16(秘密)
夜の街は静かだった。
時折、思い出したように、遠くで車やバイクの走る音が響くだけだった。
歩き始めて直ぐに汗が出たはじめた。首に巻いたタオルで顔を拭う。早々にめげそうになる。そんなわたしを慮ってか、マエダは色々と話しかけてきた。それはとりとめのない話だったり、バカ話だったりして、そのうち二人で唄い出す始末。わたしは心地よく壊れた。
マエダは重いし、しかも注意しないと突起のせいで明後日の方向に転がるし、正直やってられない。けれども、それはそれで案外楽しいことだと、頭の片隅にそんな思いもあった。わたしはいつだってアンビバレンス。
道すがらにぽつりと立つ信号は、三色を規則正しく順繰り照らしていたのに、今や赤か黄のみを点滅するばかり。時計を忘れたことに今更ながら気が付いた。時間が分からないことにちょっと不安を憶えたけれど、これは原始の生活だ。さすがにタヌキを弓で仕留めて、皮をはいで食べるなんてしないけど、そうしなきゃならないことに比べたら時計なんて些細なこと。
わたしはマエダに、マエダのことを訊いた。
生れたところや、どんな子供だったのか、家族は、学校じゃどんなクラブに入ってた? 友達は? 勉強は何が得意だった? 好きな授業とか、尊敬していた先生、そうそう、好きな子とかいた?
※
僕が生れたのは、母が云っていたけど、夏の夕方だそうです。バケツをひっくり返したみたいな夕立と雷の鳴る中。
大人しい子供だったようで、絵本を与えていれば、ほったらかしにしてたそうです。家族は妹が一人。ちょっと年の離れた妹で、今年、高校生になったかな。父さんと母さんは、僕が中学校に上がる頃に離婚したんです。
僕は父さんについて行きました。妹は母さんに。
父さんは一昨年、死にました。だからまぁ僕は天涯孤独みたいなものですね。え、先輩が謝るようなことじゃないですよ、母とも妹とも会っているし、父さんの一周忌にはみんなで揃いましたよ。
友達は、普通にいたと思います。年賀状なんかやりとりしてたし。でも、僕は地元をずっと離れて、だからもうかなり皆と会ってないなぁ。
部活は、合唱やってました。意外? これは秘密ですよ、先輩。ハハハ、たいそうな秘密じゃなくてすいません。
好きな人、いました。高校の時。同じクラスのタカギさん。可愛いかったですよ、それは間違いないです。肩まで伸ばしていた髪がとても柔らかい感じで、風の日なんかふわってカーテンみたいに綺麗に揺れて──。
好きだったんです、彼女こと。結局、卒業しても気持ちは伝えられませんでしたけどね。僕も人並みの青春はあるんですよ。先輩、笑いすぎ。
※
それからわたしたちは、小学校とか中学校で教科書に載っていた懐かしい唄を、二人で唄った。マエダがわたしの音痴を指摘した。知るか。
そんな風にずっと呑気に時間が過ぎれば良かったけど、海へ行くと云う言葉にすると単純で明快な、たったそれだけのことであるマエダの提案は甘いものでは無かった。
疲れと足の痛みで、だんだんわたしは無口になった。
夜とはこんなに長かったのだろうか。
明けない夜はない、とは良く耳にするが。何度か云われたことはあるが。きっとそんなことを云うヤツは本当の夜を知らないに違いない。明けない夜はあるのかもしれない。
お疑いなら一緒に歩いてみませんか? どうぞどうぞ、一緒に一晩歩きましょう。今なら四日間コース、承っております、四日間ですよ。真夜中ずっと歩くんですよ。いかがです? それからだって遅くないでしょう、明けない夜はない、なんて云うのは。途中で錯覚しますよ、夜ってのは起きているものには永遠じゃないのかって──。
実際のところ、夜中に布団の中へ潜り込んだ自分と、翌朝目覚めた自分は、まったく別なものなのかもしれない。昨日の自分と同じだなんて、そんな保証はどこにあるの?
寝ることを小さな死と云ったのは誰だったろう。
死に大小があるとは思えないけれども、寝ることが死であることには共感するところがある。だからずっと起きている者に、夜は永遠なのカモシレナイ。生きている間はずっと夜なのカモシレナイ。
誰も気付かなかっただけで、それはあまりにも巧妙に仕組まれたこの世界の仕組み。暇な神様のやりそうなこと。
何度目かの休憩で、わたしはふと、今来た道を振り返った。街の明かりは遠くに見えた。
不意に、足下が薄ぼんやりと見えるようになっているのに気が付いた。何か不思議な気持ちになった。それが夜明けの兆しであることに暫く思い当たらなかった。一晩、歩き続けたのだ。
わたしは道端にしゃがみ込むと、背中をマエダに預けて、ふくらはぎを揉んだ。かなり疲れている。当初のスケジュールは見通しが甘かった。地図を確認して予定以上に進んでいないことを知った。そもそもインドアの自分には何もかもが無謀すぎたのだ。後悔。海は遠い。遥に遠い。
地図を睨みながら、うだうだ考えた。何しろくたくたで、なにもかもうっちゃって、自宅に帰って布団に潜り込みたくなった。
「先輩?」
心配そうにマエダが声をかけてきた。応えるのも億劫。返事代わりに呻いてみた。「んー」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないね」
わたしの言葉に、マエダは口をつぐんだ。
水を口に含み、わたしは勢いをつけて立ち上がった。それから、丸棒をマエダの下に入れて、よいせっと力をかけた。
力をかけたが、力が入らなかった。
「ダメだー」
わたしはマエダに寄り掛かって云った。「もう疲れた」
「今日は、このくらいにしませんか?」
わたしはマエダの言葉に応えず、空を見上げた。
それは不思議な光景だった。




