたはこの世にいないかもね」と白藤鈴士をキッと睨む。


その視線に白藤隆之介は息子を背後に隠した。


「どうやらわたしは一人ぼっちのようね。そうやって護ってくれる人がいないもの」


竹井桜は寂しく爪先に視線を落とした。


「──彩子さんの仰る通り、好きな人に振り向いて欲しかったのかしら。少しでも白藤の興味を引き付けようとしたのかしら。分からないわ。でも、そうだったらとんだ間抜けの一人芝居ね。幼い頃の恋心を引き摺って生きているなんて救いようのない馬鹿よ。──別に播馬が憎いわけではないのよ。本当は分かっているもの。播馬も白藤も悪くない。深端五谷の住人だって悪くない。今さら遅いわよね。人が死んでるんですもの。憎いとか悔しいとか恨めしいとか─確かにそんな感情はあったのよ。深端五谷の関係者ではない人たちにそんな感情を抱いても苦しめてやれ、殺してしまえなんて思わなかった。だから自分でも分からない。何故こんな事をしているのか。それに─後悔もしていない。駄目な事をしているのは分かっているのよ。でもね──何故こんな事をしたか説明しろと言われても、よく分からない。播馬や白藤を苦しめたいとは思ったけど─それが芯の部分なのか聞かれると─何だか違うように思うの。私─人を殺す理由が──分からない」


─なによ、それ。


誰も何も言えなかった。


竹井桜の表情は冷たく無機質なものに変わっていた。

視線は誰を見るわけでもなく、ただ口を動かしているその姿はこの世のものとは思えない程に儚げだった。


「犯してはいけないと分かっているのに罪を繰り返す、そんな自分を認めたくなかったわ。あなたたちを苦しめたいというのは後付けに過ぎない。自分でも分からないこの衝動を知らないうちにあなたたちのせいにしていたのね、きっと。──でも、もうそれも無理。異常だと言われても仕方ないわ。──こんな自分を止められるのは一人しかいない」


