【一話】最初の一歩を踏み出す手前。
たんたん、たたたーー。
耳に届く音を声にしてみると、そうなる。
赤子にでも口ずさめるようなそんな単純な音だった。
その音が時に人の命を奪うものだとしても、そういうものである。
ずっしりと両腕にかかる鉄器はすでに慣れた重みだったが、その重さが今は頼もしい。
中山七深二等兵はこの戦場で十七の誕生日を迎えた。
夜通しで山をひとつ越えて、下った先の谷底を挟んで敵と相対している。
空を見上げればこの深い森の木立の隙間から清々しい青空が見え、頬を撫でる風は北国に春の訪れを感じさせるほどに柔らかくそして暖かい。
谷底を流れる川にもその陽光が降り注ぎ、水遊びには絶好の春の日和だ。
それだけに今の状況は異質だった。
日常と戦場の境目がくっきりとした陰影を持って目の前に横たわっており、乱暴に士気を削ぎ落としていく。
士気というよりは集中力といった方が正しい。
人間誰しも集中力を持続するには限界というものがある。それが目の前に現れた日常の風景によって乱されるのは自然な事であった。
『全員、聞こえてるか』
装着したインカムから声が聞こえて、照準はそのまま七深は応答する。
『空は青く、春って陽気はそれだけで実に気分がいいな』
上官の軽口に七深は緊張がほぐれるのを感じた。
『さて、膠着状態になってから随分と時間が経過した。こちらから攻めてもいいんだが、しかし谷底は浅い川で渡れるが、見ての通り隠れる場所がどこにもない』
その上、敵の規模がわからない。だからこそ手出しができないでいた。
『少し前に大平と西を偵察に出している。二人が戻り次第、また連絡するが俺の許可無しに発砲はもちろん、交戦するなよ。以上』
そしてまた、静穏が戻った。
「七深」
後ろから不意に声をかけられて銃口ごと振り返る。
「原田さん」
茂みから顔を覗かせたのは原田優一等兵だった。
前を向けと合図するように七深の頭をぽんぽんと叩いて、原田はその隣に腹ばいになる。ごそごそとポーチから竹の皮に包んだ握り飯を寄越してきた。
「昼飯。お前、まだ食ってないだろ。見といてやるから食べろよ」
「有り難うございます」
わあいと受け取ると両手を合わせてから、その真っ白な握り飯を頬張る。
照準器を覗いたまま、正面を監視する原田の耳に取り付けられたインカムを見て、自分のに触れた。
「これ、便利ですよね」
「あ? ああ、これか」
原田は自分のインカムを取り外して手で弄ぶ。
最新技術を用いて作られた通信機であり、中山と原田の配属されている分隊に実験的に今作戦から投入された。
通信機はこれまで多額の費用がかかる事、大型で重く、移動するのも大変だった為、大隊本部でしか使用されなかった。戦線においては密集した戦闘隊型で布陣し、戦闘中の部隊間のやりとりはこれまで主に伝令役がつとめてきた。
それが耳に装着できる程に小型化し、なおかつ兵員ひとりひとりに配備できるとなれば、戦闘中の兵同士の連携が格段に円滑となり、また現場で作戦の指揮をとる指揮官らは即時の戦況把握に役に立てる事ができる。
今回の実験で問題がなければ、順次全ての部隊に配布されるらしい。
「どんな奴が作ったのかは知らないが、便利だよな」
「はい」
全ての握り飯を腹におさめると、水をひとくち飲む。口元を拭ってから、両手を合わせて誰にでもなく頭をさげた。
「ごちそうさまでした」
「あとこれな」
差し出されたのは黒糖のたっぷりかかった菓子。
補給がしっかりしているとはいえ、あまり戦場では見かけないシロモノである。
「これ、どうしたんですか?」
首を傾げる七深の頭を乱暴にかいぐる原田。
「お前、今日誕生日なんだろ? 佐壱から聞いたぞ」
ああ、と両手をぽんと叩く。
原田は二十一歳で現役の大学生だが志願兵として戦場へ来た。七深もまた同じ志願兵、同じ学徒ではあるが、高校生の場合は志願兵の中からさらに選抜される。
一人っ子である原田からすると七深はまるで弟分のような感じなのか、訓練だなんだと何かにつけて七深に構いたがる。本人にそれをいうと「七深があまちゃんだから」というが、末っ子の七深にとっては戦場で出来た兄といった感じである。
