第一話 私が仕えた、たった一人のお嬢様
私には、両親がいない。
物心ついた頃には孤児院にいて、両親の顔も、声も、名前すら知らなかった。
そんな私を拾ってくれたのが、ヴァレンティア公爵家のメイド長だったマルタと、その夫である料理長のロイドだった。
「今日からここがお前の家だよ」
五歳だった私に、マルタはそう言った。
小さな手を握ってくれた、温かい手。
厨房から顔を出し、
「腹が減っただろ。好きなだけ食え」
と笑ったロイドの大きな手。
私は二人を、本当の父と母のように慕った。
そして、母となったマルタの仕事を毎日眺めているうちに、私は自然とメイドの仕事を覚えていった。
廊下の掃除。
花瓶の水替え。
食器の片付け。
衣服の整理。
五歳の子供にできることなど限られていたけれど、それでも私は母の真似をするのが大好きだった。
「まあまあ、リリアーナ。そんなに急がなくてもいいんだよ」
「だって、お母さんみたいになりたいの!」
「……そうかい」
そう言って笑う母の顔が大好きだった。
そして、私が5歳になったある日のこと。
私は人生を変える出会いをする。
「こちらが本日お生まれになったお嬢様です」
公爵家に生まれたばかりの赤ん坊。
その小さな女の子を、私は遠くから見つめていた。
ふわふわの金色の髪。
雪のように白い肌。
小さな小さな手。
「……かわいい」
思わず呟いた私に、母が笑った。
「アリシアお嬢様だよ」
「アリシア様……」
その名前を口にした瞬間。
赤ん坊だったアリシア様が、小さな手を私の方へ伸ばした。
「え……?」
私は恐る恐る、その手に自分の指を差し出した。
きゅっ。
小さな手が、私の指を握った。
「……っ」
胸が、いっぱいになった。
その日から。
私はアリシア様の成長を、ずっとそばで見守ることになった。
アリシア様が三歳になれば、着替えを手伝った。
四歳になれば、髪を結った。
五歳になれば、正式にお付きのメイドとして仕えることになった。
「リリア!」
「はい、お嬢様」
「今日も一緒にいてくれる?」
「もちろんです」
「ずっと?」
「ずっとです」
5歳のアリシア様は、私の手を握って笑った。
「じゃあ、リリアは私の一番のお友達ね!」
「……はい」
私は笑った。
けれど、本当は少しだけ違う。
お友達ではない。
私はお嬢様のメイド。
そして――
誰よりもお嬢様を大切にする、家族だった。
*
月日は流れた。
アリシア様は美しい令嬢へと成長した。
そして私も、正式な侍女となった。
アリシア様が学園へ入学すれば、私も付き添いとして学園へ通った。
もちろん、私は生徒ではない。
授業を受けることもない。
けれど、朝はお嬢様を起こし、制服を整え、髪を結い、昼には食事を用意し、放課後にはお嬢様を迎えに行く。
そんな毎日だった。
「リリア」
「はい」
「今日の髪、どう?」
鏡の前で、アリシアお嬢様がくるりと振り返る。
「とてもお似合いです」
「本当に?」
「はい。今日も世界で一番お美しいですよ」
「もう、リリアったら」
頬を赤くするお嬢様。
私は微笑んだ。
そんな日々が、永遠に続くと思っていた。
――卒業式の日までは。
*
「アリシア・フォン・ヴァレンティア!」
卒業式が終わった直後。
突然、大勢の生徒が見守る中で、第二王子レオンハルト殿下が声を上げた。
「お前との婚約を、今この場で破棄する!」
会場がざわめいた。
「殿下……?」
アリシア様の顔から、笑顔が消えた。
私はすぐにお嬢様の一歩後ろへ立った。
「理由をお聞かせください」
お嬢様は震えながらも、気丈にそう言った。
すると殿下の隣にいた少女が、一歩前へ出た。
男爵令嬢、ミレーヌ・ロザリア。
「アリシア様は、私を虐めました」
「……え?」
「教科書を破られました。廊下で突き飛ばされました。殿下との婚約を理由に、何度も嫌がらせを受けました」
次々と並べられる罪。
けれど。
私は知っている。
全部、嘘だ。
私はずっとお嬢様のそばにいた。
そんなことを、お嬢様がするはずがない。
「殿下、お待ちください!」
私は思わず声を上げた。
「アリシア様はそんなことをしておりません!」
「貴様は黙れ!」
殿下の怒声。
「主人を庇いたい気持ちは分かる。だが、証言者は他にもいる!」
「ですが――」
「リリア」
お嬢様が私の袖を掴んだ。
「もういいの」
「お嬢様……」
「大丈夫だから」
そう言って笑った。
でも。
その笑顔が震えていたことを、私は知っていた。
結局。
お嬢様は反論することも許されず、婚約を破棄された。
そして翌日。
「アリシア・フォン・ヴァレンティアは、本日をもって王都から追放する」
父である公爵閣下から告げられた言葉に、お嬢様は何も言わなかった。
領地へ。
王都から遠く離れた、何もない土地へ。
それが、お嬢様に与えられた罰だった。
「私も参ります」
私は迷わなかった。
「リリア……」
「私はアリシア様のメイドです」
荷馬車へ乗り込むお嬢様に、私は微笑んだ。
「どこへ行かれようと、私はお側におります」
「……ありがとう」
その日。
私たちは王都を出た。
*
そして。
その旅は、二日目の夜に終わった。
夜の森を進んでいた馬車が、突然、大きく揺れた。
「きゃっ!」
お嬢様の身体が座席から投げ出されそうになる。
