第1話 Cleared for take-off
駅が流れ去ってゆく。
快速特急というだけはある。僕が乗った駅から殆ど止まらない。途中に駅はいくつもあるのに、先ほどから止まる気配がない。ずっと速度を保ち続けている。
車窓から見える風景は、都会の真ん中にある始発駅からだいぶかけ離れた田舎の雰囲気で、言い表しがたい安心感がある。木々の緑が見えることで、人間の本能的に、いつか暮らした緑を見ることで、安心するのだろうか。
そんなことを思っていると、今度は万物の母なる海が見えた。
「やっと海か…。」
僕の行き先は母なる海の向こうにある。電車が橋を渡る独特な音にちょっとどきどきしながら、僕はさっきまでずっとそうしていたように、窓の外を眺め続けた。昇りたての太陽がはしゃいで、海面をキラつかせている。ちょっと眩しいくらいだ。
ぐん、と電車が減速した。目的地は間もなくだ。
「ご乗車、有難う御座いました。間もなく終点、中部国際空港、中部国際空港に停まります。お忘れ物など、ございませんよう…」
電車のドアを抜けると、現代的な雰囲気の駅が出迎える。僕の乗ってきた電車が入った引込線にはホームが存在せず、電車から降りるとすぐに駅舎の中なのである。改札を抜けると、一気に広い空間が広がる。すでに空港の中にいるようではあるが、まだ空港的施設はない。それは、ここからスロープで行った先にある。
上りスロープを進んで出発フロアに行き着く。日曜日で人がわんさかする中を、僕はまっすぐ突き進んだ。その先の階段を上って、今度は空港に遊びに来た人たちでごったがえすフロアに移動する。
とはいっても、今はまだ早朝と言える時間帯。人も想像していたほど多くはなかった。これがお昼時になったりしたら、それこそ酔うくらい人がいるはずだ。このフロアもまっすぐ突き抜ける。
大きな自動ドアをくぐると、展望デッキに入る。日本最大級の展望デッキを、またしてもまっすぐ突き進む。逆T字型のデッキの端を目指して、ずんずん歩く。
轟音が響く。どこ行きの飛行機だろうか。日本航空グループ、JALエクスプレスのB737-800ということは分かるけれど、行先までは分からない。たまに時刻表を暗記している人がいて、機体を見て、時計を見て、「あれは何処行きだね」なんて誇らしげに言う奴がいる。たとえば僕とか。
…いや、ここに来る前は地方に住んでいたもんで、時刻表なんて簡単に暗記できたから…。逆にここみたいにトラフィックの多いところでは覚える気にもならない。来たのを見ればいいじゃない。
シャッター音がたくさん聞こえる。高そうなカメラがいっぱい見当たる。日曜日の朝と言えばシャッターチャンスはかなり多い。だからみんな撮りに来る。僕より若い、というより幼い子もいれば、スーツ姿の会社員らしき人や、同じくスーツ姿だけどさっきの人より役職が上っぽい人、さらにはおじいちゃんもいる。老若男女入り乱れる中、共通するのはカメラのハイレベルさ。みな一様に一眼レフカメラに望遠レンズをつけて構えている。まだ現実的に買えそうな入門機もいるが、中古の軽自動車が買えるようなスーパーカメラもいる。戦場に持って行ったら間違って撃たれそうな、というか現実に何度か撃たれた、大砲みたいな超望遠レンズも見当たる。値段を聞いたら震え上がるだろう。一度ああいうのを持っている人と話をした時には、「退職金を全部使ってね」なんて笑いながら語ってくれた。今日日、退職金がどれくらいなのか僕は知る由もない大学生だけれど、奥さんが後ろ向きに倒れるくらいには凄いことだと思う。
僕も一時期はカメラを振り回していた。けれどファインダー越しでしか飛行機の姿を見れないことに寂しくなって、やめてしまった。カメラはまだ持っているけれど、空港に持ってくることはなくなった。
写真を撮っていた時の名残で、エアバンドはまだ聞き続けている。空港の高い塔、管制塔にいる航空管制官と、パイロットとの間の交信を傍受して聞くのだ。それを聞くことで、どの会社のどの便がどこにいて、どの滑走路を使うかが分かり、写真を撮る上で大いに助けとなった。聞いているだけでもなかなか楽しいけれど、全部英語なのには注意がいる。英語が苦手な人がお金を出してレシーバーを買って、理解できなくて泣き寝入り、なんてのは結構聞く。
僕はカバンからレシーバーを取り出す。記憶させておいたこの空港の周波数を呼び出し、イヤホンをつないで耳にはめ込む。これは「交信内容は第三者に教えちゃダメダメよ☆」というルールがあるからだ。垂れ流しにしたところで警察はやってこないけれど、あんまりいい顔はされない。ところが地方に行くと、「俺無線聞いてるんだぜ、カッコいいだろ?」とわざと垂れ流す馬鹿がたまにいる。たとえば僕とか。
…もうやめました許して下さい。
"Japan air 3084, wind 130 at 3, runway 18, cleared for take-off."
