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金の繭  作者: 長束真
7/28

7(うるさい)

 ぷつっと皮膚が裂けるのが分かった。刹那、痛みが貫き、驚いた。

 やってしまった。激しい後悔が押し寄せてきた。

 暗い部屋の中でも見えた、生っ白い手首に血が滲み、みるみるうちにそれは膨れ上がって、不意にぽろりと雫が零れると、腕を伝ってフローリングの上に落ちて、ぱちんとはじけた。

 やってしまった。

 ぽたぽた滴り落ちる黒い血。切り裂いた痕がひりひりし、耳の奥で聴こえる鼓動に合わせ、熱く強くひどく疼く。

 ああ、どうしよう。

 縫わなきゃダメかな、でも救急車呼んでもみっともないし、歩いていく? どこへ? 病院? 病院なんて行ったってみっともないのは変わりないし、なんて説明するの? 夜中に切りたくなったから切りました? そんなバカ患者相手に当直のお医者さんもいい迷惑、嘘を繕うにも上手く出来そうもないし、傷をみたら一瞬で分かっちゃうだろうし、ああ、どうしよう、どうすればいいんだろう──。

 痛みで目尻に涙が浮いた。

 ああ、やっちゃった。こんなハズじゃなかったのに。母の呪いが解けたの?

 違う違う。こんなことは予定に無い、あくまでも可能性、予定になんてなかったし──あっては、ならならなかった。

 望んでいたのに、心の深いところでは分かっていた。一線を越えてはいけないって。

 分かっているよ、分かっている。一線なんて越えるつもりなんてないよ。ただのそう、ちょっとしたポーズだよ。

 誰に対して? 

 自分? それとも母さんに?

 そんなこと、どうだっていいじゃない。手首切ったって簡単に死ねないって云うし、縦に切ると血管が裂けて難しいって聞いたことあるけどね。やるなら両手、ぬるま湯につけて睡眠薬でも飲んで、抜き身のカミソリでざっくりと。

 だけど、ちょっと興味半分でカッターの刃を押し当てたり、ちょっぴり切ってみたりすると、ああ自分が狂っているんだなって、だから気が楽になるんだよ。だって他の人もそうだったら、他の人たちも狂っているんだったら、社会なんて成り立たないじゃない。自分が、自分だけがオカシイのなら、大丈夫だよ、社会は社会として成り立つよ。

 自分がオカシイんだ、自分だけが狂ってるんだ、だから仕方ないんだ、そう思っていたんだ。

 そう思っていたんだ、わたしは。

 目を伏せた。涙が頬を伝った。

 一線なんて越えるつもりなかったんだよ、わたしは。


   ※


 垂れる血が他につかないように注意しながら明かりをつけた。青白くひんやりとした蛍光灯明かりの下で、血が黒く固まり始めていた。安っぽく照らされた光の中で、惨めに思った。

 ずくずくと切った痕が主張する。わたしの奥で傷が囁く。

 やっちまったね、アンタ。

 ねっとり声が絡みつく。

 やっと覚悟ができたと思ったのに、なんで土壇場で驚いたりして、バカじゃないの? 刃物ってのはさ、押し当てるだけじゃ簡単に切れたりしないんだよ、引いた時に切れるんだよ。分かってんだろ? 分かってて引いたんだろ?

 だから切れて当たり前、血が出て当たり前、なのに何を驚いてんだよ。バカだね、やっぱり覚悟なんて、これっぽっちもないじゃないか。せっかくの逝けるチャンスをふいにして。またぐだぐだ生きてくしかないぜ。昨日と同じ今日を生きて、明日もやっぱり同じに生きて、明後日もその先も来年だって再来年だってずっとこのまま。ただひたすらに捨てられるだけの持ち時間を無駄にして──、


 うるさいうるさいうるさいうるさい!


