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水火  作者: 遊木愉生
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水火 [上]



時は去り、時が来る。

静かな夜に漂いながら

君が優しく扉を叩くのを待っている。

あの柔らかい囁きを聞きたくて。


静かな歌声を聴いたような気がした。

目覚めても君はいなくて

暗い部屋で独り漂っていた。

過去は死んだまま

記憶は私をからかい

苦しめた。


心が枯れてしまった。


夢は終わり、君も去った。

私の全てを残酷な君に捧げよう。


だけど

君はもういない。



──────────




美しい恋をしてみたいものだ、と大手コーヒー店のカウンターに座る中津彩子は思った。

外を行き交う男女の組み合わせ。

その中の何組が燃えるような美しい恋をしているのかは不明だ。

そもそも美しい恋などと云うものは主観的なものと客観的なものとでは全く別物であり、それを比べるのは無理がある。

だから、彩子の思う美しい恋と他人の思う美しい恋とは違うものであり、それを知りながらも羨ましいと思うのは可笑しな話なのだ。


─仕事も決まらないしな。


携帯端末に映し出される求人広告に目をやる。

以前は派遣会社に登録しており事務員として働いていたのだが契約が切れた。

紹介される仕事はどれも彩子向きではない。

やりたくない仕事をしながら日々を過ごすのは御免だ。

もう33歳で若くはない。

我が儘を言えるような年齢ではないが、やりたくない仕事で疲労困憊し余計に老け込みたくないのだ。

恋も仕事も何でも良いというわけではない。


─嗚呼。もう。


実家に帰るという選択肢はない。

帰ったところで何が変わるわけでもないのだから。

様々な愚痴や嫌味を聞かされるだけだし、直ぐに居心地が悪くなり出ていく事になるのは目に見えている。


小腹が空いたのでクッキーを購入して席に戻った。

店内が込みだしたので食べ終わったら帰ろうと思ったその時、背後の席から男性客二人の会話が聞こえてきた。


「妻が死んでから三年。私、一人でどうにかしようと思ったのだけどね。どうも難しい」


「息子は?いるんだろう?」


「あぁ。あいつも最近、手伝ってくれるようになった」


「いくつになる?」


「21歳。だがね、どうも食事が美味くないのだよ。私も息子も」


会話の内容が気になった。

鞄から鏡を取り出すと、メイクを確認するふりをしてさりげなく背後の様子を見てみた。


50代くらいの男性二人組だった。

二人とも何処にでもいるようなスーツ姿なのだが、一方の男性は背筋がしゃんと伸びており、素人の彩子でも分かる程にネクタイピンやカフスボタンなどの装飾品が上品だった。

これが紳士なのだと思った自分が単純で可笑しくなった。


─どこの上流階級だよ。こっちは職探しに必死だって言うのに。


鏡をしまう。


「女房の作ったものはお召しがりになるのに」と上品な紳士。


「確かに、麻子さんの手料理は美味かった」


「誰かいないか?」


「誰かって──白藤。お前再婚を考えているのか?」


「いや、違う。すまない。言葉が足りなかったようだな。住み込みで家事手伝いをしてくれるような人物を紹介してほしい。年齢は問わないが、食事を作れるような者がいい。将来的な事を考えると若いに越したことはないのだが。まぁ、あまり拘らない。高野の見込みで誰か紹介してくれないか?お前の紹介する人物なら信頼できる」


「ちょっと待ってくれ。そんなやつ見当たらないよ。私の周りのやつらはろくでもない奴ばかりだ。まともなのは私くらいだよ」


「求人広告を出すわけにはいかないのは分かってくれるだろう?きっと載せても来てくれないだろうが。私には知り合いなど居ないし、頼れるのはお前しかいないのだよ」


「悪いがお前の求めている人材に心当たりはない」


そんなに厳しい条件でもないだろうに、と彩子は思った。


─家事手伝いでしょ?料理なら私、得意よ?むしろ好きだし。


「やはり──そうか」


「すまない」


「何がいけない?住み込みがまずいか?それとも場所か?私は長年彼処に住んでいるから良く分からない」


「お前は一度たりとも住まいを教えてくれないから場所の事は言えないが、秘された所は問題だろうな。私はよく知らない場所を知人に紹介する気にはなれない。もちろん私はお前を信用しているがね、お前を知らない奴はそうはいかないだろう。何も知らない奴の元で、行き先を告げられずに働きに出るのは勇気がいるぜ」


「だが、そこはお前も理解してくれているのだろう?」


「わたしは、だ。他のやつはそうはいかんだろう」


「どうしたものか」と小さな溜め息が聞こえてきた。


彩子は閃いた。


─職が無い私。働き手を求める紳士。駄目でもともと。


クルリと椅子を回して背後の二人に身体を向けた。

そして紳士をスッと見つめる。

視線に気が付いた二人は彩子を見た。


「その話、詳しく聞かせてください」


目を細める紳士。

真っ白な髪を全て後ろに流している。


「お嬢さん。私達の話を聞いていらしたのですか?」と紳士が言う。


「はい。申し訳ありません。その─真後ろから聞こえてきたので。すみません」と頭を下げる。


「あの、私─仕事がなくて。いま、探している最中なのですが、もう2ヶ月も無職で─家賃払ったりしてたら貯金ももうすぐ底を尽きちゃうんです」


紳士は渋い表情を見せるがもう一人の男性は少しだけ笑って「いいじゃないか。話くらい」と言った。


「その話が出来ないという事が問題だとお前がさっき言ったのだろう」


「住み込みで家事手伝い─ですよね?私、料理は得意です!親からも評判よくて、何でお嫁に行けないのかとか嘆かれて──。ごめんなさい」


彩子は紳士の硬い表情を見て言葉を止めた。


「本当に全てを聞いていらしたのですね」と冷静だ。


「ごめんなさい」


「この女性がどのような方かだけでも知って損はないのではないか?もし逸材なら運命だ」と男性が後押しをしてくれる。


紳士は渋渋と云った様子で彩子に身体を向けた。


「あなた、お酒は?酔うとどのようになりますか?」


いきなりおかしな質問がきた。

背筋を伸ばす彩子。

カウンター席に座る彩子の方が紳士を見下ろす格好になるのが気にかかる。


「外食の際に二杯ほど飲みます。酔っぱらった事がないので、その時はどうなるか分かりませんが、私の家系は酔うと眠ります。なかなか起きません」


「SNSなどはやられていますか?」


「いいえ。興味がありません」


「住み込みで働いていただくとなると、不満も出てくるかと思います。個室を用意させて頂きますし、必ずプライバシーは守られますが、あなたがこの住み込み生活に嫌気を感じるような事が無いとは言い切れない。もし、出ていかれた際に我が家での業務内容は口外法度という契約を守れますか?」


「勿論です」


そう言った後、何だか不安になった。

自分は一体何処へ働きに行くのだろう。


「お嬢さん」と違う男性が立ち上がる。


「どうやら貴女は椅子の高さを気にしているようだ。私と代わりましょう」


紳士は二人を見比べて少しだけ表情を和らげた。

彩子は一礼して紳士の前に座り直した。


「先に言っておきますが、住まう家─これは働き先となるのですが、その場所は今は言えません」


紳士がそう言うとカウンター席に座る男性が恨めしそうに「私にも教えちゃくれんのだよ。この頑固者は」と言った。

それを無視して紳士は続ける。


「あと、その家には私を含め3人の男性しかおりません。女性は貴女だけになる」


「一人はオヤジだけどね」と男性がちゃかす。


「私の息子、そして家の主です。貴女には主の食事を世話していただきたい」


「食事─だけでいいのですか?」


「他は何も求めない。今は─ですが。今後何か助けて欲しい事があればお願いをします」


「わかりました。あの、私─介護食は作った事がなくて─」


紳士が頚を傾げる。


「食事は作れると言いましたが介護食は未開拓です。だから初めは不慣れで口に合わないかもしれませんが、直ぐに慣れますので」


「介護食?─貴女は何か勘違いをされているようだ。失礼ながらお聞きします。おいくつでいらっしゃいますか?」


「33歳です。今年で34歳になります」


「主は貴女と同い年です。介護食などまだまだ必要ありません」と紳士が穏やかに笑った。


何だか恥ずかしくなって「すみません」と謝ってしまった。


「いいえ、先に話をするべきでしたね」と言って紳士は畏まった鞄から手帳を取り出して何かを書いた。


そしてそれを彩子に見せる。


─250,000円也。


「月にお渡しする金額で御座います」


「は?」


「主と相談して決めました。これくらいが妥当かと」


「いや、ちょっと─これは」


「いかがですか?」


「間違っていませんか?」


彩子がそう言ったので紳士は手帳を見直した。


「いいえ。合っています。25万円です」


「も、貰いすぎです!」


何かの間違いか、主も紳士も相当な世間知らずかだ。


─怪しい。


カウンター席の男性が笑う。


「食事を作るだけで25万とは驚きだ。そんなうまい話には裏があると思いたくなるのも当然だぜ」


「裏?裏などない。隠すことはない。あるのは護るものだけだ」


─護るもの?