"Cleared for take-off, Japan air 3084."
日本航空3084便に離陸許可が出た。滑走路を見るとB787-8がいる。成田行きだ。ゆっくりとテイクオフローリングを始める。遠くで大きな音がする。この音は何度聞いても心地いい。もはや僕は中毒と言って差し支えないだろう。長い主翼が思い切りしなると同時に、彼女は空へと飛びあがった。エアボーンの瞬間の彼女の翼のしなり具合はとても美しい。
"Japan air 3084, contact departure 120.0. Have a nice flight."
"Contact departure, Japan air 3084. Thank you."
最後の言葉は、管制官やパイロットごとに違う。言わない人だっている。今の人みたいに、とても気の利いた言葉で〆る管制官もいる。飛んでいく飛行機が人によって操られていることを、何時よりも実感するタイミングでもある。僕は人同士の思いやりが好きだ。
もうあんなところに…。もう指でつかめそうなサイズになる遥か遠くで、彼女は旋回を始めていた。
(きれいだなあ…。)
僕はやっぱり、飛行機が大好きだ。
歩く。多くの心が、私の中で渦巻いている。離陸時の浮かぶ感じが気持ち悪いから苦手だ。これから空を飛ぶなんてなんて楽しみなんだろう。行った先での仕事の予定がなかなかきつい…。
止められた。大きな道の前で、必ず許可を仰がねばならない。安全より重要なものはない、と主は言うけれど、ちょっと面倒。
"Japan air 3084, line-up runway and wait."
"Line-up and wait, Japan air 3084."
私の主が、この道に立つ許可をもらった。真っ直ぐ伸びた大きな道は、そのまま空へと続いているように見える。
私は体の状態をチェックする。頭は、腕は、脚は…。私のどこか一点にでも悪いところがあれば、即走るのを取りやめなければならない。これから私が行く場所は、生温い優しさは持ち合わせていない。だがどうやら私も主も、異常なしとの結論が出た。
さあ、行こうか。
"Japan air 3084,cleared for take-off."
最高に気分が高揚する。本当は幾つかの情報を追加してくれているが、私にはこの言葉だけで十分だ。主の指示に従い、私はゆっくりと助走を始める。
スピードをゆっくりと上げて、腹に力を込めて、走る、走る。
海風が気持ちいい。そろそろ行けるよ、我が主様。
飛び上がる。
腕がしなる。こんなに重い私の体が、こんなに多くの心を乗せて、嘘みたいに空に浮かぶ。
ああ、私は、このために生まれてきたんだ。まだ幼い私にも、それだけは理解できた。本能で理解できた。私の使命は、空を飛ぶことなんだ。
ふと、私を見つめる人を見つけた。デッキのベンチに座って、私をじっと見つめている。その見つめ方は、とても優しかった。まるで自分の子供を抱き上げた大人のような、深みがある、美しい眼だった。
風に揺られたふりをして、ちょっと手を振った。嬉しかった。
私は人気者。でもまだ新参者。日本航空B787-8、よろしくね。