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金の繭  作者: 長束真
8/28

8(重い)

 階段を昇ってアパートの廊下を見た。妹の姿はなかった。鍵を開けて部屋に入ると、妹がテレビを点けて笑っていた。実家に預けた合鍵を勝手に持ち出して勝手に入り込む妹。おかえり、なんて悪びれた風も無く云う妹に「何の用?」と、わたしは水色のミュールを脱ぎながら聞いた。

「お姉ちゃんが来てるよ。晩ご飯一緒にってお母さんが」

 わたしのことは呼び捨てる癖に、一番上の姉は「お姉ちゃん」と呼ぶ妹。騒々しいテレビに合わせて、また笑う。何がそんなに楽しいのだ。

「それでわたしのいない間に入り込んでテレビ見ていたと」

「だって電話に出ないし」

「帰って来るとも限らないじゃない」

 すると、妹はさも不思議なモノでも見るような顔を向けてた。「出不精なんだから長時間も出かけるなんて思わないし」

 出無精。否定はしない。

「待った?」

 足の裏を見ながらわたしは云った。あらやだ、真っ黒。

「そうでもなーい」

 妹はまたけたけたと笑う。苛々の臨界点を越える前に、一緒に実家へ行った方が良いように思えた。だから今し方買ってきたものを乱雑に冷蔵庫へと詰め込んで、まだ湿っぽい洗濯物を取り込み、テレビを最後まで見たいと云う妹を半ば無理矢理に連れ出し、傘を片手に実家へ向かった。

 姪と一緒に帰省していた姉は、旦那が出張で暇だからと云った。妹は帰るなり姪に抱きつき、変な顔を見せては楽しそうに笑う。

「もう喋るの?」

 わたしの言葉に、まさか、と姉は笑った。目尻に小さな皺。姉と云うより、わたしの知らない一人の母親がそこにいる気がした。

「まだ三ヶ月よ」

 と云うことは、だいたい一年前になりますか。

 下品な自分に嫌悪。

 姉はエプロンをして、母を手伝いに台所へと消えた。

「ほら、抱いてあげて」不意に妹が姪を渡してきた。「首は座ってるから大丈夫だって」

 おお、重い。

 わたしに抱かれて直ぐに、姪は顔全体を不快そうに歪めて、泣き出しそうになった。

「しっかり抱いてあげてよ」

「抱いてるよ」

「あ、眼鏡が怖いのかな」

 妹はまた変な顔をして、姪の注意を引く。すると、姪は大きな目をくりくり動かす。たぶん、姪が怖いのは眼鏡じゃない。

「じゃ、よろしく」

 妹も台所へ消えた。母と姉、妹の楽しげな声が台所からこぼれ聞こえた。

 居間には新聞を読む父と、姪を抱いたわたしが残された。

 なんてこった。

 また姪が顔を皺にしたので、わたしは身体を揺すって泣きませんよう、泣きませんようにと祈り、抱えたまま、たぶん珍妙な踊りを、それでも自分なりに精いっぱいしてみた。

 姪は、言葉にならない声とも呼べない、呻きを小さな口から漏らし、ついでにヨダレも垂らした。

 わたしは小さな赤ン坊を揺すりながら、ソファーに座った。結局、姪は泣いた。

「ちょっと貸しなさい」

 父が隣に座って、わたしから姪を取り上げた。するりと両手で泣く子を包み、揺らしてあやす。父の腕の中で安心したのか、姪は泣きやんだ。

「うまいもんだね」

 素直に感心した。

 お前たち三人で散々やったから、と父は微笑んだ。こんなわたしも父の腕に抱かれていた時代があったのだ。そして、その父と母は、今では祖父と祖母になったのだと、ぼんやり思った。

 父の腕の中の姪。

 小さな手、小さな足、小さな身体に、小さな頭。

 手足を振りながら、何かを言葉にしようとしているのか、やっぱり呻きともつかない音を小さな口から漏らしている。

 たぶん、赤ン坊は無垢で素直な存在だ。だから赤ン坊は、わたしの中の何かを感じたのだ。

 恐怖? 畏怖? それとも憐憫?

 姉や妹、父にあって、もちろん、母にもあって、でもわたしには無い、何か。

 醜いアヒルの子。

 わたしは一羽だけつまはじきにされる、あのアヒルの子。

 子供の頃から解せないのは、白鳥になることが幸せで、つまりアヒルとして生れたことは暗に惨めだと描かれていたところだ。逆なら物語の結末はどうなっていただろう?

 白鳥のヒナの中に紛れてしまったアヒルのヒナは、醜い異端で、一羽だけつまはじきにされ、成長しても真っ白な鳥になることもなく、それどころか猟師に狙われ、あまつさえローストされて食卓に上ったりするのかもしれない。

 悲惨だ。

 少しもいい話でなんかないし、教訓なんてどこにもない。元が醜いものはどうなったところで惨めな生き方しか残されていないのだ。姿、形に拘わらず、胸の内が醜いものは特に。

 父の腕の中で口元を弛緩させて眠る姪を見ながら、わたしには何か大切なものが欠けている、そんな思いに捕われた。だから夕食の後、早々に実家を退散した。母が色々と余り物だとかレトルト食品だとか持たせようとしたけれど、断って、でも断りきれずに、少し持ち帰ることになった。

「休みの日くらい、ご飯食べに来なさいよ」

 別れ際、母はいつもと同じ言葉で締めくくる。わたしは曖昧に返事をする。そんなに優しくしてくれなくてもいいのに。優しくしてもらうことなどないのに。むしろ、優しくされるほどにわたしの中で、何か云いようのない、油のようなねっとりとした何かが渦巻くように感じてならない。

 ごめんなさいは云わない。云えない。

 こんな娘で申し訳なく思うけど、何も云えない。伝えられない。

 雨はまだ降っていなかった。

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