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金の繭  作者: 長束真
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2(カモシレナイ)

 十分、二十分とは云えわたしはよく遅刻する。その原因が決して寝起きの悪さにあるワケじゃない。月曜日の朝はマニック・マンデー。先月は間違えて二度、生理痛になった。誰にも指摘されなかったけれど、誰かは気付いているかもしれない。でも笑っちゃうくらいのサービス残業ゆえに、遅刻が多くても別段とがめられない。そもそも遅刻常習者はわたしだけでないのだ。その残業時間からすれば上司も黙認。|モーニング・トレイン《Nine To Five》なんて唄の中だけの世界。まったくもってフレックスにしないのが不思議。

 遅刻と残業。プラスマイナスゼロ。

 いや、残業時間の方が遙かに多いマイナス労働。労組なんてカタチもない。

 残業の残業で多忙を極めた時、社内のトイレで一人、ひっそり泣いたことがあった。なんでこんなに苦しいのだろう、なんでこんな仕事を選んだのだろう、なんでこんな仕事を続けているのだろう、と。

 就職氷河期だなんて呼ばれた時代にもぐりこんだ会社。苦労の末に貰った内定? 違うと思う。就活の苦労なんて忘れた。なんとなくの積み重ねとその結果。ぼんやりとした不安なんて誰だって抱えているだろう。不満なんて誰だって抱えているだろう。けれど、それらを全部飲み込んで生きていけるほどわたしは強くないし、そんな強さなんて正直、欲しくない。だから給料明細を貰うたびにアリガトウゴザイマス、その言葉が出ない、出せない、出したくない。同年代と比べ、給与は決して低いワケでも高いワケでもない。けれど給与に満足したことなんて一度もない。なのに自分に値段をつけられない、つけたくない、つけるのが怖い。それどころか、貰っている給与に相応しい自分であるのかどうか不安になったりする。わたしはいつだってアンビバレンス。骨をうずめる覚悟も無ければ飛び出す思いきりの良さも無く、時間だけを無駄に捨てていく。

 労働はヨロコビだ。

 最低の(ナイス)ジョーク。

 みんな分かっている。労働なんてしなくていいなら誰もしたくない。満員電車、通勤時間、人間関係、毎日の繰り返し。何も思い描けずにいずれ訪れる、くたびれきった自明の未来。

 生活に軽いストレスは大事です。

 あらそう? 是非ともその程度とやらを教えてよ。どこまでが軽いの? どこから重くなるの? 重さなんて測れるの? 答えてよ、誰か。

 行き場の無いままわたしはぐだぐだ生きている。いつだってわたしは覚悟が足りない。だから時折、夢想する。もし覚悟が足りていれば、今頃もっと違う道を歩いてたカモシレナイ。そんな可能性なんて思うことすら無意味なのは分かっている。けれども夢想せずにいられない。カモシレナイ世界を夢想せずにいられない。

 この負け犬負け犬負け犬!

 マゾじゃないけど罵倒されたい。そうすればわたしの中で何が変わるカモシレナイ。

 お前はダメだダメだダメだ!

 でも何も変わらないカモシレナイ。

 とどのつまり、十二分に、わたしは負け犬。


   ※


 昼過ぎ、喫煙室を兼ねる休憩室から戻るところで部長に呼び止められた。正直、部長は苦手。

 いつもきっちりとしたネクタイの結び目、七宝焼のタイピンにノリの利いた染みひとつ無い無地のワイシャツ。折り目で紙でも切れそうなスラックスに、年相応に少し突き出たお腹を黒革のベルトで締めている。髪もやっぱり相応に後退しているものの、いつだってぴっしりと整えられ、首の襟足が伸びていたことも、無精ヒゲも、たったの一度だってお目にかかったことがない。背筋をピンと伸ばして、その姿勢の良さは時々休憩室で話題になるくらいだ。デスク周りも、無秩序大混乱を極めるわたしのそれとは真逆の、全くもって整理整頓の大看板が掲げられている見本市。

 その部長がわたしを真っ直ぐ見て云った。「お前の使ってる駅近くの団地のそばに、時計台のある公園あったろう?」

「ええ、」何の話か掴めぬまま、わたしは首を縦に振った。「ありますが、」

「帰りに寄ってくれないか、早退してもいい」

「どこに?」

「公園」

「なぜ?」

「マエダがいる」

 マエダは分かるが、話が見えない。

「どういうことですか?」

 部長は眉を八の字に寄せた。意訳すれば聞くなと云うこと。部長は続けた。「マエダに会って、話してこい」

 なんでわたしが。

 だが、部長はもう話は終わったものとして、わたしを置いてさっさと歩き去った。とどのつまり、話の中身は辞めるかどうかってことだろう。しかし公園だって? ルンペンでもしてるのか。

 その日の午後、わたしは気もそぞろだったので部長の言葉に甘え、五時前に早退した。遅刻して早退するわたしを、部長はちらりと一瞥しただけで何も云わなかった。

 マエダが公園にいる。

 それは想像できた。昼下がり、公園のベンチに座って、何をするわけでなく、ニコニコ笑いながら、ただそこにいるマエダの姿。昨今、ホントにそんなことをしてたら職質されるのがオチだろう。

 まさかあの人が……!

 マエダならありうる。人畜無害に見えるから。

 マエダならありうる。罪を犯すように見えないから。

 そう見えないから、まさかのあの人になる。その時はわたしも首から下だけをブラウン管に映し、幾多ものマイクに囲まれてインタビューに応えよう。でも音声は変えてもらおう。

 同じ職場の先輩のコメント。

「まさかあの人が……」

 ちょっと涙ぐんでみてもいい。

「全く考えられません、間違いじゃないですか? まさかそんなことをマエダ君が……」

 ひと呼吸。咽喉をひくっと震わせる。

 それから、ふと、思いついたように「あ」と一言。「そう云えば……」

 これで視聴率はうなぎ登りだ。謝礼の一つくらい要求したってバチは当たるまい。

 バカなことを考えながら、定期を掲げて駅の改札を抜けた。夕方の駅前、ここ数週間でだいぶ日が延びた。

 わたしは左手首に巻いた腕時計を見た。午後の六時ちょっと前。昨夜の傷はカサブタになっていた。

 いつしかこの小さな赤い印を見ると気分が落ち着くようになっていた。逆に、小さな赤い印が無いと不安になった。だから消えかかると、また新たに印を作る。それはぐるぐると終わりの無い連鎖。印のない左手首なんて、もう考えられない。

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