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金の繭  作者: 長束真
5/28

5(キライ)

 翌朝、出社したわたしは部長にマエダの意思を伝えた。部長は何も云わなかった。しょうがないなとも、最近の若いモンはとか、説得してこいとも、何も云わなかった。もしかしたらわたしは何か云われることを期待していたかもしれない。いや、云ってもらわなければならなかった。なぜならあの奇妙でけったいな巨大な金色のタマゴを肯定することになるからだ。

 認めるワケにはいかない。納税者の沽券にかかわる。何が何でもタマゴは認められない。

 たった一つの例外を認めてみろ、次から次へと出てくるぜ、わたしも、わたしも、って。

 一つの例外を認めることは、ゆるやかに全てを認めることになる。試しに一度、情けをかけてみろ、ネチっこく骨の髄までしゃぶられて用済みになったら──ぽいッだ。感謝なんかされやしない。

 ネズミにチーズを与えるな。故にタマゴを認めるな。

 タマゴに篭ったマエダなんか認めるワケにはいけない。認めるワケにはいかないのだが──違う。

 そんなことじゃないんだ。

 そんなことはチットモ関係ないんだ。

 わたしは──わたしはたぶん、マエダに嫉妬している。いや嫉妬している。わたしは望んでいる。例外になることに、想定外になることに、予定外になることに。

 だけどマエダに嫉妬していると云うその事実を素直に認めるのはイヤだった。

 畜生。

 キライだ。


   ※


 学生時代、わたしは自分には抑鬱の気があると知った。

 当時付き合ってた男には、たぶんそれが原因だろう、二股をかけられて、知らぬ間に話はどんどん進んでおり、前触れもなく別れは切り出された。

 君は、面倒なんだよ。

 最後にそう云われた。

 背の高い男だった。抱きしめてはわたしの耳元で何度も愛している愛していると囁いた。その同じ口で男は云った。君ハ面倒ナンダヨ、と。

 わたしは泣きもせず、喚きもせず、ただただぼんやりと別れの言葉を聞いた。大学近くのカフェだったような気がする。もしかしたら色気も何もない騒々しいファストフード店だったかもしれない。或いは学食だったかも。

 君は、面倒なんだよ。

 英語にすると、Yor are ……面倒って単語は何だろ。face and waist? これじゃ面胴だ。いや面腰だ。そんなことはどうでもいい。

 最後に泣いて喚いて駄々をこねていたら、何かが変わっていただろうか?

 二十歳の誕生日、祝ってくれる家族の元へ帰省したわたしは、母に自分の気質を打ち明けた。

 その時、母はわたしに呪いをかけた。

 母にしてみれば、励ますつもりだったのだろう。

 ごめんなさいは云わない。

 こんな娘に育ってしまったことは申し訳なく思うけど、どうにもならなかった。

 ひどく気分が塞ぐ時は自炊しなかった。刃物が怖かったから。刃物を持つことが怖かったから。それだったらくうくうお腹を鳴らしている方がずっと良かった。

 正気の境を越えるのは、些細なきっかけで充分だ。いわゆる魔が差すとは、それを云うのだ。

 自分はまだ大丈夫、まだ大丈夫──そう思っていた。そうして今まで生きてきた。だが、魔が差した。ひと月くらい前だろう、母譲りの細くて生っ白い手首に刃を当てたのは。

 たまたまそこに手首があって、たまたまそこにカッターがあって、たまたま……それを手首に押し当ててみただけ。

 以来、わたしの左手首には、赤い印が途切れない。

 繰り返される例外は、いつしか例外でなくなる。非日常が続けば、それは日常になる。

 刃物を当てて思う。透けて見える血管を裂いてみたい。或る時、目的と手段が入れ替わっているのに気付き、少し笑った。

 いつか深く切るだろう。深く切って、ぼたぼたと血を滴らせ、たぶんわたしは笑うだろう。その様を見て、たぶんわたしは嬉しく思うだろう。

 やっちゃった、やっちゃった、やっちゃった。

 頭の中で沢山の小さなわたしが、手をつないで輪になって、ぐるぐるぐるぐる踊り跳ねるのだ。

 やっちゃった、やっちゃった、やっちゃったぞー。

 それは遠くない未来のこと。こんなことを繰り返すわたしの未来のこと。けれども今更、手首に赤い印がないことなんて考えられない。

 赤い印は、狂気の縁をゆるゆると歩いているわたしを、ぎりぎりの正気へとつなぐ、たぶん最後のお守りだ。

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