10(半人前)
部長云い出しの、暑気払いを兼ねた飲み会に誘われた。
個人的に数人で飲むのは嫌でなかったけれど、会社で飲みに行くとなると、わたしは往々にして避けていた。けれども今回は参加することにした。参加者を確認して廻っていた幹事役の目が少し、ほんの少し丸くなったのに気が付いて、憂鬱な気持ちになったけど、結局、断らなかった。終業後、会社近くの居酒屋、部署の半数以上が集まった。
わたしはテーブルの端に陣取り、静かに呑んで、静かに食べていた。隣に部長がいて、やはり同じように静かに呑んで、静かに食べていた。
周りは楽しそうに、話したり、呑んでいた。
こういう場は嫌いと云うほどではなかった。
楽しそうな人を見るのはイヤではなかった。
誰かが面白いことを云って、それに小さく笑って、でも話の輪に加わらないように、静かに呑んで、静かに食べる。
「最近、印象が変わったな」
不意に、部長が口を開いた。
「そうですか?」
胸の内が一瞬で冷えた。わたしは箸をゆっくり置いて、汗をかいたビールのグラスを手にして云った。「自分じゃ分からないですね」
平静に見えただろうか?
それとも失敗した? 酔った所為に出来そう?
部長もビールのグラスを手に取り、「少し前まで、だいぶ根詰めてた感じだった」
わたしは曖昧に笑ってみせた。隣で同僚が「彼氏でもできたの?」なんて云ってきたから、そんなことないよ、とやっぱり曖昧に笑った。
「一人なの? 勿体ないなァ」
やめてよォ。
わたしは手を振って云った。けれども、胸の奥で痛みを感じ、すぐにそれは泣きたい気分になった。
わたしを、話の輪に加えないで。話の中心に連れ出さないで。だからテーブルの端にいるのに。だから部長の隣にいるのに。
「あまり、自分を追いつめるなよ」
部長は云った。
ええ。
わたしは小さく頷いてグラスに口を付ける。口の中に苦味が広がる。部長の顔が見られなかった。だからその晩、小さな印を手首につけた。少しの血が手首を伝った。
なんて面倒なんだろう。褒められてもけなされても、認められても無視されても、波のようにゆらゆら揺れる。部長の言葉が、頭の中で何度も行き来して、どうしても押さえつけることが出来なかった。
※
八月になって盆を控えた日曜日、公園で祭りがあった。
目抜き通りに露店が出て、神輿が担がれ、道路は一時封鎖され、祭囃子が聴こえた。
妹に誘われた。
わたしは左手の小さな印にバンソウコウを貼り、実家に帰って、妹にお土産のアイスをあげて、母と話しをした。庭に夏の盛りだと云うのにうつむき加減でそこはかとなく、くたびれた感じに見える背の高いヒマワリが咲いていた。
母に会うたび老けた、と思う。わたしが実家を遠ざける理由の一つにそれがある。
父も母も、年々、老いて行く。祖父となり祖母となり、年々、老いて行く。
あと何回、ヒマワリの大輪が咲くのを一緒に見られる?
あと何回、黄色くなった街路樹の下を一緒に歩ける?
あと何回、雪で町が白くなるのを一緒に見られる?
あと何回、桜の舞い散る並木道を一緒に歩ける?
父も母も、年々、老いて行く。そんなこと自明だ。
そんな事実を認めたくないと云うほど子供ではないけど、素直には受け入れ難い。いつまでたっても子供扱いされることに憤りを感じなくは無いけれども、両親が老けるのはイヤなのだ。認めなくない自分に苛立つ。
わたしは時々、母の人生を考える。
母は、幸せなのだろうか。
母は、楽しいのだろうか。
そんなこと、わたしの知ったことじゃないけど、父の元に嫁ぎ、三人の娘を産み、育てた母。
わたしの生れた朝の話を思い出し、今も変わらずそう思っているのか尋ねたいと思った。
アナタの娘は、手首に小さな傷をこさえてばかりですよ。小さなね。一度、深く切っちゃったけどね。なぁに、一度だけですよ、一度だけ。大丈夫です、傷は治りましたから。あ、でもちょっと痕になってるかなァ。まぁそれでも大事に至っていないのは、アナタの呪いのお蔭ですよ。
つまらないことだ。自分の残酷さに吐き気がする。
母から洗濯を頼んでおいた浴衣を受け取る。アンビバレンス。子供でいたくない自分と、子供のまま、母の娘でありたいと思う自分。わたしは都合よく母を使っている。ありがとうだなんてにっこり笑う最低の娘。
以前、母は、家庭を持ち、子をなしてやっとヒトとして一人前だと云った。それが正しいのならば、わたしはずっと半人前。いつまでたっても子供のまま。姉は一人前で、いずれ妹も一人前になる。そしてわたしだけが半人前。
妹と二人、母に手伝ってもらいながら浴衣姿になった。父が写真を撮ろうなんて云い出したから、娘二人で唇を突き出して拒否した。妹も、最低。