紳士は彩子をしっかりと見詰めた。

その様子に嘘をついていたり騙そうとしているような怪しさは感じられなかった。


「いかがですか?怪しいと思われるなら正直に仰ってください。私は貴女さえ良ければ来ていただきたいと思っております」


相場が分からない。

食事を作るだけで貰いすぎだと思ったが欲が出て頷いてしまった。


カウンター席に座る男性が「契約成立だな」と言って立ち上がった。



──────────



と言うわけで、中津彩子はあの紳士の運転する黒いベンツで何処かへと向かっている。

何処なのかは教えてはくれない。

そう言う契約なのだから仕方がないが、少しだけ不安になる。


シートの座り心地も抜群だし、清潔で静かだ。

働き先の家は豪邸なのかもしれない。

それなのに使用人は3人だけというのはどういう事だろうか。

謎ばかりが浮かんでくるが、結局は到着すれば分かるだろうとすぐに忘れてしまうのだった。


紳士の名前は白藤隆之介。

53歳だそうだ。

ついつい自分の父親と比べてしまうが、比べ物にならないくらい、白藤隆之介は凛としており清潔感が溢れ品格がいい。

晩酌をして毎晩鼻を赤らめながら、一升瓶を抱えてうつらうつらしている父親には悪いが仕方がない。

彼は主の執事兼秘書。

彼の息子の白藤鈴士はその補佐役のような事をしているのだという。


白藤隆之介の妻は全体の家事を行っていたのだが、3年前に事故で亡くなった。


白藤隆之介とバックミラー越しに目があう。


「もう直ぐで到着ですよ。緊張しているのかな?」


「ええ、はい」


播馬(はりま)様は物静かでお優しい方だ。私達を叱る事は全くない。直ぐに慣れるよ。安心しなさい」


「ありがとうございます」


香坂播馬。

今からその人の元で働くのだ。


バックミラーに映る白藤隆之介が何故か少しだけ悲しそうな表情を見せた。




それは想像していたほど大きな建物ではなかった。

彩子の頭の中では首が痛くなるくらいに見上げなければいけない高さを誇る建物だったのだが。

白い壁に木の梁。

テレビなどでよく見る昔の華族が住んでいそうな家だった。

それでも大きな家には間違いない。

一見しただけでも窓がたくさん窺える。


それよりも門を潜ってからの庭に驚いた。

広すぎる。

敷地の6割ほどが庭だった。

何もない緑色の芝生が中央の屋敷を囲んでいた。

それがよけいに屋敷を小さく見せているのだろうか。


三階建てで正面玄関の上には大きなバルコニーがあった。

晴れた日はあそこでランチ、夜にバーベキューをしてもいいかもしれないなぁと想像してみる。

隣家は遠くにあるので多少騒いでも問題はないだろう。

勝手にそう考えると少しだけワクワクした。


車は敷地内の砂利道を進み屋敷裏で停まった。車から降りて直ぐに見かけたのがジーンズに白いシャツを着た若者だった。

肌寒いのにこんなに薄着で大丈夫なのかと思ったが、身体を動かしているようでうっすら汗をかいていた。

屋敷へ入ろうとしていた彼は薪を抱えたままこちらを見た。


「あぁ、丁度良かった。彩子さん。紹介しよう。こいつは倅の鈴士」


白藤鈴士が頭を下げる。

白い肌に父親譲りの凛とした表情はまだ21歳だとは思えないほどに落ち着きがある。


「こちらは中津彩子さん。話していたように、今日から此処で働いてもらう」


彩子は「宜しくお願いします」と頭を下げた。


「それでは、部屋に案内しよう」と言って親子は彩子の荷物を持ってくれた。


「1階が何かと便利だと思うからとりあえず、今はそこを使ってもらうよ。不便なら相談してくれ。地下と3階は播馬様のお部屋。2階は我々が使っている」


裏口を入ってすぐは階段の裏側だった。

その階段を挟んだ両側に通路がある。

床、壁、天井は全て木目を基調としたレトロな室内だが、何か独特な重苦しい雰囲気を持っていた。


白藤隆之介は右側にある扉を指す。


「ここは貯蔵庫。日用品や保存可能な食材をしまっている。その隣の部屋は御手洗いと風呂場、その向こうにはキッチンとダイニング。このダイニングで我々が食事をしている」


そして今度は左側の扉を開けた。


「此処は君の部屋だ。自由に使ってくれ」


そう言うと彩子の荷物を室内に置いた。


「鈴士、ありがとう。仕事に戻って構わないよ」と白藤隆之介は息子に声をかける。


白藤鈴士は一つ頷いて裏口から出て行った。

無口なのだろうか。


「君の部屋の隣。つまり正面玄関の真横になる所には居間がある。そこで播馬様が食事をされる。この屋敷は播馬様の曾祖父である修太郎様が療養所として建てられた物だから、ゲストを迎え入れるようには作られていないのだよ。心配しなくても扉がないから居間と君の部屋は直接行き来できない。では上の階へ行こう」


正面玄関の前に伸びる階段を上がる。

2階は全部で5部屋あり、階段を上りきった所にある向かい合った部屋を白藤親子がそれぞれ使用している。

残りは急な来客に備えているらしい。


3階へ行く。


─いよいよ主人と対面だ。


「この階は播馬様のプライベートスペース」


「地下もそうだと言ってましたよね?どう違うのですか?」


階段を上りきると左側は壁になっており、すぐ右側は扉があった。


「気分によって使い分けていらっしゃる。3階と地下のどちらにもベッドや洋服箪笥があり、どちらでも眠る事もできるし食事もできる」


「食事もですか」


「お部屋で食べたいと仰る事があるからね。さぁ、主人に挨拶だ」そう言って白藤隆之介は身なりを整えた。

彩子も何故か髪を撫で付けてしまう。

白藤隆之介が扉をノックしようとしたその時、突如不安に襲われ彼の腕を掴んで動きを止めてしまった。


「ごめんなさい!今更ですが─私、礼儀とかマナーとかそんなの全然知らないので、失礼な事とかしちゃうかもって言うか、絶対しちゃいます」


白藤隆之介は表情を変えなかった。


「貴女に求めるものは播馬様の健康管理。今はそれだけを考えて」


彩子は「はい」とだけ小さく返事をした。


白藤隆之介がついに扉を叩いた。


「播馬様」と呼び掛けるが返事がない。


少し待ってからもう一度扉を叩く。


「播馬様。いらっしゃいますか?」


それでも返事がない。


「播馬様?開けます」


白藤隆之介は「失礼致します」と言って静かに扉を開けた。


3階はこの部屋だけで埋められているだけあってとても広かった。

カーテンが開かれた大きな窓から光が入ってきてとても明るい。

夜になれば星空が見えるのだろうなと羨ましく思った。

大きなベッドにソファー、テーブル。

テレビや音楽プレイヤー、パソコン機器があり、本棚や洋服箪笥も置いてある。

とても綺麗に掃除がされている。

しかし、誰も居ない。


「外出でもされているのですか?」


「いいや。播馬様は滅多に外出されない。此処に居なければ地下にいらっしゃる」


白藤隆之介は静かに扉を閉めた。


「お仕事は?」


「お祖父様から譲り受けた5建のオフィスビルと2棟のマンションを都内に所有していらっしゃる。この家もそう。播馬様のご両親は播馬様が幼い頃に亡くなられているので、修太郎様の全ての財産は孫の播馬様に譲られた」


─つまりは働かなくてもいいって事?良いご身分ね。


「働いていないわけではない」と彩子の考えを見透かした白藤隆之介が言う。


「絵画の修復をされている」


「絵画?絵画って─絵ですよね?」


「その絵画以外にあるなら教えてくれるか?」


「いや、無いです。凄い仕事ですね」


「そう。凄い仕事だ。主に個人客様からの依頼を受けて修復をされている。さぁ、地下へ行こう」


二人は無言で階段を降りた。

地下への階段は1階の階段裏、つまり裏口の真ん前にあった。

通ってきたはずだが、扉が閉められていたので気が付かなかったのだ。


その階段は狭くて冷たかった。

橙色の光が足元を照らしてくれる。

二人の足音が響いている。


地下の部屋の前に立った。

静かすぎてなんだか怖い。

重厚そうな木の扉が、映画などでよく見る大昔の地下牢を思い起こさせる。

その扉を白藤隆之介が何の戸惑いもなくノックした。


「播馬様。いらっしゃいますか?」


返事を待つ二人。

滅多に外出はしないと言っていたが、今日はたまたまその日だったりしないのかと思ったその時だった。


「ああ」と扉の向こうから聞こえてきた。

静かで落ち着いた声だった。


「新しい使用人を連れて参りました」


使用人なんて言葉は小説やテレビなどでしか耳にしたことがないので現実味がなかった。

自分がその立場なのだと実感するのはいつなのだろうかと暢気に考える。


「入れ」


白藤隆之介は身なりを整えてから彩子に視線をやる。

彩子も倣って先ほどと同じように何故か髪を撫で付けた。


「失礼致します」と白藤隆之介が言ったのでそれを真似して口にする。


その時に「しっつ礼致します」と言葉を詰まらせてしまった。

恥ずかしい。


白藤隆之介が扉を開けて頭を下げた。


─明るい部屋。


室内の様子を確認する間もなく彩子は白藤隆之介の動きを真似する。

いつまで下げていれば良いのかと思っていると、白藤隆之介に腕を引っ張られた。

どうやら長すぎたようだ。


「新しい使用人の中津彩子です」と白藤隆之介が彩子の背中を軽く押した。


「よ、宜しくお願い致します。中津彩子です。お、お世話になりまっす」と頭を下げる。


─こんな感じかしら?


と恐る恐る頭を上げる。


白藤隆之介が言っていたように家具の類いは3階と同じだった。

違うのは閉鎖的な空間か開放的な空間かそれだけだ。


主─香坂播馬は長い足を組みソファーに座って本を読んでいた。

栞代わりにすらりとした指を間に挟んで顔を上げる。

黒い髪を後ろに撫で付けて、無関心にこちらを見た。

目の縁が紅いのが印象的だった。白い肌に痩けた頬。

とても健康とは言えない。

まるで日の光を厭う吸血鬼のようだ。

彼は静かに立ち上がった。


「私は香坂播馬。よく来てくれた。礼を言うよ」


縁が紅い目でこちらを見るその眼差しは、どうも礼を言っているようには思えなかった。


「この者には今日の夕食から支度をさせます」


香坂播馬は「ああ。頼むよ」とだけ言うと再びソファーに座った。


白藤隆之介が「失礼致します」と出て行こうとした時、彩子は何故か口を開いてしまった。


「あの、播馬様」


二人がこちらを見る。

返事をするまで待つべきなのだろうか。

しかし、待っても何も言わなかった。


「あの─好きな食べ物は何ですか?」


怒られるかもしれないと思ったのだが、食べられない物を出して相手の機嫌を損ねたくなかった。


香坂播馬はほんの少しだけ口角を上げた。

笑ったのか?


