26(祝福)
わたしはゆっくりと身体をマエダから離した。それから月明かりに輝く金色の繭に向かって云った。「せっかくだけど、遠慮するわ」
そうですか、とマエダは云った。その声に落胆とか失望は感じなかった。
「ここでお別れだよ、マエダ」
ええ、とマエダは云った。「楽しかったです、先輩」
「疲れたし暑かったけどね」
ハハハ、とマエダは笑った。つられてわたしも笑った。
「気が変わったら、いつでも来てください」
「そう云ったって、海じゃ広すぎるよ」
「大丈夫ですよ」
マエダは云った。「時間はたっぷりありますから」
「そうね」
わたしはマエダを押した。ごろりと、マエダは転がった。砂の上を転がり、寄せては返す白い波に触れ、マエダは海の中へと入っていった。
「先輩」
「何?」
「お世話かけました」
おう、とわたしは手を上げて応えた。
マエダは波に合わせて揺れながら、浮きもせず、どんどん海の中へと進んで行った。
「元気でね」
「先輩も」
「うん」
「あと──」
「何?」
「優しくしてくれて、ありがとうございました」
わたしは笑った。マエダはズレてるし、寝癖だし、前歯が出てるけど、根は丁寧だ。
「どういたしまして」
素直に言葉が出た。胸の中で何かが少し暖かくなるのを感じた。
それがわたしたちの最後の会話だった。
マエダは見えなくなった。後には波の音、海の音だけが残った。それはこの星の鼓動のようで、ゆったりと一定のリズムで、止まることもなく繰り返される。
マエダはこれからどこへ行くのだろう。
言葉通りに、深い深い海の底へと行くのだろうか。
一人で。
一人きりで深い海の底へ。
光すらも届かない、誰も行ったことの無い、深い深い水だけの世界へ──。
マエダ、と呟いた。
呟いたら、不意に胸の奥に込み上げる何かを感じた。
マエダ。
くりっとした目の愛嬌ある顔立ちで、少し出っ歯で、寝癖のついた頭で出社するようなヤツで、でも憎めなくて、何度か叱ったりしたけれども、仔犬みたいな目で見つめられてちょっと内心たじろいだり、家が同じ方向だったから一緒に帰ることもあったし、夜道ですから送りますよなんてそんなセリフが似合わない、可もなく不可もなく、正直面白みに欠けるところが多々あって──。
なぜ、わたしはマエダの提案を受け入れたのだろう。
なぜ、マエダと一緒に海に来たのだろう。
何かが変わる、そんな甘い期待がなかったと云えばウソになる。けれども、本当にそれだけだったのだろうか。
マエダ、マエダ、マエダ。
呟いて、わたしは理解した。
わたしは、マエダが可愛かったのだ。
可愛かったから、叱ったり、蹴ったりした。
でも、可愛かったから、マエダの面倒を見たのだ。
それは損得の次元じゃない。理由や理屈だとか、そんなモノじゃない。それはわたしの、わたしの中の深いところで起きたことなのだ。
わたしはマエダのことが愛おしかったのだ。
だからマエダのいなくなった今、わたしの胸の奥は、大きな喪失感でぽっかりあいているのだ。
マエダ、マエダ、マエダ。
母の言葉を思い出した。わたしの生れた朝のこと。
まだ目も開ききっていない小さい小さいわたし。
母の胸に抱かれて、暖かな腕に包まれたわたし。
言葉も何もかも分からないわたしを、ただただ優しく慈しみ、包み込む母。世界のことなんてこれっぽちも理解なんてしていなかったはずなのに、母のことは理解していた小さなわたし。
わたしは母に呪われていたのではない。
当たり前だ。
そんなのはわたしの一方的で身勝手な思い込み。
そんなこと、分かっていた。分かっていたんだ。
わたしは母に呪われてなんかいない。
そんなこと分かっていたけど、分かっていたけど──祝福が怖かった。
わたしがその祝福を受けるに相応しいのかと。わたしのような人間が祝福を受けていいのかと。
あの日のほとばしった水道水のカルキのにおい。
わたしのような人間が、祝福を受けるのに相応しいのかどうか──そればかり考えていた。
それが、答えだ。
わたしは、自身を赦せない。わたしのような人間は呪われるのが相応しく、祝福されるなんてことはあってはならない。罰せられるべきなのだ。そうでなければならないのだ。
だけど──だけど。
こんなわたしだけれども、理由も理屈もなく、祝福してくれる、受け入れてくれる人がいる。わたしがマエダを愛おしく思ったそれと同じように──。




