6(はっきりしない)
昨日早退した分、今日は遅くなった。
梅雨入りは来週くらいになりさそうだと、昼に休憩室のテレビが教えてくれた。
日がな一日、マエダのことがちらついて集中できなかった。見積りを間違えた、締め切りを忘れてた、部長に小言を貰った──疲れた。次の休みまで明日、明後日とある。今週は土曜出勤だ。足がますます重くなる。
くたくたな身体を引きずるような帰宅途中、公園の脇を歩いて、やっぱりそこにマエダが街灯の下で、なんだか幸せそうにしているのが見えた。
無性に腹が立った。一日の疲れが怒りに変わった。
わたしは公園に入ると、真っ直ぐマエダを目指した。先輩、こんばんは、なんて間抜けな挨拶に、昨日とは別の、くたびれ傷だらけのローファーで返事代わりの蹴りを入れた。けれども、やっぱり力は全部タマゴに吸い取られた。畜生、ほんっとに腹が立つ。
「何がこんばんは、だ」
ハハハ、とマエダは笑った。「機嫌悪そうですね」
「最低、最悪」
「だからって僕に当たらないでくださいよ」
「アンタに当たらず誰に当たればいいのよ」
「僕はサンドバックですか?」
だからわたしはマエダを拳で叩いた。何度も叩いた。
「そう、アンタはサンドバック。幾らでも叩いてやる、なんならこの悪趣味な殻にマジックで書いてやる、殴ってくださいって」
ハハハ、とマエダは笑った。面白いジョークを聞いたとでも云いたげにマエダは笑った。その笑い声を聞いて、わたしは急に何もかもがバカらしくなった。
すっかり脱力したわたしは、だから昨日と同じようにベンチを軽く払い、座ってタバコを吸うことにした。
タバコを半分くらい灰にして、わたしは云った。「アンタの退職、受理されたから」
はい、とマエダは云った。「お手数おかけしました」
わたしは煙を吐きながらちょっと笑った。マエダはズレてるし、寝癖だし、前歯が出てるけど、根は丁寧だ。
「先輩」
「何よ」
「笑うと、すごく可愛らしく感じますね」
「口説いてるの?」
わたしはくわえタバコのまま立ち上がると、昨日と同じように表面を両手で撫で廻して、どこかに穴でもないかと探した。「アンタ、どっから見てるの? 呼吸は? 食事は? どうしているのよ」
やだなぁ。
マエダは云った。「違う世界のモノに、自分の尺度を当てはめてもダメですよ」
わたしはふう、と唇の端をひしゃげて、横へと長く煙を吐いた。「アンタ、楽しい?」
暫くマエダは黙っていた。だからわたしも黙っていた。公園のどこかで、虫がちりちりと鳴いていた。
「悪くないですよ」
「良くもないってこと?」
「そうでもないです」
「はっきりしないヤツだな」
わたしはタバコの火を消し、携帯灰皿に放り込んだ。「帰る」
「怒りました?」
立ち去りかけたわたしにマエダが云った。
振り返ることも無く、黙ってわたしは公園を後にした。
※
その晩、夜中に目が覚めた。暗がりの中で印をつけてやろうと、ふと思った。
それは直ぐに、あまりにも強烈な意思になった。疑問なんて無かった。そうしなければならないと思った。明かりもつけずに手探りでカッターを探し、その刃を左手首に押し当てて、押し当てて押し当てて押し当てて──さっ、と引いた。