 ぐいと涙を拭って、流し千切ったでキッチンペーパーを濡らした。流れる水からカルキのにおいを感じて、惨めな気持ちが上乗せされた。

 濡れたペーパーを軽く絞って床に落ちた血を拭いた。左手に力をかけないようにして、右半身だけで拭いた。

 それから左手首の傷を避けて、腕に残る血の跡をやはり同じように濡らしたキッチンペーパーで力を入れずに慎重に拭う。片手で救急箱をひっくり返し、傷が開かないようガーゼを当てて、ぶきっちょながらも包帯できつく縛る。

 全部片付けたあと、布団に潜って、横になって、哀しくて哀しくて、静かに泣いた。

 救いようのないバカだ、わたしは。


   ※


 公園に近づくのを止めた。

 廻り道をして出社し、廻り道をして退社した。

 マエダ。

 殻に篭ったマエダ。

 幸い、週の最後は目の廻るような忙しさに見舞われ、マエダのことをじっくり考える暇も無かった。そもそも退社したマエダをわたしが気にすることなど無いのだ。四半世紀と少しを生きて、わずかふた月だけマエダの人生と交錯したにすぎない。そのふた月だって結果としてわたしがマエダを指導していただけで、別に辞令が出てたワケでもない。

 わたしは必要以上の仕事していたのだ。

 やっと週が終わって、日曜日。くたくただったわたしは昼までぐっすり寝こけていた。カーテンの隙間から漏れた光が眩しくて、目が覚めた。軽い頭痛。寝過ぎだ。

 くしゃくしゃの寝床から抜け出してカーテンを開けたら、バカみたいな快晴だった。

 わたしは実家にほど近いアパートの二階で暮らしている。

 生活が実家のリズムとズレているし、何しろ気兼ねしない。自分だけの城、悪くない。たまに実家住まいの妹が遊びに来るだけで、来客は皆無。地元の友達はおのおの、こんな田舎町を飛び出し、それぞれの生活があるから、年に数回どこぞのカフェだか居酒屋で会う程度。一昨年に結婚した姉も、引っ越しの後に一度、来たきりだった。

 わたしだけの、わたしのための部屋。

 窓を開けて、週の間、ほとんど閉めっ放しの部屋の中で圧縮された、重く湿った空気を入れ替える。初夏の匂いが少し含まれているような、そんな微風が心地よかった。ちょっと遅いけど、今日は洗濯と片付けをしよう。

 ラジオを点けて、寝巻き代わりの白いTシャツを脱ぎ、ジーンズとブラウスに着替えた。古い外国のバラードがラジオから聞こえた。メロディに憶えはあっても、曲名は知らない。Tシャツを洗濯カゴに放り込もうとして、そこに錆のような黒い染みが点々とあるのに気付いた。

 血だ。

 左手を見ると、印の周りに薄く乾いた血がついていた。夜中に傷が痒くて無意識に掻いてしまったのだろう。右手の人差し指と中指の爪の先にも、やっぱり薄く乾いた血がついていた。

 曲が終ると、ラジオは今夜の天気を雨になると告げた。ブラウスの袖をまくって左手の印にバンソウコウを貼った。救急箱の中には、もう幾枚も残っていない。

 Tシャツを水でつまみ洗いしたけれども、乾いた血は白いシャツを元に戻すことは出来なかった。ハンガーにかけてベランダに干した。点々とした錆模様、前衛Tシャツの一丁上がり。たぶんゴミ箱直行の運命だ。

 布団やシーツに血はついてなかった。夜中に暑くて蹴っ飛ばしたお蔭だ。せめてそれを小さな僥倖として話はオシマイ、頭の中から惨めな気持ちと一緒に閉め出した。

 服と下着を選り分け、洗濯機に放り込む。

 洗濯槽が廻っている合間に、床に積み上げた古本屋で買いためた文庫本だのCDだのをあるべき棚に収めた。書類みたいなペラモノの整理はヘタでも、規格モノは並べると気持ちいい。

 洗い上がった洗濯物をベランダに干し、近所のスーパーへ買い物に出た。切らした牛乳と少しの食材。薬局でバンソウコウと頭痛薬。両手に買い物袋を下げて、でも左手を庇いつつ、帰宅した。ラジオで聞いた予報どおり、天気が少し翳ってきた。


   ※


 家に帰ると見慣れた赤い自転車が停めてあるのに気が付いた。妹だ。

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