風が消えた。


そして竹井桜もクルマのヘッドライトの範疇から一瞬にして消えた。


「桜!」


「桜さん!」


香坂播馬と白藤隆之介が同時に名前を呼ぶが闇に吸い込まれた竹井桜は返事をしない。

僅かの間、その場で立ち尽くしていた。


「何処へ──行ったのかしら」


「み、皆さん車に乗ってください!ヘッドライトで辺りを照らしてみましょう」


白藤隆之介の言葉に従って一同は車に乗り込み、ヘッドライトで照らされる先に目を凝らした。

そして、四人の視界へ同時に入ってきたのは朽ちた五階建ての施設だった。


「あ!あの建物だわ!明かりが上がって行く!」


階段を上っているのだろう。

懐中電灯らしき小さな明かりが上がって行くのが見えた。


四人の頭に嫌な予感が廻る。

白藤隆之介はアクセルを全開にして建物まで進んだ。

たいした距離ではないはずなのになかなか進まないような錯覚に陥る。


建物の入り口で止まると同時に全員車から転げるように出た。

彩子はその朽ちた建物を見て息を飲む。


「─高い」


高くて厳つい。

夜空の暗闇を突き刺す冷たい無機物。

暗くて先がよく見えない。

そして、その頂点に立つ白くぼやけた塊。


「桜──さ、桜!」


香坂播馬は叫んだ。

その声が竹井桜に届いたようだ。


「私しか自分を止められない!」


「ま、待ってくれ!桜!」


「私は最低ね。こんな最後しか思い浮かばないんだもの!」


「こんなのはいけない!駄目だ!」


「播馬!私はあなたに優しい言葉をかけてもらう資格なんてないのよ!私の心はこの世にあってはいけない!」


香坂播馬が駆け出したので彩子と白藤親子もそれに続く。


間に合ってほしい。

死を選ばないでほしい。


誰を想ってそう願ったのか分からない。


ただ、ひたすらかけ上がる。

途中転んだが白藤鈴士が支えるようにして助けてくれた。


屋上に出た。

先に到着していた香坂播馬と白藤隆之介の後ろ姿が目に入る。


その二人の視線の先に竹井桜がいた。

建物の縁ギリギリに立っている。


「桜!きみが居なくなると、私たちが苦しい」


「そうかもしれない。だけど─すぐに忘れるわ。あなたたちはお互い支えあえるもの。彩子さんはとても大きな力を持っているわ。彼女がいれば大丈夫よ。忘れられる」


「忘れるはずがないだろう!」


「私は卑怯ね。人を殺しておきながら─自分の番になると──足が震える」


「桜──こっちへ来るんだ」


「私は─卑怯」


「桜。手を出して」


香坂播馬が手を伸ばしながら竹井桜に近付く。


彩子は昨晩を思い出した。

あの哀しみと苦しみの音楽を歌い終え部屋から出てきた香坂播馬は彩子に向かって手を伸ばした。

香坂播馬に優しく手を引かれるような温かい感覚がしたのだ。


「さくら」


竹井桜もそう感じるだろうか。


「もう苦しまないわ」


そう言って竹井桜は優しく微笑んだ。


「播馬も白藤も苦しまない。彩子さんも鈴士くんも苦しまない。私は─解放される」


竹井桜は建物の縁を駆け出すと、走り幅跳びの選手のように暗闇へと飛び込んだ。


風が強く吹き、木々が擦れる激しい音が四人を取り巻いた。


「なんてことだ」


誰かがそう言った。


一瞬だった。

今まであそこに竹井桜はいた。

なのに、今はもういない。

暗闇へと吸い込まれるように。

別の世界へと静かに飛び込んだのだ。


彩子の足は動かなかった。


息ができない。


呼吸の仕方が分からない。

身体は酸素を欲しがる。

しかし何かがそれを拒否する。

ただ苦しかった。


膝が力を無くしその場に崩れ落ちてしまう寸前、香坂播馬が彩子を抱き止めた。


「落ち着いて。大丈夫。大丈夫だから」


香坂播馬はそう言って彩子の髪を撫でた。

香坂播馬の顔を間近で見るのは初めてだった。


綺麗な顔立ちだった。


そして、彩子は気を失った。



目を覚ますと車の中だった。

運転席には白藤隆之介、助手席には白藤鈴士がいる。

香坂播馬の膝に頭を乗せていたので急いで飛び起きようとしたが、身体が動かなかった。

その様子を察した香坂播馬が温かい掌を彩子の額に当てた。


「気分はどう?」


「少し目眩がしますが大したことはありません」


「そう。もう少し休んでいなさい」


どうやら前に座る二人は眠っているようだ。

外はまだまだ暗い。


「播馬様、あなたは大丈夫ですか?」


「私は大丈夫。今さっき警察を呼んだ。彼らを待っているんだ。きっと彩子も色々と聞かれると思う。思い出したくなかったら話さなくてもいいから」


「でも、話さなきゃいけない」


「─実はこういう物を見つけたのだよ」と懐から封筒を出してそれを彩子に渡した。


「桜からだ」


彩子は香坂播馬の手を借りてゆっくりと上体を起こした。


「読んでいいですか?」


「あぁ、構わない」


そこには警察に連絡してほしいという内容が書かれていた。

しかし、それは香坂播馬たちに指示を与える物だった。


警察に何を聞かれても分からないと答える。

深端五谷も竹井紅葉の事も黙っておくこと。

自分が香坂播馬宛に手紙を書いた事、彩子に接触した事も言わないように。


香坂播馬の部屋にある盗聴機は残しておいた。

全ては幼馴染みの香坂播馬を忘れられずにいた自分が仕掛けたこと。

今晩、ここへ呼び出し心中を謀ろうとしたが他の三人に邪魔された。

全ては竹井桜の狂喜でやった。


そう答えなければならない。


と書かれていた。


「─どうされるのですか?」


「警察も馬鹿じゃない」


「嘘はすぐに露見します」


「そうだ。それに苦しみが増すだけだ。──私はね、彩子。実は少し、安心しているのだよ」


「安心──」


「桜がこれ以上苦しむ事はないからね。一般的な言い方をすれば、私は──冷めている。これは白藤に言われた事だ。しかし、私が今まで苦しんできたというのは本当だ。それは死者に対してもそうだが、遺された者たちに対して感じる苦痛の方が大きかった。私の場合は深端五谷の住人たちと白藤親子に対しての苦痛だ。それは決して消えはしない。─死とは生が終わる事。私にとってそれ以外の意味はない。悲しんだり、悔やんだりするのは当然の事だ。しかし、死者に惑わされて生きる道を失うというのはとても残念な事なのだよ。─今回桜が死んでしまった。本当なら桜は罪を償いながら生きていかなければならない。彼女は解放されたのだ。しかし、これで哀しみが終わるのかと言えばそうではない。私たちの苦しみは続くのだよ。情報が公開されれば遺族の心にはこれからもずっと残る。新たな苦しみが生まれるかもしれない。知らない方が良かったと思う事もあるだろう。もし、彼らが事実を知って今よりももっと苦しむならば─桜の言う通りにするべきなのだろう」