「食べられない物はない─とだけ言っておくよ」


それだけ言うと書物に視線を落とした。




部屋に戻る時、白藤隆之介が教えてくれた。


「例え口に合わなくても文句は言わない。先ほどのきみの質問だが、それに明確に答えるときみの手を煩わせると考えられたのだ。参考までに言おう─播馬様の好物は温かい手料理だ」




部屋に入って片付けをした。

と言っても持ってきた物は衣類と本、音楽CDと小物だけなのでたいした片付けはしなくてもよかった。


「温かい手料理か─」


朝食は7時半、昼食は12時、夕食は19時。


─あと4時間。


とりあえずキッチンの様子と冷蔵庫を確認してみる。

野菜や肉、魚介類などが揃えてある。

思い出してみれば白藤隆之介はある程度の食材を揃えてあると言っていた。


冷蔵庫と貯蔵庫を見ながら今晩の献立を考える。


キッチンは広すぎるくらいだ。

ほとんど使わないのではないかと思う程、余分なスペースがある。

昔は賑わっていたのかもしれないと想像すると少し哀しくなった。

自分には全く関係の無いことだし、そもそも想像しているだけなのだが。


そして嬉しい事にパンやピザを焼けるようにオーブンがあった。

大きな物ではないが、この人数では十分なサイズだ。

明日の朝食を思い付いた。


一人わくわくしているとダイニングに誰かが入って来た。


「あ、鈴士さん」


彩子に気がついた白藤鈴士は頭を下げた。


「広いキッチンですね。もてあましちゃいます」


「家自体が広いから。敷地も広いし」


喋り方は白藤隆之介に似ているが何処と無く冷たさを感じる。


「鈴士さんは大学生?」


「そう」


「此処から通っているのですか?」


「そう。あ、敬語は使わなくていいから」


白藤鈴士はウォーターサーバーの水をコップに注いで飲んだ。


「じゃあ、遠慮なく。ねぇ、このオーブン。明日の朝に使いたいんだけど」


「何時頃?」とオーブンをチラリと見る。


「7時くらいかな」


「分かった」


「教えてくれたら自分でやるけど」


「明日教えるよ」


「鈴士くんと隆之介さんに食べられない物はある?」


「俺たち?これと言って無いけど──何で?」


「あなたたちのご飯も作るのよ?」


「お、俺たちのも?」と驚いた表情をみせる。


「そのつもりだったんだけど─いらない?」


「い、いる。ありがとう。助かるよ。俺も親父も苦手でさ。親父も喜ぶよ」


そう言って白藤鈴士がやっと笑った。




夕食を作っていると白藤隆之介がキッチンへ入って来た。


「美味そうな薫りだ」


「ハンバーグとオニオンスープです。皆さんの分もありますよ」


白藤隆之介は嬉しそうに何度か頷いた。

本当に料理が苦手なのだろう。


「毒見─されますか?」


「ど、ど」と彩子の目の前で初めて動揺する白藤隆之介。

紳士をからかうのは楽しい。


「毒見だと?」


「だって、ほら。偉い人って家来とかに毒見させてたんでしょ?もちろん毒なんて入れてませんけど。ご心配ならどうぞ」


「馬鹿を言うな。それは食材の味がおかしくないか、腹が痛くならないか、とか。安全性を確かめるためにもやるのだ。食材は新鮮だから問題ない。それとも危険な物でも入っているのか?」


「嫌だなぁ。もう。皆さんを苦しめて私に何の利があるのです?単なる味見ですよ」と言ってオニオンスープを一口飲んでみせた。


「味の加減が分からないのでお願いしたかったのですよ」


白藤隆之介に匙を差し出す。


白藤隆之介はそれを受け取って小皿にスープを少し乗せると一口飲んだ。


「うん。上手い」


誉められると嬉しい。





香坂播馬は定刻に席につき、出される物を黙々と平らげた。

上品かつ男らしい食べっぷりだ。

しかし、目の縁の紅みは取れておらず、周囲に無関心だと思っていた印象も拭う事はできなかった。


完食すると香坂播馬はぬっと立ち上がった。

そして、隠れて食事の様子を見ていた彩子の元へ来た。

どういう反応をするか心配だったのだ。


「美味かった。ありがとう。これからも宜しく頼むよ」と感情がこもっていない声色でそう言うと、階段を上がって行った。



その後、白藤親子と三人で食事をした。


「あのぅ─播馬様は満足されたのでしょうか?」


「大丈夫。美味そうに召し上がっていらした」と白藤隆之介も満足そうに答える。


「そうですか。それなら良いのですけど」


「何か問題があるのか?」


「いいえ。そうじゃなくて。一つ気になる事があって」


親子が同時にこちらを見た。


「隆之介さんと初めてお会いした時に言ってらした言葉」


「私が何か?」


「怪しい事はない。あるものは護るべきものだけだ、と」


護るべきもの。

白藤隆之介のこれまでの様子からして香坂播馬は護るべき者なのだろうが、彩子と歳の変わらない成人男性を護るべきだなんて過保護にも程がある。

だから護るべきものは香坂家の財産なのだろうかと考えたが、富に執着している様子は窺えない。

この家は他者からの接触を拒み、孤立を求めているように思える。

その状態で何から何を護るのか。

香坂家を貶める何か、害を成す何かから護る。

それはいったい何なのだろう。


「言ったかな、そんな事」


「はい。しっかりと聞きました」


─惚けないでよね。


「なに。きみの気にするような事ではない」


「私も香坂家にお仕えする身なら知っておくべきじゃないのですか?」


─隠そうったってそうはいかないわよ!


「いずれ分かる。何から何を護るのか。きみ自身で考えるのだ」


─あ、上手い事言って逃げたな。執事め。


「しかし、一つ忠告しておこう。好奇心だけで動く事はしてはいけない。食事、美味かった。明日からも頼むよ」


白藤隆之介は食器を洗い場に持っていき部屋から出て行った。


何かヒントを得ようと白藤鈴士を見たが急いで立ち上がり食器を洗い場まで持って行くとそのまま出て行ってしまった。


その日の夜。

明日の朝食の下拵えをして風呂に入り、部屋へ戻った。

よく分からないうちに一日が終わったように思う。

ベッドはふかふかだし、ソファーの手触りも気持ちがいいのが嬉しい。

やはりお金持ちなのだ。


─使う所がないだけか?


大きな窓から外を見る。

月は見えないが、その明かりが周囲の芝生を照らしていた。

何とも幻想的で現実感がない風景だった。


布団に潜り、目を閉じると疲れていたのか、直ぐに眠りにつく事ができた。


翌朝、6時に目を覚ました。

身支度をしてからキッチンへ入るとそこにはすでに白藤親子がダイニングにいた。

どうやら、紅茶を飲んでいるようだ。


「おはようございます」


「おはよう。よく眠れたかい?」


「はい。ふかふかで気持ちが良かったです」


「そう。それは良かった。播馬様のお気遣いなのだよ。きみが来るに当たって上質の物を仕入れた」


「あら、私なんかのためにそんな事まで?」


─無関心なように見えて意外と気がまわるのか。


「せめてものお礼だそうだ。こんな辺鄙な場所で男に囲まれてむさ苦しいだろうとね」


「むさ苦しいだなんて。皆さんとても清潔です」


そう言うと親子は笑った。


「清潔、とな。まぁありがとう」


そう言うと、白藤隆之介は立ち上がってカップを洗い場に置いてキッチンを後にした。


その後、白藤鈴士からオーブンの使い方を教えてもらい、昨晩仕込んでいたパンの生地を焼いた。


香ばしい良い薫りか漂い、完成が待ち遠しくなる。

その間に他の食材を準備する。

朝食なので手の込んだ物は作らない。

あっさりと食べやすい物。

サラダに目玉焼きとベーコン。

手作りの小さめのブールにヨーグルト。


焼きあがったパンのあら熱を取り、丁度良い頃合いになると香坂播馬が現れた。

キッチンをちらりとだけ見て居間に向かった。

相変わらず目の縁は赤く、無愛想だ。


香坂播馬は寝起きのせいか、少し目がとろりとしており、機械的に食事をしていた。



──────────



それから1ヶ月。

食事を作り続けた。

香坂播馬はあまり話をしない。

白藤親子とも無駄な話は一切していないが、関係性が悪いわけではない。

単純に香坂播馬が周囲に無関心なだけなのだと分かるのに時間はかからなかった。


食事以外の時間は部屋に戻り、何処かの金持ちから依頼を受けた絵画の修復をしている。

たまに屋敷内をうろついて、縁の紅い目で羨ましそうに外を眺めているが、一歩も出ようとしない。

自宅の庭にも出ないのが少し異様に思えた。

病気か何かであれば、食事にも気を付けねばならないと思い白藤隆之介にその様な事を訊ねてみても健康体だと答えが返ってきただけだった。


「お外に出られますか?」と話し掛けても「いいや」とか「ん」としか言わない。


「2階のバルコニーで昼食をとられませんか?」と聞いてみても頚を縦には振らない。

その事を白藤隆之介に言うと「余計な事は言わないように」と何故かたしなめられた。


ある日、香坂播馬と白藤隆之介が顧客の元へ行く事になった。

夜には戻るが夕食は外で済ませると言う。

大学生の白藤鈴士も不在のためその晩は彩子一人だった。


昼過ぎから一人だった。

せっかくなのでバルコニーでランチをする事にした。

誰もいないので気兼ねせず楽しめる。

いても構わないのだが、香坂播馬の潤んだ目を考えると遠慮してしまう。


その時、インターフォンが鳴った。

モニターで確認して門まで出向かなければいけないとなると、とても面倒臭い。

緩慢な動作でモニターの場所まで行く。


─なに。誰も居ないじゃない。


対応するのが遅かったのか、ただの悪戯かだと思い、バルコニーの食器を片付ける。

すると再びインターフォンが鳴った。

今度は急いでモニターを確認する。


─なによ。もう。


また誰も居なかった。

気持ちが悪かったが、一応門まで出てみる事にした。


表玄関から出て、徒歩2分ほどで門扉までに辿り着く。


─ああ、もう。面倒くさいなぁ。隆之介さんが不在の時に限ってなんでよ。


と、不満を垂れていると到着した。


やはり、誰も居なかった。


「ほら、もう!嫌になっちゃう」と一人プリプリしながら玄関に引き返した。

すると、玄関の扉に何か立て掛けてあるのを見つけた。


手にとって見ると白い封筒だった。

表には『香坂播馬様』とだけあり、裏には筆記体で『M・G』とあった。

切手もないし、住所も書かれていない。

ついさっき、門扉へ向かう時にはこんな物はなかった。

もし、あったとしても扉に立て掛けてあるのはおかしい。

門扉へ向かう時にこの封筒が此処に存在していたならば、倒れていなければならない。

だから、この封筒が置かれたのは彩子が門扉へ向かっている最中としか考えられない。


彩子は辺りを見た。


─この敷地内に誰かいる?