「この菓子は俺から。あと、これとこれな」
金平糖に飴玉、あちこちのポケットから様々な菓子を出してくる。
「ちょ、えっ、これ多くないですか?」
「握り飯持ってくる途中で皆に渡されたんだよ。誕生日だっての隠してた罰だと思って貰っておけ」
両手いっぱいの菓子に七深は嬉しさに笑みを隠せない。
そしてはたっと気づいた。
「ーー原田さん」
「あ?」
「この菓子、どこにしまっておいたらいいですかね」
途方に暮れた表情に原田は脱力する。
考えなくとも今は戦闘中だ。菓子を持っていたから銃を撃てませんでしたでは笑い話にもならない。
しかも今は銃弾薬を身に纏っており、菓子を詰めておくスペースなどどこにもなかった。
軍服というのは戦闘に特化した、実に実用的な服である。
「ああもう、手のかかる奴だな。とりあえずこれ貸してやる」
腰に下げたポーチから風呂敷を取り出すとその上に菓子を置かせる。細々とした菓子が落ちないよう包んで、それを七深のポーチにくくりつけた。
「おし、これでいいだろ」
「ありがとうございます。ここで全部食べるしかないのかと」
「いや、いやいや、それはないだろ」
「仲ええなあ、お二人さんは」
頭の上から降ってきた声に顔をあげると、そこには西伊織上等兵の姿があった。
「西さん、お帰りなさい」
西京訛りの西は、嫌がる原田の頭を撫でて、もう片方の手で七深の頭も撫でた。
その軍服からかすかな硝煙の臭いがして、先ほど聞いた「たんたん、たたた」の音がこの西に向かって発砲されたものだと気づいた。
「お怪我は?」
「俺も西も怪我なんかないから心配いらないよ」
次いで姿を現したのは西とよく行動を共にしている大平圭吾上等兵である。
「なんだ、七深の面倒見てくれてたのか、原田は」
面倒見いいなあと西と同じような事を言うと、照れ隠しなのか凶暴化する原田。
「俺たちも戻ってきたし、そろそろ林のところに戻りな」
「ちっ」
舌打ちして、低頭のままその場を後にする。そんな悪態に大平と西は笑いを隠せない。
しばらくしてインカムに小さなノイズが入り、通信回路が開いた。
『あー、山崎だ』
偵察に行ってきた大平と西が戻ってきたという事は、つまり戦闘についての今後の作戦要項についての伝達事項である。
『大平と西の偵察によれば、敵の数や武器類はこっちと同等だそうだ』
『うっかり西が接敵した為、おそらく迂回ルートは警戒されている』
『狙撃兵の有無はわからない。しかしいると考えて動くのが妥当だろう』
空遠く、鳶の鳴き声が谷底に響く。
『煙幕を張ると同時に全員谷底から直進して敵に突っ込もう』
なんともわかりやすい作戦である。歩兵の本分これぞ、とでも言えばいいだろうか。
『質問は?』
「原田です。火線はどちらかに集中させますか」
『左がいいだろう。最初から突っ切るには幅が広いからな。身を晒す距離が長すぎる。石川』
「石川です。左のこちらに敵の火線を引きつけます」
『危険だが、頼んだぞ』
「了解」
短い応答が続き、そして山崎が最後を締める。
『全員着剣。俺が最初に出る。お前達は森の切れ目のぎりぎりの場所で三十秒待機した後、全力で突っ込め。以上、通信終わり』
小銃に着剣していると、大平から不意に頭を撫でられた。
「ちょっと三人で深呼吸しようか」
「ーーはい」
「深呼吸、三回な」
精神を統一するように、深く吸い込み、深く吐き出し、心だけでなく体も落ち着かせる。
「よし、いこか」
七深の背中を西がぽんと叩いた。
ちょっとしたコミュニケーションが心を奮い立たせる。
大平と西は七深よりも長く戦場にいる分、それがわかっているのだろう。分かっていてそうしてくれるのだと気づいて、小銃を握りしると「はい」と七深は力強く頷いた。
戦闘は一時間もかからず終了した。
煙幕をはり、その煙幕が効果を発揮する前に山崎軍曹が谷底に出る。
敵が発砲した直後に石川が援護射撃に入り、敵火線が左へ集中した。
そして作戦通り、三十秒後に全員が全速力で谷底を走り抜け、敵が布陣する森へ侵入、敵を制圧した。
偵察の見極めは正しく、敵数はほぼ同等、火力もほぼ同等であった。