「というのは、警察に嘘をつく?」


「嘘─ではない。必要以外の事は言わない」


「でもいずれ警察も分かるのでは?」


「この手紙に書いている事が本当なら、あいつは深端五谷の事は何も残していない。この件は深端五谷とは無関係にしたい。これは桜なりの遣り方なのだよ。それをわざわざ露見させる必要はない」


香坂播馬は自分と白藤隆之介が話をするから、事情を聞かれても気が動転してしまって思い出せないということにすればいいと言った。


「分かりました」


事実、あまり覚えていない。


三人は何故来たのかと尋ねられたら香坂播馬を護るために同行したと言う。

これも事実だ。


「警察が来るまでもう少し眠るといい」


香坂播馬の表情は明かりがないせいで分からないが、声色からして落ち込みはしていないように思えた。

ただ、少しだけ疲れているようだ。


「あのM・Gって何だったのですか?竹井桜のイニシャルじゃないでしょ?」


「─あぁ。あれ。深端五谷のMだよ。深端五谷の亡霊──ゴースト。それでM・Gだ」


「なるほど」


すると、香坂播馬がふっと笑った。


「どうしましたか?」


「少しね、思い出した。彩子が言った事を」


そして、香坂播馬は前の二人を起こさないように注意をしながら笑いを堪えた。


「わ、私そんなに可笑しな事を?─全然覚えてない」


「そうかもしれないね。とても興奮していたから我々は止められなかったんだよ」


「な、何て言いましたか?失礼な事でも」


「そんなに心配する事はない」


香坂播馬の笑いは治まったようだ。

しかし、少しだけ表情が笑っている。


「きみはこう言った。苦しめたいと思ったらもっと周りからネチネチ攻めるって。実はあの時、笑いそうになったんだ」


「私、そんな事を──言った、かもしれない」


香坂播馬は再び笑った。

それにつられて彩子も笑ってしまった。


あぁ、なんだ。

普通に笑えるんじゃない。

こんなにも柔らかい表情で。


彩子は─

自分でも分からないが

香坂播馬の目を見て

彼の白く輝く首筋に手をやり

優しく頭を引き寄せ

自分も彼に近づくと

そっと唇にキスをした。


お互い離れなかった。

それ以上に求めるわけでもなく

ただ呼吸するように

唇を合わせた。


その時間を終わらせたのは彩子だった。

視線を感じたのだ。


ふと、バックミラーを見ると一瞬だけ白藤隆之介と目が合った気がした。

そして、心なしか彼が微笑んでいるようにみえた。





香坂播馬と話していたように警察には余計な事は言わないでいた。


そして警察は拍子抜けするほどあっさりと受け入れた。







それから一ヶ月が経ち四人の生活は変わった。


白藤鈴士は一人で住むようになった。

彼もまた白藤隆之介と香坂播馬に護られており、勝手な行動はなるべくしないようにと言われていたのだ。


白藤隆之介はそのまま屋敷に残る事になった。

仕事の面でのサポートはもちろん、香坂播馬が産まれてからずっとこの家系と生きてきたのだ。

今さら離れられないし、香坂播馬からの願いでもあった。


もちろん香坂播馬も屋敷にいる。

絵画修復の仕事をして優雅な暮らしをしている。

めでたく白藤隆之介からの外出許可が無くても出歩けるようになったので、バルコニーや庭へ出て自由に散歩を楽しんでいる。

しかし、それより外へは積極的に出ない。

そういう性分なのだ。


彩子はといえば、彼女も屋敷に留まっている。

心情的にも身体的にも変化はない。



ある時、香坂播馬と二人で話をしている時に白藤隆之介が現れると彼はわざとらしく、そして嬉しそうにその場から去った。

その様子を見た香坂播馬は可笑しそうに笑う。

どうしたのかと尋ねたら「我々はまんまと乗せられたのさ」と言った。


どうやら白藤隆之介は香坂播馬の食事を作れる使用人を探すというふりをして将来的にも寄り添える相手も探していたらしい。


それが事実ならあの夜、車の中でのキスを見て嬉しそうに微笑んでいたのは見間違いではなかったのだろう。



燃えるような恋ではない。

しかし、着実に二人の想いは近付き重なり合うのだ。



静かにひっそりと。

夜が床を這うように。



-END-

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