屋敷内に侵入されていれば警報器が作動するので庭に潜んでいる可能性が大きい。


彩子は急いで玄関から屋敷に入り、鍵をかけると、全室のセキュリティをチェックした。


不備や故障はないようだ。

とりあえず、屋敷から出なければ安全だと胸を撫で下ろす。


白藤隆之介か鈴士に連絡をしてみようと思ったが、思い過ごしかもしれないと考えてそれは止した。

しかし、少し不気味なので普段はあまり見ないテレビをつけて気を紛らわす事にした。


芸能人の裏話などどうでも良いことを好き放題言っている。

局を変えてみても最近の流行り物やユニークな雑貨を取り上げ、面白おかしく喋っているだけで、やはりつまらない。

しばらく、ぼうっとしていると報道フロアからニュースが読まれた。

どうやら火事が起きたようだ。

彩子も知っている町の名前が読まれた。

焼け跡から一人の遺体が発見されたが、家主と連絡がとれないらしい。

遺体の身元確認を急いでいるという事だった。


─遺体は家主だな。


番組は再びつまらない物に切り替わったので、堪らなくなりテレビを消した。


先ほどの手紙が目の前にある。


─気になる。


M・G。

イニシャルだろうか。

薄っぺらな封筒だ。

光に透かして見たが中身が分かるわけない。

万年筆で書かれたのであろう文字はとても綺麗だ。

この手紙を置いたのは誰だろう。

まだ庭に潜んでいるのだろうか。

もし、彩子の予想していた方法で手紙を置いたのであれば見事な素早さと手際に感服するしかない。


─ちゃんと郵便受けがあるのに、わざわざご苦労な事ね。


夜の8時になると二人は帰ってきた。

言っていた時間通りだ。


「鈴士はまだか?」と白藤隆之介。


「えぇ、まだです」


「今日は遅くなると言っていたかな?」


「はい。大学のお友達と出掛けているみたいで」


「ああ、そうか。─今日は一日留守番をありがとう。此処に来て初めて一人になったのではないか?久しぶりにゆっくりとできたのではないかな」


「行動はいつもと変わりません。あ、ただ─」と白藤隆之介に昼間の出来事を話す。


不思議な事に、次第に白藤隆之介の表情が険しくなってきた。


「こんな事はよくあるのですか?」


「そんなことはない。その手紙は何処に?」


少し動揺しているように見えるのは気のせいだろうか。


「これです」と白藤隆之介の前に宛名が見えるようにそれを翳す。

彩子の目の前にはM・Gという文字。


「住所ないし。変でしょ?絶対敷地内に入ったんですよ。でも見かけなかった。凄くないですか?一瞬のうちの話ですよ。超能力でもあるのかしら」


「この手紙の存在を播馬様には知られないようにしなければならない」


白藤隆之介は何故か低く囁くような声でそう言った。

それほどまで香坂播馬には知られたくないのだろうが残念だった。


「もう、遅いです」


その言葉と彩子の視線に白藤隆之介が振り返る。

相変わらず目の縁が紅い香坂播馬が蒼白い顔で立っていた。


「それは」と蚊のなくような声でそう言うとこちらに近付いてきた。


一歩ずつ。

一歩ずつ。

何かにすがるように手を伸ばすが、思うように腕が挙がらない。


その姿を見て何故か哀しくなってくる。


「そ─それは」


白藤隆之介は彩子の手にある封筒を素早く取ると、身体を香坂播馬に向け、手を後ろに回した。


「白藤。それは─。それを見せてくれ」


「なりません」


香坂播馬は何か言いたげに視線をさ迷わせる。

眼球が充血している。


「白藤?」と声を震わせる。


「なりません!絶対に!」


香坂播馬は頚をだらりと下げ「うぅ」と小さく呻いた。


「播馬様。御風呂に入られるのがよろしいかと。本日はお疲れでしょう」と白藤隆之介がわざとらしいくらい明るく言う。


「ねぇ、君?」と香坂播馬が彩子を見た。

蒼白い肌に今や全体が紅くなっている目。

その美しい色彩が何故か胸を締め付けた。

湿った睫毛に宿る涙がとても綺麗だった。


「彩子。─きみは見たのか?」


「な、何をでしょうか?」


香坂播馬が彩子の肩を力強く掴む。

そして、助けを求めるような目で彩子を見た。


「手紙を置いた人物」


「─いいえ」


「思い出せ」と身体を揺さぶる。


「み、見てません」


「嘘だ」


香坂播馬は今にも彩子に食い付きそうな表情でそう言うと、今度は突き放した。


「播馬様」と白藤隆之介が香坂播馬の腕にそっと触れる。

スーツのポケットから封筒が覗いていた。


「彩子さん。播馬様はとてもお疲れだ。今すぐ眠られる。睡眠薬を用意してくれ。今日は地下だ」


香坂播馬は聞こえないくらいの声で何か言っていた。


「あ、でも─御風呂」


「今、すぐ、だ」と見たこともないような恐ろしい目付きで彩子を見る白藤隆之介は香坂播馬を連れて地下へ降りて行った。


訳が分からないままに睡眠薬と水を持って地下へ向かう。


部屋に入ると背中を丸めた香坂播馬がベッドに腰掛けていた。

ベッド脇に立つ白藤隆之介に睡眠薬と水を渡す。


「播馬様。飲んでください」


「嫌だ」


子供のようだ。


「御約束です。飲んでください」


「お前が勝手に決めたんだ」


「播馬様はそれを了承されました」


香坂播馬は薬を受け取ると口に入れ、水を飲んだ。


「御休みなさいませ」と言って白藤隆之介が頭を下げたので、彩子も同じようにそう言ってから頭を下げると二人で部屋を出た。


居間で紅茶を飲もうと白藤隆之介に提案したが断られた。


「すまない。気になると思うが─何も話せない」


少し不満に思ったが、とても哀しい様子だったのでそれ以上は何も言えなかった。


その晩はなかなか寝付けなかった。

香坂播馬は何故あんなに哀しそうだったのだろうか。

そして、白藤隆之介は何を隠そうとしていたのだろうか。

あの様子だと、香坂播馬は白藤隆之介が何かを隠そうとしているという事を承知している。

何故そのような事をしなければならないのかも分かっているようだ。


─あの手紙は一体何なのだろう。


布団から出る。

もうすぐ春になるが、まだまだ冷える床板が足に凍みる。

そっとスリッパを履いた。

二階のバルコニーで星を見ようと思ったのだ。

ガウンを羽織り静かに部屋を出る。

途中、キッチンに寄り温かいミルクをマグカップに注いだ。

湯気の立つマグカップを両手で包みながら階段に向かう。


その時、薄暗い居間に人影があったので驚いてミルクを溢しそうになった。

人影は窓際にある椅子に座り、羨ましそうに外を眺めていた。

声をかけてはいけないと思ったのだが、気付かれてしまっていた。


「驚いたかい?」


睡眠薬で眠っているはずの香坂播馬はこちらを見ずにそう言った。


「はい。あの─て、てっきり御休みになられているかと─。今、その─バルコニーで温かいミルクを飲もうと─。播馬様も飲まれますか?」


「いいや。いらない。ありがとう。星が綺麗で良い夜だ。─眠れないんだね?」


「はい─」


「さっきの事があるから?」とこちらを見た香坂播馬。

その質問に答えられなかった。

月の明かりが左から射している。

相手の表情は分からない。


「─私もそうなんだ。眠れない」


「睡眠薬は効きませんでしたか?」


香坂播馬はふふっと小さく笑った。


「睡眠薬─。飲んでいない」


「飲んでいない?」


「飲んだふりをしていただけだ」


飲んだように見えた。

いや、あれは飲んでいたはずだ。

錠剤が口に入るのを見たし、その後に水も飲んでいた。


香坂播馬は再びふふっと小さく笑った。


「ラムネ」


「ラムネ?」


「そう。すり替えた。気が付かれないように。すり替えた」


「─すごい。すっかり、騙されました」と彩子が笑う。


「白藤は私の事を想ってしてくれているのだが。─眠りたくなかったからね」


「眠りたくない?」


「──時にね、夜が静かに、こう─床を這うんだ」


香坂播馬は細い指を床と平行にゆっくりと静かに動かした。


「霧のようにゆったりと。私はそれを感じて眠れない。秘かな囁きが─私の名を呼びはしないかと、しんとした闇で耳をすませる。しかし─」と言って立ち上がって彩子の近くまで来た。

目の充血は取れていない。


「それを感じとる前に─朝が来てしまう」


「囁きが聞こえたことは?」


「私はその囁きが聞こえるまで─眠れない。──もう寝るとするよ」


「お、御休みなさいませ」と頭を下げる。


「まだ夜風が冷たい。身体を冷やさないようにね」


そう言って香坂播馬は消えて行った。


何だか気が抜けてしまったのでバルコニーには行かずに部屋へ戻った。

頭の中では先程の言葉が巡っていた。


─夜が静かに床を這う。秘かな囁きが聞こえないかと耳をすませる。


香坂播馬の言動はあの手紙と関係があるはずだ。


布団に入り、目を閉じて夜が静かに床を這うのを感じとろうとした。


─意味が分からない。


何も聞こえないし、何も感じない。


─護るべきものとも関係があるのかしら?