勝敗を決した一番の理由は敵がそもそも山岳戦に不慣れであるという事、そして皇軍が敵よりも早く仕掛けた事により森林内で戦闘行為に及べたという所である。
七深と大平、西の三人が作戦前に指示されていた集合地点に到着したのは夕刻の頃だった。
すでに他の分隊も到着しており、その中で己の分隊を探す所から始まった。
村をまるまるひとつ借り受けているらしい。民間人は誰一人としていない。どの家も板で覆われ、家庭の明かりはどこにもなかった。
春とはいえ日が暮れると皇国でも北端に位置する北深はまだまだ寒い。
たき火にあたっている同じ大隊の兵等の間を縫うように村の中心へと移動する。
「いないな」
「いませんねえ」
「実は俺らが一番とかないやんなあ」
三人揃って歩いてみたが、広くはない野営地で誰も見つける事が出来ず、首を傾げる。
「ーーあっ」
思いついたように七深が顔をあげた。
「西さん、大平さん、コレ使ってみませんか」
コレと七深が指さしたのは耳に装着している通信機である。
大平も西も、おおーと両手を打った。
「ちょっと試してみます」
そうして回線を送信に切り替えた瞬間、七深は頭の奥深くに強い圧迫感を受けてその場でよろめいた。
「七ちゃん、どないしたん?」
「七、大丈夫か?」
くらくらと目眩にも似た感覚に吐き気がこみ上げる。
立っていられないーー、七深は地面に膝をついた。
「七深?」
「誰か療兵おらんか!」
「何の騒ぎだ」
人混みから顔を出したのは同じ分隊の工兵長でもある斎恩寺真礼上等兵だった。
「あーっ! 真礼さんやんかっ」
「どうした」
立てないままでいる七深の元に膝をついて、その顔色を伺うとすぐに立ち上がった。
「とりあえず中隊本部へ行こう。服部もいる」
「俺が背負ってく」
大平は小銃を西に預けると七深を背負い、斎恩寺の後に続く。
少し歩いた場所、その小高い丘に立つ立派な屋敷が今は中隊本部として機能していた。
斎恩寺は屋敷の奥、離れへと向かう。
「こっちだ」
離れの庭に見慣れた顔があった。
探していた分隊の面々である。
「大平さん、西さん、お疲れさまでした」
ぱあっと顔を明るくして最初に声をかけてきたのは七深と同じ高校生である加藤陽二等兵であった。
隣にいた同じ学徒の林尚二等兵であり、きょろっと辺りを見回した後、首を傾げた。
「あれ? 七深は?」
「尚ちゃん、服部さんどこいるかわかる?」
「あと七深、寝かせたいんだけど場所あるかな」
大平の背でぐったりとする七深に二人の顔色が変わる。
「離れは大尉と軍曹がいるけど、どくように言ってくるっ」
「私、服部さん呼んできますっ」
林は離れへ、加藤は中隊本部へと駆けていった。
「おい、どういう事だよ」
居合わせた原田が西に食ってかかってきた。
「撃たれたとか、そういうんちゃうねん」
「でも」
「とりあえず原田は落ち着こうな」
縁側から離れにあがろうとした時、障子が開いた。
障子を開けたのは彼らの上官である山崎であり、またその部屋には中隊長である原田厳造大尉ともう一人、将校がいた。
林はその奥でひええっと硬直している。
「ーーその子?」
静かな声音でその将校が立ち上がって障子を開けた山崎に問うた。
「そうだ」
「山崎軍曹、えっと」
「大平、西。とりあえず説明は後な。七深をこっちに」
ゆっくりと大平の背から降ろすと、その将校が七深の額に手をおいてから、耳のインカムに触れた。
「うん、もう大丈夫」
七深にはその声が耳から体の奥まで染み込んでいくように感じた。
そして数度の瞬きの後、嘘のように体調が回復していた。
ゆっくりと体を起こす。
「あれ?」
「大丈夫だよね?」
にっこりと微笑まれて、七深は頷く。
「ほんま? 七ちゃん、どこもおかしいとこないか?」
「はい。まったく、何ともないです」
「よかったー」
「あの、ありがとうございました」
上目遣いでその将校に礼を言うと、将校の微笑みが柔らかくなる。
「どういたしまして」
「はい、お前ら。全員敬礼」
ぱんぱんと山崎が言う。反射的にその場にいた全員が敬礼した。
「大本営の情報部で参謀副長をされている恩田少佐だ」
ワンテンポ遅れて全員が心の中でええぇと叫んだ。
エリート中のエリートが何故ここにいる、と。