1(少し羨ましかった)
金の繭
カッターの刃をチキチキと押し出す。銀色のそれを左の手首にそっと添える。軽く押し当て、刃先を見つめて、呼吸を止めて、すっと引く──つもりが、どうしても上手くできない。小さく、薄く切れただけだった。いつだってわたしは覚悟が足りない。
二十歳になったわたしに母は云った。わたしが生まれたその日のことを。
「なんて可愛いのだろう」
生まれたばかりのあなたを見てそう思った。小さな手と小さな足、小さな身体に小さな頭。とても嬉しかった。とても幸せだった。世界で一番だと思った。世界中がお祝いしてくれるようだった。
母は続けた。姉が生まれた時も妹が生れた時も同じように感じたと。
優劣はつけられない、みんな特別、大切な子供たち 。
微笑む母の記憶。見下ろした左の手首。刃の痕、細くて赤い一本の線。鼻の奥の深いところで、水道水の金気くさいカルキのにおいを感じた。
強く刃が入らない。
手首に刃を当てるたび、母から聞いたわたしの生まれた朝のことを思い出す。わたしは母に呪われている。母の呪いがわたしを躊躇わせる。母にとっては祝福であっても、わたしにとっては呪いだった。
※
紺のジャケットの下は衣替えでも長袖ブラウス。薄く引いた口紅、一通り梳いたセミロングの髪。プラスチックのバレッタで束ね、眼鏡の位置を直しながらうつむき加減、十分遅刻で出社した。並んだ数字、不揃いのタイムカード。今日もマエダは休んでいた。
この春、入社したばかりでいよいよ引き篭ったか。
月曜から数えて三日目。連絡なし。五月じゃなくて六月に消える、マエダは少しズレている。
先週末、金曜の晩にマエダと駅前で呑んだ。
二人で呑んだのは二度目。ぐにゃりとマエダは酔っぱらっていた。わたしもハイになっていた。
かなり気分が良かった、奢ってやった、マエダは割り勘を提案した、レジ前で押し問答した、わたしが勝った、マエダは悔しそうだった、次は僕が払いますだなんて──。
いずれにしても、社内でマエダに最後に会ったのはわたしだ。
酒の席で何度かマエダを小突いた憶えはある。出社拒否はそれが原因? だとしたらマエダは男を下げた。
くりっとした目の愛嬌ある顔立ちで、少し出っ歯で、寝癖のついた頭で出社するようなヤツで、でも憎めなくて、何度か叱ったりしたけれども、仔犬みたいな目で見つめられてちょっと内心たじろいだり、家が同じ方向だったから一緒に帰ることもあったし、夜道ですから送りますよなんてそんなセリフが似合わない、可もなく不可もなく、正直面白みに欠けるところが多々あって。
そのマエダが引き篭もった。
わたしは変わらず出社する。
マエダが少し羨ましかった。いつだってわたしは覚悟が足りない。