そんな事を考えているといつの間にか眠っていた。




翌朝、キッチンから物音がした。

いつもの事だから白藤隆之介かと思ったのだが、違った。


「播馬様?」


この時間に起きてくるのは初めてだったのでどうすればいいのか分からない。

香坂播馬は新聞に食らい付きそうな勢いで何かを探していた。


「お、お茶を淹れましょうか?」


香坂播馬の手が止まった。


「お飲み物をお持ちします」


ゆっくりとこちらを見る香坂播馬の紅い目があっという間に涙を溜めた。

顔色も蒼白く、とても弱々しい。

彩子は焦った。


「御加減が優れませんか?」


「鋏を─」


「ハ─ハサミ?」


「鋏をくれ」


何を言ってるのかと思った。

そんな状態で鋏を渡して何をする気なのだ?


「な、何をされるのです?」


「切るのだ。─これを」と広げた新聞にある掌サイズの記事をこつこつと叩いた。


─放火殺人?


それは彩子が昨日テレビで見たニュースの記事だった。

なんと、焼け跡から発見された遺体は家主ではなかったという。


「これを─切るのですか?」


こくりと頷く香坂播馬。


「わ、私が切ります」と念のため香坂播馬にハサミを持たせないようにした。


記事を慎重に切り取り、それを香坂播馬に渡す。


香坂播馬は「うぅ」と小さく呻いて立ち上がると地下室へと戻って行った。

それと入れ換わりに白藤隆之介がダイニングへ入ってきた。

彼は机に広げられた新聞紙が切り抜かれているのを見付けるとため息をついた。


「おはようございます」


「おはよう。播馬様が起きていらしたのか?」


「はい。そこにあった火事の記事を欲しがられていましたので、切って差し上げました」


「─そうか。御様子は?」


「何だか─苦しそうでした」


白藤隆之介は小さく頷くと、自ら紅茶を淹れた。


「あの─」


呼び掛けると白藤隆之介がこちらを見た。

その表情にぎょっとする。

目の周りにクマができ、瞳は枯れている。

10歳くらい老け込んだように見えたのだ。

香坂播馬といい、白藤隆之介といい二人に何があったのか。


「り、隆之介さんもお疲れのようです。少し御休みになってください」


「疲れてはいない」


「でも─」


「今日は昼過ぎから修復する絵を引き取りに出掛ける。連日で悪いが私と播馬様は出掛ける」


「はい」


それは昨日も聞いた。

今日は白藤鈴士がいるので不審な事があっても幾分か心強い。


「鈴士さんは?」


「あいつなら一時間ほど前に帰ってきた。暫くは起きてこないだろう。酒が入っていたようだからなかなか起きない。あいつの事は放っておきなさい」





その言葉通り、白藤鈴士は昼になり二人が出掛けても起きてこなかった。


─つまらん!


広い屋敷だから余計に孤独を感じる。

テレビを見ようとは思わなかった。

また下らないトーク番組しか放送していないのだろうし。


─あ。


昨日の火事のニュース。

その記事を切り取った香坂播馬。

そして、それを悲しんだ白藤隆之介。


彩子の脳裏に嫌な予感が廻った。

あの火事にあの二人が関係していたらどうしようか。

そうなれば、自分は犯罪者と暮らしているという事になる。

しかし、そんな自分の考えは浅はかで下らないと思い直す。

二人がそんな事をするはずがないのだ。

根拠はないが、彩子は二人を信頼している。


しかし、彩子の中の好奇心がむくむくと起き上がった。

そして、それが弾けるのに時間はかからなかった。


関係ないのなら何故記事を欲しがったのか、それが気になった。

白藤隆之介の「好奇心で動いてはいけない」と言う忠告を思い出したが、忘れているふりをして彩子は飲みかけの紅茶をダイニングに残し、地下へと向かった。


扉に鍵はないので簡単に入る事ができた。

暗いので扉の近くにある電気をつける。

とても綺麗に掃除がされており無駄な物は一切ない。


扉から左手側に部屋が伸びており、そのまた左側へL字に曲がっている。

その直角に曲がった部分にベッドが置かれており、見えない奥の部分に仕事場があるのだ。


とりあえず部屋に入ってすぐにある机の上を見てみた。

図鑑や難しそうな本が並んでいるだけで探しているものは見付かりそうもない。

隣の本棚も見てみたが、目の引く物はなかった。


ベッド脇にあるナイトテーブルには小さな照明と読みかけの本があった。

それをパラパラと捲ってみたが、ここにも何もない。


─さすがに引き出しの中はまずいよなぁ。


などと思ったのだが、既に部屋に忍び込んでいる時点でアウトだ。

ここまで来たなら徹底的に、と思って引き出しを開けた。

そこにあったのは質素な本だった。


─あ、いや。これは本じゃない。スクラップブックか。


探していたものが見つかったのだ。

たいして隠されていたわけではないので、案外簡単に見付ける事ができた。


表紙を捲り、中を見た。


そこには、新聞の切り抜きがあった。

手書きで記された日付は5年前。


─高層ビルで50歳の女性が転落死。事故か自殺かは不明。


彩子は本棚の前にあるソファに腰掛けた。


その次の頁には『女性転落死。自殺と判断』と言う捜査結果のような物が載った記事が張り付けてある。

新聞の中からこの記事を見付け出すのに苦労しただろうなと思うほど小さな記事だった。


次の記事は、列車事故。

特急電車に巻き込まれた58歳の男性。

彼は線路に横たわった状態で即死した。

これも、自殺と判断された。


次の切り抜きは、通り魔殺人。

被害者は52歳の女性。

金品は盗まれておらず、目撃者がいなかったので、捜査は難航したようだ。

関連記事がないので、未だに捕まっていないのだろう。


この三件は全て5年前の日付になっている。



それから4年前、3年前──という風に記事を流し読みしていく。

この5年の間に11の事件。

殺人や自殺、事故といった内容で全ての被害者が既にこの世にはいない。

最終の切り抜きは先日の火災事件だ。


─な、何でこんな記事をスクラップするの。


落ち着こうと大きく息を吸う。

まさか、本当に関係があるのか──?


「何を考えているか当ててやろうか?」と声が聞こえてきたので、心臓が飛び出る程驚いて扉を見た。


「鈴士くん。起きたのね」


「起きたら誰もいなくて。親父と播馬様は出掛けると聞いていたから不思議には思わなかった。だけど、飲みかけの紅茶があるのに貴女がいない」


「よく、ここだと分かったね」


「まぁ、予感だよ。ここにいるだろうとね。──きみは親父に言われたはずだ」


白藤鈴士は彩子の手からスクラップブックを奪い取ると、机に凭れるようにして座った。


「好奇心で動いてはいけない、とね」


スクラップブックを見せ付けるようにして小さく振った。


「忘れたのか?忠告を」


白藤鈴士の表情に微かな怒りが見えた。

この家の住人は─何故─こんなに必死なのだろう。

そして、何に対して怒りを持っているのだろう。


「ごめんなさい。私─」


「先に言っておく。見当違いだ」


「私は何も」


「その不安げな表情と隠れて主人の部屋に忍び込んでいるというだけで彩子さんの考えは読めているよ」


白藤鈴士はスクラップブックをナイトテーブルの引き出しの中へと戻すと彩子を部屋の外へ連れ出した。

ダイニングに戻った二人は向かい合って座ると、炒れ直した紅茶を無言で飲んでいる。

気まずいのか何なのか分からない。

彩子の考えが読めると言っていた。

それは、彩子が香坂播馬と白藤隆之介を疑っているという事を言っているに違いない。

そして、それは見当違いだと。


二人が関係ないのなら何故あんな記事をスクラップするのか。

そして、何故それを隠したがるのか。

こんな事、不審に思うなという方が無理なのだ。


彩子の考えを見抜いたのか「腑に落ちないって表情だね」と白藤鈴士が苦笑いを浮かべた。


「見当違いって言ったけど、じゃあ何故あんな記事をスクラップするの?どれを取ってみても繋がりが無さそうに見える。もし、興味本位とか趣向だけで、あんなに几帳面に収集してたら─私、もうここでは働けない。─でも」


彩子が言葉を詰まらせても白藤鈴士は口を挟まなかった。


「でも、それは違うような気がする。播馬様はあの記事に直接の関わりはないし、不謹慎な事はしない。そう確信できる」


「じゃあ彩子さんが気になるってのは─何故、記事を収集しているか、だね?」


彩子は「そう」と小さく頷いた。


「あの記事とは無関係だと確信できた今、それを知る必要があると彩子さんは思う?」


「無関係でした、だけでこの気持ちを整理しろって言う方が無理だと思わない?」


「彩子さん。この際、貴女の気持ちは関係ない。大切にしなければならないのは香坂播馬。この家の主だ。今日、彩子さんが地下へ行った事は黙っているよ。だから彩子さん、貴女もこの事は誰にも言わないで。親父にも、勿論播馬様ご本人にも。記事に関係する事は口にしないで。いいね?」