「お嬢様、おつかまりください!」
私は咄嗟にお嬢様の腕を掴み、こちらへ引き寄せた。
直後。
馬車の外から、怒号が響いた。
「止まれ!」
馬の嘶き。
御者の悲鳴。
剣がぶつかり合う音。
「何事ですか……?」
お嬢様が不安そうに私を見上げる。
「お嬢様、どうかこちらに」
私はアリシア様を背中に庇った。
次の瞬間。
馬車の扉が乱暴に開かれた。
暗闇の向こうから、黒い影が飛び込んでくる。
その手には、鈍く光る刃が握られていた。
「お嬢様、危ない!」
私は考えるより先に、アリシア様の前へ身を投げ出した。
鋭い痛みが、胸から背中へ突き抜ける。
「……っ」
息が詰まった。
身体から力が抜け、私はその場に崩れ落ちた。
「リリア!」
アリシア様の悲鳴が響く。
倒れた私を、アリシア様が必死に抱き起こした。
「リリア、しっかりして! リリア!」
「お嬢様……」
声が震える。
視界が滲み、目の前のお嬢様の顔がぼやけていく。
それでも、泣き濡れた青い瞳だけは、はっきりと見えた。
「どうして……どうして私を庇ったの……!」
「……お嬢様を、お守りするのが……私の役目ですから」
「嫌よ……! そんなの嫌! 誰か、誰か助けて!」
アリシア様の声が遠ざかっていく。
身体が冷たい。
指先の感覚がなくなっていく。
それでも、アリシア様が私の手を握ってくれていることだけは分かった。
「リリア……お願い、目を開けて……!」
「お嬢様……」
「リリアーナ!」
初めて出会った頃から、何度も聞いてきた声。
幼い頃、私の名前を呼んでくれた声。
嬉しい時も、悲しい時も、いつも私を呼んでくれた声。
「リリアーナ、死なないで!」
「……お嬢様」
「お願い……私を置いていかないで……!」
泣かないでください。
そう言いたかった。
大丈夫です、と伝えたかった。
けれど、もう声が出なかった。
意識が、ゆっくりと闇へ沈んでいく。
アリシア様の声だけが、遠くから聞こえていた。
「リリアーナ……!」
その声を聞きながら、私は思った。
来世があるのなら。
もう一度、生まれ変われるのなら。
私はまた、お嬢様に仕えたい。
お嬢様の髪を結い。
お嬢様の服を整え。
お嬢様の隣を歩き。
今度こそ、最後までお嬢様をお守りしたい。
たとえ、どんな姿になっても。
どんな運命が待っていても。
私は――
もう一度、お嬢様のそばにいたい。
「……来世も……お嬢様に……」
そこで、意識が途切れた。
*
「お嬢様!」
誰かの声が聞こえた。
「お嬢様、目を覚ましてください!」
遠くから、何度も呼びかけられている。
私は重い瞼をゆっくりと開いた。
視界に入ったのは、見慣れた天井だった。
柔らかな布。
花の香り。
そして、心配そうにこちらを覗き込む女性。
「まあまあ! 目を覚まされました!」
「お嬢様、大丈夫ですか?」
聞き覚えのある声。
けれど。
私はその声を知らない。
……いや。
知っている。
ずっと昔。
まだ私が幼かった頃。
今はもう公爵家にはいない前のお嬢様付きのメイドの声。
「大丈夫ですか、お嬢様?」
「…鏡持ってきて貰える?」
「?鏡ですか?かしこまりました。」
鏡が目の前に置かれた。
私はゆっくりと身体を起こす。
鏡に映ったのは――
金色の髪。
大きな青い瞳。
小さな身体。
見覚えのある顔。
「……え?」
私は震える手で頬に触れた。
鏡の中の少女も、同じように頬へ手を伸ばす。
「……嘘」
私は知っている。
この顔を。
この声を。
この小さな手を。
だって私は――
「アリシアお嬢様」
そう呼ぶ側だった。
「お嬢様、5歳のお誕生日を迎えられたばかりなのですから、まだお休みになっていてください」
5歳。
その言葉を聞いた瞬間。
私は全てを理解した。
ここは、あの日。
私が正式にアリシア様付きメイドになった年。
つまり。
私は――
使えるべきお嬢様になっている。
コンコンとノックの音がした。
「……どうぞ」
部屋の扉が開いた。
そこにいたのは。
まだ幼い私自身だった。
10歳の私。
そしてその隣には、若い頃のマルタ。
私は息を呑んだ。
「アリシアお嬢様?」
小さな私が心配そうにこちらを見る。
私は震える手を伸ばした。
そして。
小さなリリアの頬に触れた。
「……リリア」
「はい、お嬢様?」
その声を聞いた瞬間。
涙が溢れた。
私が守るべき本当のお嬢様はいないのだと。
「どうして泣いているのですか?」
「……なんでもないの」
私は笑った。
10歳の私に向かって。
かつての私が一生を捧げた、たった1人のお嬢様として。
「ねえ、リリア」
「はい」
「私のメイドになってくれる?」
幼い私は目を輝かせた。
「はい! 私、お嬢様のメイドになります!」
その言葉を聞いて。
私は小さな手を握った。
「……ありがとう」
今度は。
絶対に守る。
あの卒業式には絶対に辿り着かせない。
あの男爵令嬢にも。
第二王子にも。
そして、私たちを殺した者にも。
大切なものを奪わせたりなんてしない。
お嬢様を必ず幸せにしてみせる。
今の私はアリシア・フォン・ヴァレンティア。
前世は公爵令嬢に仕え、彼女と共に命を落としたメイド。
私はもう一度、五歳から人生をやり直す。
私が、お嬢様の未来を変えてみせる。




