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金の繭  作者: 長束真
19/28

19(下衆)

 小さな小さな染み。ちょっとの落胆を引きずりながらトイレのドアを開けて廊下に出た。窓から差し込む夕焼けが廊下一面を染めていた。それを窓枠の落とす長くて黒い影が区切っている。

 二人の男子が、背を向けて立っていた。

 二人の足元には、背をまるめてうずくまっている、一人の男子。

 二人の男子は学生服のポケットに手を入れ、汚い上履き、足でうずくまる男子を小突き廻していた。

 ──止めないと。

 本当にそう思った?

 本当に止めようとした?

 わたしは、ただ見てるだけだった。何もしなかった。何も、出来なかった。どうすべきかも分からなかった。

 小突かれているのは、違うクラスの男子だった。

 ちょっと苛められ易い感じの男子──そんなのは理由にならない。でも、本当に蹴られたりする姿を見たのは初めてだった。話したことも無いけれども、そんな姿を見て──わたしは別段、可哀想と思わなかった。

 驚いて頭がマヒした?

 まさか。

 セーラー服の、ほんの小さな小さな染みばかり気になっていた十四歳のわたし。

 何も感情は無かった。

 小突いていた二人が振り返る、自分の姿を認める。何か云った、このくらいにしておいてやるか──たぶん、そんな捨てゼリフ。

 立ち去る二人。

 うずくまってた男子、廊下のホコリで白くなった学生服、二人の姿が見えなくなる、ゆっくり立ち上がる。

 その時、はっきりわたしは見た。

 立ち上がった男子。振替って向けたその目、その顔、その表情。

 わたしは何も出来なかったし、何もしようと思わなかった。職員室に行こうとも、保健室に連れて行こうとも──何もしなかった。

 わたしは何も、しなかった。


   ※


 鼻の奥で、あの日の蛇口から跳ねた金気くさいカルキのにおいが甦る。

 膝ががくりと折れた。立っていられなくなった。しゃがみ込んで、あの日の小突かれてた男子と同じように背中を丸めた。

「わたしは、何もしなかった」

 言葉が勝手に口から零れた。せり上がる涙がじわりと世界を滲ませた。

 何もしなかったのは都合のいい云い訳。

 振り返った男子の顔。

 どうしてそこに突っ立ってるだけなんだ?

 非難。

 オマエも同じなんだ、アイツらと。

 わたしは口を開きかける──でもつぐんだ。男子の目が、真っ直ぐわたしを射すくめた。

 口先だけで、何もしない。偉そうな振りして、何もしない。自分は特別と思って、何もしない。

 つい、と男子は背を向け、廊下の向うに消えた。

 立ちすくんだまま、十四歳のわたしだけ、そこに残された。


   ※


 あの日、あの時、あの場所で起きたこと、それがわたしの罪──こぼした給食の染み、水道水のカルキのにおい、そして都合のいい云い訳。

 わたしは唇を噛んで、咽喉の奥から漏れそうな声を懸命に堪えた。でも、涙は堪えきれずに頬に零れ落ちた。

「わたしは、何も、しなかった」

 切れ切れに、言葉を紡いだ。

 十四歳のわたし。学級委員なんかやって、色々提案しては、率先してクラスをまとめようとした十四歳のわたし。何もしなかった十四歳のわたし。

 白くなった学生服の男子、彼の全てを見透かしたようなあの目、あの顔、あの表情。

 欠落していた記憶。反感を買ったのは、自分の意見をキチンと伝えようとしたことじゃない。そんなことは関係ない。全ては、ただ何もしなかった、わたし自身。

 ──本の読み過ぎじゃない?

 母の声。眼鏡を買って貰った日。ちょっと悪くなったみたい、なんか見えにくいの。

 ──この前の視力検査はどうだった?

 ──少し乱視が入ってるって。

 ──本は明るいところで読むようにするの。

 ──うん、そうする。視力、下げたくないもん。

 嘘だ。

 眼鏡が、純粋に欲しかったんだ。

 見えない振りをしていただけなんだ。見えない振りをしていたいだけなんだ。世界と自分を隔てるものが欲しくて、わたしは嘘をついたんだ。

 あの日が起点だったのだ。今のわたしの全ての。

 惨めだった。

 なぜ、忘れていたのだろう。なぜ、今になって思い出したのだろう。

 わたしはとんでもない下衆だ。

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