白藤鈴士はそう言ってから立ち上がると彩子を見つめた。

どうやら返事を待っているようだ。


「─分かった」


彩子のふてぶてしい態度を意に介さず満足そうに頷く。

その場を去ろうとする白藤鈴士を呼び止める。


「もしかして─以前話していた、護るべきものと関係あるの?」


白藤鈴士はただ黙って立てた人差し指を唇に当てるとその場を後にした。




その日の晩、香坂播馬、白藤鈴士が部屋へ戻ったのを見計らって紅茶を飲もうと白藤隆之介を誘い出した。


「隆之介さんはいつから播馬様の元で働いているのですか?」


それとは気が付かれないよう、探りを入れるつもりでそう聞いた。


「昔の私は今の鈴士と同じだ。親と共に住み込みで屋敷にいた。私も20歳で立派な大人だったからね、産まれたばかりの播馬様の成長を見るのが楽しくて嬉しかったよ」


その時の事を思い出したのだろう、白藤隆之介は優しく微笑んだ。


「そんなに長くこのお屋敷に?」


「元は此処よりも遠く離れた何もない田舎だけどね。先にも言ったように、此処は播馬様のお祖父様の修太郎様が療養所として建てられたお屋敷。播馬様が10歳の時に御両親が亡くなられて、その後直ぐに播馬様は此方に移られた。同時に私共も此方に移ったのだよ。後に修太郎様も移られる」


「御両親は何故、亡くなられたのですか?」


「悲惨な事故だ」ときっぱり言う白藤隆之介の目には微かに涙が滲んでいた。


「元のお屋敷は何処にあるのですか?」


「もうない」


「ない?─存在しないって事?」


「そう」


何故、とは聞かなかった。

これ以上突っ込んで聴くと怪しまれる気がしたのだ。


「─今は立派なマンションが建っている」


「遠く離れた田舎に立派なマンションですか?」


「そうではないよ。播馬様がお生まれになられた時は、深端五(みはない)谷と云う村で御両親と暮らしていた。そこは、本当に何もない静かな田舎だった。それから深端五谷に開発の手が入り、これを機会にと修太郎様が暮らしていらっしゃる都内へと移られたのだ。その都内に建てられたお屋敷がマンションになったのだよ」


「じゃあ、播馬様にとってこのお屋敷は三件目の家って事?お友達とも離れちゃったのね」


「そう」


白藤隆之介は何だか悲しそうな顔をした。


「深端五谷から離れて何年経つのですか?」


「播馬様が8歳の時だから─もう25年になるな」


「では、2年間、都内で暮らしていたのですね。住み込みで働いていたのは隆之介さんたちだけなのですか?」


「そうだが─妙な事を聞くのだな。懐かしいが」と小さく笑った。


─やばい。怪しまれる。


「昔から引っ越しをされていたのなら、播馬様にお友達は?」


「修太郎様もそれには嘆いていらした。物腰は柔らかく内気な性格で昔から物静かな方だ。ほとんど外に出なくなってしまわれた」


「では─友達はいらっしゃらない?」


白藤隆之介は悲しそうに頷いた。


─では、あの手紙は?


「それでも学生の時分は仲良くしていた方もいらした。交際されていた女性も何人かいた。しかし、連中は播馬様の家柄に魅了されていただけの薄汚い輩だったのだ」


「播馬様と一緒に居れば苦労はしない、と?」


さっきは悲しそうだった白藤隆之介だったが、今度は憎らしげに頷く。


「親の差し金でもあったのだろう。しかし、低俗な連中の本性を直ぐに見抜かれた播馬様はそいつらを一蹴された。金を目当てに寄り付く奴等を逆手に取り辛酸を舐めさせたのだ。それから播馬様は人を信じないし、疑う事も期待もしない。何かを与えようとしない、求めもしない」


「─人に、無関心」


「そう」


二人は同時にカップに口をつけた。

紅茶はもうすっかり冷たくなってしまい美味しくない。


「無関心なのに─何故?」


「何がだ?」


「何故、あの手紙には強く関心を持たれたのですか?」


白藤隆之介の顔色が一瞬にして変わった。


「知らなくてもいい」と逃げるように立ち上がる。


「隆之介さんが教えてくれないのなら、播馬様に聞きます!」


「ば、ば、馬鹿な事を言うんじゃない!」


白藤隆之介は焦ってカップを落としそうになった。


「そ、そんな事は駄目だ!」


「何故です?聞いたらどうなるのです?」


「ど、どうなるって──。動揺される」


「何故、動揺されるのです?」


「だ、だってそれは──い、言える訳がないだろう。騙されないぞ!」


彩子は何だかこの微笑ましい忠実な紳士が可哀想になってきたのでからかうのを止めた。


「ごめんなさい。もう聞きません。安心してください」と頭を下げる。


白藤隆之介は安心したように小さく頷くと「それでは、休ませてもらう」と言って部屋へ戻った。




それから意味の分からない手紙が届く事はなく、香坂播馬も取り乱す事はなかった。

とは言っても、香坂播馬の言動は元から不思議なのだけど。

相変わらず目の縁は紅く、顔色は悪い。

周囲に無関心なくせに羨ましそうに外を眺めるのも変わりがない。


白藤隆之介と鈴士も暫くは気張っていたように見えたが、それも落ち着いた。


一度だけ、インターネットで深端五谷の事を調べてみたのだが、もう名前も変わってしまっているのか、見付け出せなかった。

暫く経って彩子自身、手紙の事もスクラップブックの事も気にしなくなってきた。

ふと思い出す事もあるのだが、勝手な行動は慎むようにした。



ある日、白藤隆之介が食材の調達に行くと言うので付いていく事にした。

もちろん、高級食材だけを取り扱う会員制の店だ。

週に一度だけ、買いに出掛けるのだが、気晴らしにもなるのでたまにこうして一緒に出掛ける事にしている。

それ以外は外出などした事がない。

だから近所に住む人の名前も顔も未だに知らない。

そこについては香坂播馬と何ら変わりはないのだ。

彼も商用以外は外に出ない。

頑なにそれを拒むほどだ。

近所の住人も訪ねて来た事もない。


白藤隆之介が日用品を見てまわる間、彩子は食材を見る事にした。

初めの頃は値段を見て購入を躊躇していたのだが、最近は感覚が麻痺してきたのか、昔では考えられなかった鶏肉100グラムの値段を安いと思ってしまう。

慣れというものは恐ろしい。


そんな感じで、見てまわっていると一人の女性に話し掛けられた。


細身の長身に似合う薄いブラウンのパンツスーツ。

腰までの栗色の髪の毛は少しパーマがあてられている。

切れ長の目はとても冷たく、肌も血管が透けて見える程、白く寒々しい。

その声も冷たかったが、口調はゆったりと穏やかだったので、なんだか凄く冷酷な印象を受けた。


「おたく、香坂様の使用人の方?」


少し苛つく言葉遣い。

彩子は相手はお嬢様なのだろうと判断する。


「はい」


─でも、おかしい。


「播馬様はお元気?」


「はい」


─毎日三食完食。元気だ、と思う。


「あなたがお料理を作られているのね」


「はい」


「お口に合うのですね」とクスクス笑う。


─何だろう、この女。苛苛するのだが少し、おかしい。


「わたくし、ご近所に住んでいるのですよ」


「私、あまり外に出ないので─」


「その様で御座いますね」と言って再びクスクスと笑った。


「それでは、ごめんあそばせ」と女は去って行った。


─ごめんあそばせって。


と可笑しくなって小さく笑ってしまったその時、再び女に話し掛けられた。


「こちら、落とされましたよ」と差し出されたのは──


「─嘘」


恐る恐るそれを受けとる。


「どこでこれを?」


「嫌ですわ。あなたの足元に落ちていましたのよ」とクスクス笑ってご機嫌ようと言って去って行った。


香坂播馬様と書かれた封筒。

差出人もあの時のまま。


─M・G。


これは新しい手紙なのか、それとも先日白藤隆之介が預かった物でたまたま彩子の持ち物に紛れ込んだのか。

後者だとしても今ままで肌身放さずに持っているのはおかしい。


それでは、この手紙は何処から来たのだろう。

あの女性は足元に落ちていましたと言っていたが、誰かが彩子の持ち物に忍び込ませ、それを気付かずに落としてしまったのだろうか。


白藤隆之介に報告すべきか、それとも秘密にして──


肩を叩かれた。


再びあの女かと思ったが、白藤隆之介だった。


「買うものは決まったかね?」


「え?─あぁ、はい」


白藤隆之介の視線が彩子の手元に移ったのが分かった。

相手の表情を伺う。

白藤隆之介は厳しい顔付きで彩子を見ると周囲を確認し、そっと手紙を取った。


「この手紙、何処で手にいれた?」


「落ちていました」


「何処に?」


彩子は自分の足元を指差した。


「此所に?」


「そうです。─何処からやって来たのか分からなくて。誰かが私のハンドバッグに忍び込ませようとしたのですかね?」


「バッグは閉めていたのか?」


彩子はそれを確認する。


「あ。閉まってる」


ファスナーは確りと閉められていた。

忍び込ませる事は不可能だ。


白藤隆之介は再び周囲を見た。


「何か変わった事は?」と少し狼狽している。


「いや。別に」


「誰かに当たられたとか、肩を叩かれたとか」


「─あ。うん。あった」


「な、なに?」


「私、手紙が足元に落ちているのを見ていません」


「どういう事だ?」


「少し前です。此所で鶏肉を見ていたら女性に話し掛けられたのです。その人、近所に住んでいるって言ってたけど、私見かけた事なくて。そもそも外出なんて滅多にしないのに、何で私を知ってるのか疑問に思ったんですよね。で、一旦は別れたんですが、また直ぐ後に肩を叩かれて、落としましたよってこの手紙を渡されたのです」


さっき疑問に思ったのはこの事だった。

外出などしないのに、何故彩子が香坂家の使用人で食事担当だという事まで言い当てたのだろう。


白藤隆之介は少し固まっていたが、小さく頭を振った。


「どんな女性だった?」


「歳は多分、私と同じくらい。33歳か34歳かな。長身で色白。クリーム色のスーツを着ていました。髪は長かったな」


白藤隆之介は苦虫を噛んだような顔をした。


「一体これは何なのですか?」と素早い動きで白藤隆之介から手紙を奪いかえす。

一瞬、気を弛めていた白藤隆之介は驚いて彩子を見た後「─車内で話そう」と言った。


会計を済ませ、車に戻る。

屋敷に着くまで40分程だ。

彩子は白藤隆之介が話し出すまで何も聞かない事にした。

静かな車内の空気に緊張感を感じた。

何だか少し恐ろしくなってきた。

やっぱり、聞かなくていいかもとまで思う。


「深端五谷に住んでいた時の事だ」


突然、白藤隆之介が話し出した。


「播馬様が産まれた場所。8歳まで深端五谷で過ごされたのですよね」


「そう。その頃の播馬様は今とは違い、お外にも積極的に出られていたし、学校での出来事なども楽しそうにお話されていた」


「普通の子供」


「そう。家計的にはとても裕福でいらしたから、周りからは御曹司の目で見られてはいたが、それが原因で妬まれたりはしない。住民も穏やかで仲は皆良かった。特産物や観光地なんて物とは縁遠く、先祖は何故この場所を選んだかと不思議に思うほど何もない場所だった。車がなければ何処にも行けないしね」


「播馬様のご両親は何故そこに住まわれていたのです?」


「修太郎様が住まわれていたのを引き継いだだけ。播馬様が産まれてすぐお仕事が忙しくなり修太郎様は都内に越された」


「そして、深端五谷に開発の手が入るのですね?」


「そう。好条件だった。住居も仕事も確保してくれたようだ。住民全員路頭に迷う事はなかった。だから皆、開発には諸手を挙げて喜んだ。ある一家族は除いて」


「ある一家族?香坂家ですか?」


「いいや。香坂家は開発を持ち出した企業と親しい関係にあった。そもそも深端五谷を娯楽場にすればいいと提案したのは修太郎様だからね」


「娯楽場?ゴルフ場とかテニスコートですか?」


「そう。その、ある一家族は猛反発した。ゴルフ場を造るとなると緑を破壊し、森林を削らなければならない」


「環境破壊だと?」


白藤隆之介は小さく溜め息を吐いた。


「そうではないのだよ。──一家は竹井という名字だった。その夫婦の間には二人の娘が居たんだ。長女は播馬様と同い年、次女の方は二つ年下だった。姉妹は播馬様ととても仲がよく、三人で川に入ったり、森で隠れんぼをしたりと毎日のように遊んでいた。──あれは播馬様が小学生に上がられた年だった」



白藤隆之介の声は先程よりも深く苦し気に沈んで聞こえてきた。


「竹井桜さん、桜さんは長女の方なのだけどね、播馬様と桜さんは下校する時はいつも一緒だった。播馬様は遠回りになるのだけど、必ず桜さんをお家まで送り届ける。その少し後ろを私が付いて歩いているのだけどね──まぁ、それがいつもやっている事なのだよ」



夏休みが終わって一週間の事だったそうだ。


いつものように、香坂播馬は竹井桜を家まで送り届けた。

その時、桜の母、聡美が少し戸惑った様子で三人に、妹とは会わなかったか?と聞いてきた。

どうやら姉の桜と遊びたくてうずうずしていた妹の紅葉は堪らなくなり、少し前に学校へ向かったのだという。

もちろん見掛けていなかった。

少し待てば戻ってくるだろうと思ったが、夕方になっても紅葉は帰って来ない。

竹井夫妻は顔面蒼白で探し回るが見付からないし、紅葉を見掛けた者もいない。

住民も協力し警察を呼んで捜索しても顔を出さない。

事件か事故か。

こんな平和な場所でこんな事態など初めての事だったので大人たちは困惑した。

辺りは暗くなるばかり。


その時、香坂播馬は思い出した。

夏休みの間、三人は涼しい森に入って遊んでいた。

川遊びに小さな隠れ家、暗号を彫った木や秘密の洞穴。

夏休みが終わり、桜と播馬は学校に行かなければならないので、紅葉は暇をもて余していたようだった。

もしかしたら、そこに居るかもしれない。

そこへ行ってみよう。


香坂播馬は白藤隆之介と共にそれらの場所を巡ったが何処を探しても紅葉はいなかった。

最後の場所、秘密の洞穴へと向かう。

三人の秘密を破った事になるが、緊急事態だ。

香坂播馬は白藤隆之介をそこへ連れていった。


洞穴と言っても大したものではない。

大人が三人ほど入れるような岩陰である。


そこに紅葉はいなかった。

紅葉がいた形跡だけがあった。

箸に模した小枝、土団子、皿に見立てた木葉。


よく見てみると洞穴から小さな足跡が続いている。

それを辿った二人が行き着いた先は小川だった。

流れは早くも遅くもない。

ただ、紅葉のような子供が一人で遊ぶには十分危険な場所だ。

しかし、いくら小さな子供だからといって身体ごと流されるような流れはないし、深さもない。

足跡は途中で消えていた。

そもそも紅葉のものではなかったかもしれない。


結局、紅葉は見付からなかった。


次の日も、その次の日も総出で探したが紅葉は居なかった。


三人の遊び場も警察に話したが、有力な手がかりとはならなかったようだ。


そして、そのまま日が過ぎた。




「見付からないままなのですか?」


「ああ。時が経てば─人々の記憶も薄れて行く。紅葉さんが姿を消して2年後に住人は深端五谷を離れる事になる。竹井家だけは頑なに拒んだ。娘が戻るかもしれない。娘を待たせてくれ、森は壊さないでくれ、あそこに娘が居るかもしれない、と懇願した。しかし、竹井家の要望は飲まれなかった。竹井家にも住居と仕事を斡旋したことだけは分かっているが、それ以降は分からない」


両親は悔しかっただろう。

開発者の知人である香坂家や薄情な住人たちを恨んだかもしれない。


「先程、彩子さんが話していた女性」


「手紙を拾ってくれた人?」


「そう。その方。恐らく─いや。確実にそれは竹井桜だ」


「は?」


「この目で見てはいないが、間違いない」


「な、何で?」


「私たちをからかうようにして表れる。決して姿はみせない。彼女は常に播馬様を見張っている」


「は、播馬様を?なぜ?」


「それは──分からない」


白藤隆之介は何かを言おうとしたのだが、それを飲み込んだので彩子も問おうとはしなかった。


「その─護るべきものと云うのは──播馬様だったのですね。竹井桜という人が何を考えているかは分からないけど、その人から──」


「播馬様は竹井桜の気が治まるのなら御身を投げ出す覚悟なのだよ。私と鈴士はそれを阻止しなければならない」


「だから播馬様は手紙の差出人を知りたがったのですね。竹井桜からの手紙を見たかった」


あの時の香坂播馬の泣きそうな表情を思い出す。

紅くなった目。


─密かな囁きが私の名前を呼ぶまで眠る事ができない。


でも、分からない。

なぜ、竹井桜は香坂播馬に拘るのか。

まだ子供だった香坂播馬には何の責任もない。

それなのに彼を恨むのは筋違いだ。

恨むなら、開発元かそれを斡旋した祖父の香坂修太郎だろう。


─怨恨ではないのか。


いつのまにか車は屋敷の裏に停まっていた。


「播馬様には昔の事を言わないように。それを思い出すような内容も駄目だ」


「─分かりました」


「彩子さん。貴女は聡明だ。我々は─変わるべき時が来たのかもしれない」




その夜、屋敷は物音一つなく、恐ろしく静かだった。


─もう、皆寝てるから当たり前か。


昼間の話を聞いて彩子は眠れないでいたのだ。

それに加えて香坂播馬の勘の鋭さに驚いた。


帰宅した二人の顔─特に白藤隆之介の緊張した表情を見ると何かあったと察し「手紙が来たのか?」と聞いてきた。


勿論、二人は嘘をついた。

きっとバレている。

バレているのだが、香坂播馬は「そうか」と何度か頷いただけだった。


その苦しそうな表情と悲しい溜め息が彩子を眠らせてくれないのだった。

今晩、香坂播馬は3階で就寝している。

夜空を眺めながら眠るのか、闇の中からの密かな囁きを待つのか。

いずれにしても心情は穏やかではないだろう。


彩子は部屋から出るとキッチンへ向かった。

眠れない夜はホットミルク。

その時、ふと何かが聞こえてきた。

ピアノの音か、話し声か─、風の吹く音かもしれない。

それははっきりとしないまま聞こえなくなったり再び聞こえてきたりした。


─竹井桜?


まさか、と思ったが彩子はミルクを温めていたガスを止め、音の出る方を確かめた。


それは丸く、暗闇に染み入るような優しい音だった。


何かの囁きだろうか。

香坂播馬が求めていた囁き。


─いや。これはピアノだ。


誰かがピアノを弾いている。


彩子はその音に導かれるように歩き出す。


─2階から聞こえる。


静かに階段を上ると、徐々に音が大きくなってきた。

しかし、2階ではない。

まだ音は遠い。


2階に到着してみると、やはりこの階ではないことが分かった。

音は上から─香坂播馬の部屋から落ちてきているのだ。

あの部屋にピアノがあったのか。


─嗚呼。歌声が。


それは、深い闇に優しく溶ける穏やかでありながらも激しい歌声だった。

そして、その鮮明で狂おしい歌声に彩子は放心した。



『刻の渦の中で踞り涙を堪えているのか。

静寂の闇夜に解き放たれた感情は癒されぬままに弄ばれているのだろう。

震える身体、傷む心に染み入る邪悪な誘惑に抗う事は出来ない。

それだけを頼りにさ迷う。

君の囁きを求めていた。

しかし、いくら待っても君は現れない』



なんと──

なんと哀しい歌声だろうか。


それは聞いた事のある音楽だった。

しかし、こんなにも哀しく苦しく感じるのは初めてだ。

雄々しく狂ったような歌声は身体と精神を震わせた。

こんなにも美しい歌声を初めて聴いた。


暗闇でピアノを弾き、哀しみに溢れた香坂播馬を一目見たい。


そう思って3階への階段を上がろうとした時だった。


力強く腕を掴まれた。

振り返ると白藤親子が立っていた。

腕を掴んでいるのは鈴士だった。


白藤隆之介は何も言わずにただ頸を横に振った。

行ってはいけないという合図なのだろう。

月の明かりが射し込む廊下で3人は立ち竦み、美しくも哀しい儚く消える音楽を聴いていた。

白藤隆之介の目の縁は香坂播馬の様に紅く、彩子の腕を離した白藤鈴士の目には涙が溜まっている。


その時に彩子は悟った。

香坂播馬の物語にはまだ他に何かある。

それは、この二人を巻き込むものだ。

香坂播馬の歌声は続けた。




『こんなにも苦しむのなら無くなってしまえばいい。

非力な私には与えられない。

もう、何も聞きたくない。

何も知りたくない。

過去も希望も枯れてしまえ。

そんなものは何の意味もない。

愛も温もりも全て死んでしまえばいい。

それはただの戯れ。

美しい暗闇へと共に旅立つのだ。

私たちは決して抗うことはできない』





闇が静寂を取り戻した。

香坂播馬の残響が心に留まっている。

何故か、彩子の頬を涙が伝う。


「あなたたちも──苦しいのですね?」


白藤隆之介は何かを言おうとしたが無理に口角を上げて笑顔を作ると、部屋へ戻った。


白藤鈴士に答えを求めようとした時、頭上から声がした。


「そこに居るのは誰だ」


二人が3階を見上げたと同時に扉が開いて香坂播馬が現れた。

いつもと変わらない姿。

それなのに哀しみや苦しみを纏ったように見える。

いや、いつもそうだ。

でも、一段と何か暗いものを感じる。


「あぁ、君たちか。私の道楽で起こしてしまったな。すまないね」


何も答えない二人に香坂播馬が続けた。


「鈴士。お願いがあるのだけど、聞き入れてくれるか?」


「はい」


「君の父親を呼んでくれないか。二人で私の部屋へ来てくれ」


「はい」と言うと白藤鈴士は去って行った。


「彩子。君にも来てもらいたい。四人で話をしよう」


「わ、私も?」


香坂播馬は「さぁ」と手を出した。

届くはずがないのに、優しく手を引かれたような柔らかい感覚がした。


彩子はその動きに導かれるままに階段を上った。

何故か気分は高揚していた。

しかし、それと同じだけ哀しみも宿している。

とても不思議な気持ちだった。


部屋は暗かったが、月の明かりが射し込んでおり心地好い空間になっていた。


「適当に座ってくれ」


香坂播馬がピアノの前にある椅子に座ったので、彩子は近くにあるソファに腰を下ろした。

フワリと沈みこむ。


「此処に来るのは初めてかい?」


「入るのは初めてです。このお屋敷に来てすぐ、この部屋へご挨拶に伺いましたが、播馬様は地下にいらっしゃいました」


「あぁ、そうか。そうだったね。君が初めて来た時。うん。覚えているよ。私は本を読んでいた。君は少し緊張していたね」


彩子は頷いた。

香坂播馬に見えているかは分からない。


「君の料理は美味い。麻子さんと同じくらいに。とても美味しい」


「あ、麻子さんって─」


「私の死んだ妻だ。御呼びで御座いますか」


白藤親子が入って来た。


「うん。そう。呼んだ。二人も好きな場所に座ってくれ。ベッドでも椅子でも。──私の膝の上に座るかい?」


なかなか動かない二人に最後の冗談を言ったが誰も笑わなかった。


「鈴士。仰る通りにしなさい。私は何か飲む物でも」と部屋を後にしようとしたが香坂播馬がそれを止めた。


「飲む物なら此処にもある。ミネラルウォーターしかないが、好きに飲んでくれ」


「こんな時間に起きていては小腹も空きましょう。何かお夜食でも作って参ります」


「軽い食べ物なら此処にある」


「で、では─わ、私は」と白藤隆之介が珍しく言葉を詰まらせる。

此処に居たくないのだろうか。


「座れ。白藤。──座ってくれ」


白藤隆之介は一つ息を吐くと、決心したかのように室内へ入り、白藤鈴士が座る椅子の正面に腰を下ろした。


四人の人間は三つの点になり、それぞれを結ぶと綺麗な三角形になる。


「彩子。きみは何を知っている?」


香坂播馬はいきなりそう言ってきた。


「な、何って──」と助けを求めて白藤隆之介を見るが、彼はこちらを見ずに香坂播馬を見つめている。


「あ──わ、私は」


すると香坂播馬は立ち上がり、近くの台まで歩くと、四つのグラスにミネラルウォーターを注いだ。

それを見た白藤鈴士が立ち上がるが香坂播馬はそれを止める。


「この空間は私の王国のようなものだ。私が招待したのだから、君たちは座っていてくれればいい」と言って各々にグラスを配って歩き、再びピアノの前にある椅子に座った。


彩子はミネラルウォーターで口を潤した。

それは常温だったので少し落ち着くことができた。


「改めて聞こう。彩子。きみは何を知っている?」


口を開こうとしたと同時に何故か白藤隆之介が話し出した。


「全て、私の判断で話をしました」


視線は一気に白藤隆之介へと集まる。

白藤隆之介は香坂播馬しか見ていない。


「全て、とは?」


白藤隆之介は彩子に話した内容を全て香坂播馬に聞かせた。

香坂播馬は何の反応も見せず、ただ黙っている。

彩子もあの時の話を聞かせれて再び重苦しい気持ちになった。


「では、彩子。きみは桜の事を知っているのだね」


「はい」


意外と普通の声色で、感情の変化がなかった。


「では、何故それを聞いたのだ?何か切っ掛けがあったのだろう?」


「切っ掛け─」


「そう。白藤が何故その話をしなければならなかったのか。きみの見解が聞きたい」


素直に話すべきだろう。

白藤隆之介には口止めをされた。

しかし、ここまで話してしまえば同じ事だ。

それに、何だか香坂播馬が可哀想だった。


「竹井桜さんが─」


白藤隆之介が止めなかったのでそのまま続けた。


「竹井桜さんが──私たち─いいえ、私に接触してきました」


そう言っても誰も何も言わないし、空気が変わったと感じる事もなかった。


「私が播馬様の元で使用人として働いている事を御存じでした。─その時に手紙を手にしました」


「桜が─彼女が直接渡したのか?」


「はい。彼女は竹井桜だとは名乗らず、近所に住んでいると言いました。手紙も落ちていた物を拾ったと云う風に渡されたのです。隆之介さんに容姿を伝えると、それは竹井桜に間違いないと」


「そうか。─それは彼女しかあり得ない。きみが屋敷を出る事はないし、近所に目撃されるような生活でもないからね。彼女は我々の生活を把握している」


香坂播馬は冷静だった。

白藤隆之介は相変わらず香坂播馬だけを見ている。


「桜が─来る」


香坂播馬はポツリと言った。


「播馬様。これからは外出は控えてください。息苦しいかもしれませんが、暫くの間は」


「今までもそうだったじゃないか。今さらどうってことはない」


─竹井桜は何者なの?


「今夜はまだ話したい事がある。──彩子。きみが私について知っているのはそれだけかな?」


「それだけ、とは?」


香坂播馬はミネラルウォーターを注いでいた台に備え付けられている引き出しから何かを取り出した。


「これのことだ」


見覚えのある本。


─スクラップブック。


彩子の動揺が部屋の空気を変える。

白藤鈴士が驚いて彩子を見た事を考えると、彼が香坂播馬に何かを言ったわけではなさそうだった。


「きみが何時どういう経緯でこれを見たかなんてどうでもいい。──この中の記事を全て読んだかい?」


「いいえ。流し読みをしました。──ごめんなさい」


「構わない。それなら、此処で全てを話してしまおう」


香坂播馬は三人が一度に見えるように身体の向きを変えた。

彩子と白藤鈴士は香坂播馬をしっかりと見たが、白藤隆之介だけは頭を垂らしていた。

香坂播馬はそれを一瞥して口を開いた。


「竹井桜は──罪人だ。殺人犯。この─スクラップブックにある事故や自殺と判断されたもの、事件とされたもの全て竹井桜の手によるものだ。彼女が犯人だ」


彩子はたいへん驚いたにも関わらず、他の者は勿論知っていたという様子でとても冷静だった。


「始まりは──私の両親だ」


彩子は再び驚いた。

香坂播馬の両親を殺した。

白藤隆之介は事故と言っていたが─竹井桜に殺されたのか。


「深端五谷から離れて二年。私の両親は死んだ。詳細は分からない。ただ、その時から彼女は我々を標的にしていた」


─我々?


「当時、私はまだ10歳だった。だから、両親の死は悲惨な事故として心に残った。勿論、彼女が関わっているなんて考えもしなかったんだ。しかし、今から5年前の事だ」


香坂播馬はスクラップブックの最初の頁を開いた。


「当時、50歳の女性が高層ビルから転落死。調査の結果事故と判断。女性の名前は佐藤清恵さん。彼女はよく笑う人だった。落ち込む人を励まし勇気づけてやる明るい性格の持ち主。そういう所が少し迷惑な時もあったが、皆彼女を慕っていた」


─まさか。


彩子は妙な不安に襲われた。


「──そして次の記事。58歳の男性。名前は柳川明正。列車に轢かれて即死。自殺。彼は無口だった。友人と呼べる人はおらず、いつも一人。しかし、祭りや町内会の催しとなると張り切って参加する。皆とわいわいするのは好きだったみたいだ。彼の妻は正反対の性格だった。よく喋るし、友達も多い」


彩子を襲った不安は次第に恐怖に変わった。

香坂播馬の声は次第に大きくなる。


「通り魔殺人の被害者の亀谷利美。当時、52歳。彼女は知らない町から深端五谷へと嫁いできた。右も左も分からないまま不器用なりに畑仕事を手伝っていたよ。いつも困ったように笑っていて、お年寄りや子供にとても親切だった!」


吐き捨てるようにそう言って乱暴にスクラップブックを閉じた。


「今の3つの事件は5年前に起きたものだ。4年前──そして3年前の物も─このスクラップブックに綴じてある事件の被害者は全て─」


深端五谷の出身者なんだよ。


と香坂播馬は言った。





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